言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

灰汁をもって生きよう――「水木しげる出征前手記」から考えたこと

キリスト教はキリストのもの、仏教は釈迦のもの……
 どんなに苦しくても、どんなにつまらなくなっても自分の道を造るためにこの混乱不安の中にとどまらうではないか。キリストは、自分の道を造つたから悲壮と言ふものさ。ステパノ〔キリスト教最初の殉教者〕やツウイングリ〔スイスの宗教改革者〕が死んだつて少しも人を感動させない。
 人と生れた以上は矢張り自分と言ふものを持たなくてはなるまい。いや、自分の道と言ふものを……
 どんなに苦しくてもいいぢやないか。戦はう。戦はう。
 戦つて戦つて戦ひぬかうではないか。さうしたら道もひらけよう。
(「水木しげる出征前手記」新潮2015年8月号収録より引用)


なんであれ、創作を志すものにつきまとってくる不安というのは常にある。私なんかはしょっちゅう「このままでいいのか?」と思い、今現在の自分の立ち位置というものに自信がなくなってくる。言語による表現(小説)を志している以上そのそういう不安から逃れることはたぶんできなくて、毎日悶々としながら書き続けるしかないのだ。
私はよく、「せめて人間らしく」という言葉を使うのだけれど、水木しげるの青年期の手記では「人と生れた以上」という言葉が使われている。
「せめて人間らしく」表現することを忘れないでいたい、というのが私の想い、水木しげるの場合は「人と生れた以上」自分の道というものをしっかりもたねばらなぬという義務感か。
どちらにも言えることは、自己をしっかり保っていなければならない、ってことかもしれない。そこがしっかりしていないと、創作し続けることはできないから。

 

それにしてもこの「水木しげる出征前手記」は史料価値があるなぁと思います。戦争というものが日常の中にあった青年の思考、繰り返し「自己滅却」の必要性みたいなものを書き付けたりしてあるんだけれど、読んでいくとたぶんそれは本心というか本当の願いではなかったんじゃなかろうか、と思えてくる。時代が「自己滅却」を要請していて、それに乗れることが「常識人」の前提だったのかもしれない、そう思うといつの時代でも「表現する」ということは危ういバランスの上に成り立っているのではないか。
普通の会社で働き初めてわかったことだけれど、世間は個性なんか求めていない。時々噂話にするために(誹謗中傷含む)誰かの所作をピックアップして誇張して語る、そういうものが個性と取り違えられているのではないか、そんなことばかり考えてしまう。
歪められた個性、そんなものじゃ自分の表現なんてできやしない。だから、いつの時代でも表現者は不安に陥れられる。

 

負けちゃいられない、灰汁をもって生きよう。