言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

ずらす、くずす、くずれた!?―大前粟生『のけものどもの』


自分が世界のあり様として確信しているものどもの多くが、いかに既存の言葉とそこに付着するイメージ、印象によって形作られているか……。知ってしまってショックを受けた。独創性とは一体なんなのか、それは可能なことなのか? そんなことを考えながらこの本を読んだ。そんな読書体験の感想を書いていこうと思う。

 

大前粟生『のけものどもの』(惑星と口笛ブックス、2017年)

 

 

 (詳しくはこちらのリンク先へどうぞ)

 

 今年、西崎憲さん主催の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より発売された著者初の単行本である。この作品に収録されている22篇の短篇・掌篇小説が提示する言葉に「混乱」を感じるたび、自分の世界の捉え方が良くも悪くも「型」にはまってコチコチに凝り固まっていたことを思い知った。たとえば、「床から生えてきた隕石のような速さ」だとか「死んだ牛ともう育たない野菜」と言った言い回し(いずれも短篇「生きものアレルギー」より)。純粋に言葉というものから、なんらかの「像」を頭の中に思い描くことは可能なのだろうか。とても難しい。私のあたまの中には、いつもなんらかの既存イメージがすんでいて、言葉の受容を妨害してくる。……と、そんなわけで普段は使わないあたまの部分をフル回転させて、『のけものどもの』という作品を読んだ。

 

この小説を一言で表現するなら、「前提の崩壊」だ。

 

ここで言う「前提」とは、言葉に対して言葉そのもの以上に我々が塗り込めてしまっているイメージ。日常生活の中で「あたり前」のものとして我々に認識、共有され、再生産され続ける価値観。そういうものを、粉々に破壊してしまう力をもった小説だったと思う。よく知られた固有名詞、たとえば「情熱大陸」(あのTV番組だ)、「ファブリーズ」「あずきバー」「ノーベル賞」、プルーストなど数多の文豪たちの名前。これらのよく知られた固有名詞は、ほんの少し「よく知られた」部分からずらされると、あっという間に笑いの対象になったり不安のイメージを掻き立てる存在になったりする。

 

「封筒」という概念を私だけが勘違いしていて、封筒とはなかになにかを入れて運ぶものではなくて、なかに入ってきたものをたべてしまう生きものなんじゃないか。

(『のけものどもの』収録作品「不安」より引用)

 

 

※ちなみに、このブログ記事の「執筆者」は「情熱大陸」という番組を見たことがない、「あずきバー」を食べたことはない、「ファブリーズ」より「リセッシュ」派、プルーストの作品を読んだことはなく時だけが失われっぱなし、もちろんまだ「ノーベル賞」をもらってない。さらに馬鹿なことに「執筆者」はいつも手書きでブログを書く非効率的な存在であり、ブログの「更新者」とはたいてい別人である(「執筆者」の家にPCネット環境がないので業務委託)。おっと、話題が逸れまくったぜ。で、この部分を書いてるのはどっちかっていうのは秘密。

 

 

私が特に気に入った作品は「生きものアレルギー」「情熱大陸」「脂」「不安」「けものどもめ」「おじいちゃんのにおい」「キュウリ」「ねぇ、神さま」だ。

ただひたすら「想像」や「言葉遊び」という範疇に押し込めてしまうにはもったいないような気もする切実さ――生きているということと、死んでいるということ、生きものであるということと、物体であるということ、ちゃんと死んだことにしてあげることと、ちゃんと生きてきたってことになること――を感じた部分もあった。ふたつの状態から半ば離脱しかかるような不安定さに惹かれた。

 

以下、特に気に入った作品のうちから「キュウリ」と「情熱大陸」について、それぞれ書いていきたい。

 

 

■「キュウリ」

 

「わたし」と「キュウリ」の関係性がするっと反転するところに面白さを感じた。しかもその反転は本当に限られた文章の中で行われる。

 

「わたしの破壊欲のすべては口のなかで完結する。」

(引用)

 

キュウリを食べる小説。食べる、いや、噛み砕く。何も壊さない、誰も傷つけない、ただキュウリを噛み砕くだけの小説で、キュウリの叫びはやがて「わたし」のものになる。

 

 

■「情熱大陸

 

情熱大陸から電話がきた。」

という一文から始まる小説。

まず、この一文の時点で「情熱大陸」には二つの可能性がある。一つ目は、これがあの有名なテレビ番組からのオファーという可能性、もう一つは「情熱大陸」という名前の大陸があって、そこから電話がかかってきた、という可能性。

情熱大陸に出てくれという。」

二つ目の文で、どうやら可能性は前者、つまり「情熱大陸」はあの有名なテレビ番組(様々な分野で活躍する人たちを、ひとりひとり密着取材して取り上げ、紹介するという内容のテレビ番組)だったらしいとわかる。

小説の語り手「私」こと「大前粟生」さんに「情熱大陸」出演のオファーが来た!?

しかし、すぐ後に……

 

情熱大陸は、朝の5時ごろにきた。ちょうどアフリカ大陸と日本列島を足して2で割ったような格好をしている。」

情熱大陸が私に近づいてくる。私は後ずさりする。」

(作品より引用)

 

どうやら「情熱大陸」は具体的な形を持っていて、小説世界の現実に物理的に干渉してくるようなのだ。「情熱大陸」という名前の物体があるらしい。物体というか、話しているようなので、生き物だろうか。よくわからない。

 

情熱大陸の表面で木々がそよいでいる。」

「私ははにかみながら、情熱大陸のなかに入っていった。」

(作品より引用)

 

情熱大陸」は木々なんかがそよいでいる「大陸」だったらしい。しかもその中に「入っていった」ということは、以下、作品の舞台が「私の部屋」から「情熱大陸」に変わってしまったようなのだ。いつの間にか「情熱大陸」の上に立っている。

小説を書きたいはずの「私」こと大前粟生さんだが、「情熱大陸」は小説を書かせてくれない。仕方がないので「私」はFBIを目指すことになり、英語を勉強し、筋トレをし(小説書きたいのに!!)、その様子を「情熱大陸」(テレビ番組、固有名詞)が編集する。

 

すごい、たったこれだけの分量(とても短い作品です)でこれほどの転移。この現実レヴェル(語り手の立ち位置)の転移に読者はついていかなければならないのだ。

たった数行で「情熱大陸」という言葉が喚起するイメージが変わっていく。

「テレビ番組名(固有名詞)」→「物質・生物的存在」→「木々がそよぐ大陸」そしてその「大陸」の上が作品の舞台になる。これは「情熱大陸」の上で、「情熱大陸」による指導と編集が繰り広げられる掌篇小説なのだ。これにはかなり笑った。

 

情熱大陸は半笑いになって、ぼりぼりと頭を掻く。木が何本も部屋に落ちてくる。」

(作品より引用)

 

転移しすぎて何がなんだかわからなくなる。「言葉」とそれに付与され得る「意味」をずらしながら広がっていく作品世界。「言葉」と「意味」の距離を用いた一種の遊びなのだと思った。遊びといえばもうひとつ。

 

「右手にライオン、左手にその他のけもの」

(引用)

 

「その他の、獣」「その他、のけもの」?? 前者にすれば、ライオンとその他の獣(鳥類や霊長類)がたくさんいるなんだかアフリカ大陸みたいな印象が、後者にすれば、ライオンとその他名前も記されない除け者の存在が喚起される。ライオンだけがきちんと書かれていて、作品の最初のほうに「大陸に踏みつぶされた人たちの臓器」という暴力的な表現があるから、ライオンは「情熱」を貫いて勝利した王者の象徴であり、それ以外は「除け者」という読み方もできなくはない(けっこう深読みしすぎだと思うけど)。

 

と、いろいろな読み方を試みるのも遊びのひとつ。結局のところ、何が正しいとか間違っているということではなくて、作者が「ずらしていく」ことによって生まれる想像の余地を読者は思う存分楽しめばいいと思う。人は読みたいようにしか読めないのだ、というこのブログの基本方針(?)を再確認して終わろうと思う。

 

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惑星と口笛ブックスについてはこちらを参照↓↓

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