「天狗とは、いったい何なのか」
このたったひとつの問いに真摯に向かいつづけた薄木市立郷土資料館学芸員(一年契約)のクジラガワ・カンナさん。この人の研究をなんてすばらしいんだと思った。研究題目は「多摩西南地域の天狗道祖神――庶民信仰をめぐる一考察」で、この研究で栄えある東日本人文科学学術研究振興会の地域史研究奨励賞を受賞した(なおこの賞は今回で最後とのこと)。対象地域における石造物の丁寧な踏査と宗教的背景の理解、国学者、平田篤胤の仕事を参照しつつ新史料『除弾坊由来記 明治三十七庚辰』を読み解けば……
あら不思議、小説的想像力からもしかして天狗って今でもいるんじゃ……? なんて思わせてくれる。新聞記事やユーチューブも駆使してあれやこれやと結びついて行く物語の展開は読者を本当にわくわくさせてくれる。
これは、そういう〈小説〉でした。
栗林佐知『仙童たち 天狗さらいとその予後について』(未知谷、2020年)
思うに、人文科学という分野は失われた、あるいは失われつつある時間を取り戻したり繋ぎ合わせたりするための学問なんじゃないかな? そしてその時間の中にはきっとたくさんの「声」がある。
この本は2007~2009年に光文社のPR誌『本が好き!』に掲載された四つの連作短篇と、その合間に差しはさまれる5つの断章「証拠物件 遺留品(ICレコーダー)に残された音声」から成っている。5つの断章の部分は学芸員クジラガワさんの研究発表をベースに「天狗とは何か」を読者の前に開示していく。そして四つの連作短篇の主人公はそれぞれ四人の子どもたち。彼らは1984年(作品の「今」から35年前)に学校の遠足で大山へ登り遭難した神奈川県ツルマ市立タンポポ台中学の生徒だ。どうもこの子供たち、天狗と関係があるらしい。天狗遭遇潭を見渡してみると「天狗にさらわれる」のは「だいたい愚鈍な人、ちょっと変わった子、ずれていてみんなについていけない子」(46頁)とのことだそうで……。
ひとつ目の短篇「南ツルマ運動公園の決闘」は通信教育で天狗さまの修行をしている仏沢せいじが、ふたつ目の短篇「夏の光線」は口汚く罵る母上の言葉でできた世界を生きる鯨川かんなが、みっつ目の短篇「父さんゆずり」はただのお調子者にみえて実はキリストやお釈迦様に近い志を持つ「人間関係の冒険者」井戸口俊樹が、そして最後の短篇は「優等生」であるからこそそれ故に傷ついてしまう堀江桂が主人公の物語。
著者はあとがきで「衣食住の苦労こそない子どもたちの苦痛」が自身の軸であったと書いている。まさに様々な方向から色々な子どもたちを描いているのがこの作品で、時々、自分のことが書かれているんじゃないか? と思って勝手にドキドキして勝手に気まずくなったりもする。とても面白い本だったけれど、私は全然一気になんて読めなかった。単に「生きにくさ」を書いた作品であればこれほど心に詰まることもなくて、単に「民間伝承」(天狗潭)を書いた作品であれば読むこともなかったかもしれない。「天狗」という存在の起源を辿るうち、それは案外だれかの生きにくさに(例えば仕事の続かない寅吉なんかに)繋がってしまって、そしてそのだれかはまた別のだれかの生きにくさをみつけては繋がっていって、そんなふうに語り継がれる存在がいたのかもしれない、と思えば「天狗」も架空の存在ではなくなっていく。まぁ、あまり得意になっていることを「天狗になる」なんて言うから良いことばかりではないけれど。
開発によって失われた景観、貴重な資史料、蔑ろにされる学問の存在、あちこちで聞こえてくるヘイト、共謀罪……。
悲しいことや嫌なこと、反対したいこと、たくさんあるけれど、
つらいわよね、人文研究者はさ。「生産性がない」とか言われちゃって、どこでも予算けずられて、ポストはないし、みんな不安定な立場だし。でもガンバロウよ、わたくしたちが滅びたら、ほんとに世の中とり返しがつかなくなるよ。
(前掲書、202頁より引用、残された音声より)
という言葉が一番心に沁みました。
遺された痕跡を丁寧にそして真摯に辿ることなくしてはみえないものだってある、わからないことだってある。長い時間をかけて、そこに至るまでに連なるさらに長い時間を忘却から掬いあげて繋げていく力。それが人文科学という学問ではないだろうか、と私は思う。曖昧な言い方になってしまうのは結局のところ人文は人文だからで、それはどういうことかというと、
〈人間はこういうものだ、とは言えない。そして天狗とはこうだ、とも言えない〉と結論付けるしかないのと同じなのかもしれない。
ちなみに私には生きにくさはあるけれど天狗の素質は無さそうである。
「わたくしは人としてやっていきとうございます。」
いや、どうだろ。人のふりしてぼちぼちやっていくかね。