言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

かたちはなくとも

「何か課題を設定して自分を縛ることは自分を楽にすることだ、といことに気がついてほしい。何も現実的な課題を設定せずに今の状態にどっぷり浸って、漠然としたことばかりを考える。この不安さ、不安定さは、小説にかぎらず、創作や表現にかかわることをしたい人は絶対に、何年間かは経験しておかなければならない状態だと思う。なにしろ、何かを創ったり表現したりするかぎり、不安や不安定から逃れることはできないのだから。」

保坂和志 『人生を感じる時間』草思社 2013 68頁より引用)

 

この文章を読んだ時に私が考えたことは、「でもある程度現実的な課題なり目標なりを設定しないと、人間なんにもしないじゃないか」ということでした。とりあえずこんな感じで反発はしてみるんだけど、まぁ、私も漠然としたことばかり考えて、ひとり勝手に不安に陥り、悶々としていたりするので、反発しながらも意外となぐさめられていたかもしれない……。

同時に、「え? この不安や不安定って一生続くの?」と思うと……(汗)表現することには一生こだわっていきたいなぁと思ってるので。なかなか過酷なんですよ~。

 

今年の3月に初めて200枚くらいの小説を一本書き上げました。文学で200枚超えたのは本当にはじめてで、それ以前は頑張っても一作50枚でした。あの200枚と少しの推敲を終えてから、以前よりもずっと文学に対して意識的になったように思います。

「250枚の小説作品を書こう」と課題を設定して自分を縛り、ストイックに半年暮らした結果書き上げることができたわけで、たぶん明確な課題を設定しなかったら今でも全然書き上がっていないだろう。

スタンスは人によりけりなんだろうけれど、ようするにメリハリ大事!ってことかもしれない。つまり、普段は漠然とした不安の中でゆれていて、でも一度やるぞ!と決めたらガーットやる!みたいな。まるでテストの一夜漬けをしなければならない追いつめられた学生みたいな。

 

「考える」ということ自体には「形」がないから、後になにも残らないから、漠然とした日々を過ごすと不安になってくるのだろう。でも考えたことは見えないだけで確かに考えたわけで、それが作品として結晶する時がどこかにあるのかもしれない。そう思えば何をして過ごすにも無駄なことってひとつもない。

必ずしも思考が作品に結晶するとは限らないし、わかりやすい形で作品として表れるとは限らないけれど、何もしていないように思えた時間すべてが、その作品を生み出す人間の一部みたいなものだから、やっぱり無駄じゃないよねぇ。