言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

転回―大前粟生『回転草』

大前粟生『回転草』を読んだ。

既存の思考の枠組みをいい意味で取り払ってくれる、かなりはちゃめちゃな一冊である。まず設定がはちゃめちゃであり、何故そうであるのか一切説明されないままに、たとえば語り手が西部劇の乾いた風に転がる草だったり、ミカがキリンになっていたり、雪女がバケツの中で溶けて水になって、その水と僕が一緒に暮らしていたり。

 

 大前粟生『回転草』(書肆侃侃房、2018年)

回転草

回転草

 

 

愛と狂気と笑いと優しさと残酷さとが混在した10の物語。

(本の帯より)

 

 

収録作品は「回転草」「破壊神」「生きものアレルギー」「文鳥」「わたしたちがチャンピオンだったころ」「夜」「ヴァンパイアとして私たちによく知られているミカだが」「彼女をバスタブにいれて燃やす」「海に流れる雪の音」「よりよい生活」

 

はちゃめちゃな、ぶっとんだ設定が表現ひとつでぽんと現われてしまうものだから(ひとつの言葉や文字で何の前触れもなく現われるので)、一瞬何が起きたかわからなくなるけれど、たぶん本に書かれたことをそのままに読んでいくしかないのだろう。自分の観念にしがみつくことが日常を回すことだとしたら、この本はたぶんその外側に連れだしてくれる読書体験をもたらしてくれる。

 

そして不思議なことに、書かれた物語はぶっとんでいるのに表現される感情には何故か親しみを感じてしまう。たとえば「破壊神」を読んで強く感じたことだけれど、自分だけ、なんか「そうはなれない」とか「そうは思えない」という事柄があって、そのせいでずっと世界の外側に立っていなきゃいけなくなっちゃったひとの「かなしみ」かあるいは「せつなさ」にじーんとなる。こういう感情の表出を切実というなら、この短篇集はほんとうに切実に感情というものに寄り添っているように思える。

 

それからこの作者の妙な言い回しが好きで、たとえば『のけものどもの』にも収録されていた「生きものアレルギー」に登場する表現、「習字の半紙の長いやつ」(43頁)はずっと好きだ。今回新しく見つけてひとりで喜んだのは「弁当のなかに入っていた、緑色の芝生みたいな、料理を区切るあれ」(「文鳥」92頁)という表現。これを拙いととるか、面白いと捉えるかはひとによりけりだろうけれど、私はとても好きなのだ。正しい名称を超えて、そのものずばりを表現できる言葉の流れというのがあるらしい笑。

 

■「回転草」について

びゅうううう、と私はいいたくなった。大声でいいたくなった。

変わったデザインの本を開くと、そこでは突然「寂れた酒場がセピア色に変色して」いて、二人の男が銃で決闘していた。止まったような時、乾いた熱風、そして「西部劇お馴染みの絡まった球体の枯草」が転がる……。

暗転。

エンドクレジット。

そう、「君」も出演者だったの……。

大前粟生さんの小説「回転草」。

この作品は、西部劇の外側へ、それから西部劇撮影セットの外側へ、びゅうううう、と風に吹かれるままころころ転がって行く回転草が語り手、という変な小説だ。転がって行く先でサインしたり(だって回転草は西部劇に出演する大物役者だからね)、昔の知り合いと再会したり……っていうか? もしかして世界亡びかかってます? すごくない? 西部劇の外側に転がって行ったらなんかSFっぽい世界に辿り着いてるんですけど?(笑)

回転草は次々と枠をはみだしていく。「西部劇お馴染みの絡まった球体の枯草」と作品冒頭で表現されていたものを、私は単に西部劇という言葉からイメージされ得るモチーフだと思っていた(実際乾いた風になんか転がっている映像はすぐに浮かぶ)。けれどちょっと調べて判明した、回転草って実在の植物だったんだね、そしてアメリカで大量発生したんだとかなんとかというニュースを読んだりもした。読みながら「回転草」の設定もころころ転がるようにストーリーが展開、いや転回していくような、そんな愉しい小説だった。

でも読んでいてちょっとかなしくもなる不思議な小説だった。

 

 

■余談

大前粟生さんと言えば、そういえば最近『新潮』(2019年4月号)に「ファイア」という短篇小説が掲載されていた。

 

新潮 2019年 04月号

新潮 2019年 04月号

 

 

小説の語り手「私」が働く火柱系ラーメン屋〈ファイア〉が主な舞台。そこでは文字通りラーメンから火柱が昇る。

たぶん私は巨大なものに怖さを感じながらこの作品を読んでいた。それは京都タワーを取り囲む人々の長大な列だったり、小説の終わりのほうで起きる事故の炎だったりする。だが、この怖さを感じる巨大なものだって、そもそも始めから巨大だったわけではないのだろう。

「それぞれの火柱が猛り、手を繋ぎ合った。」

語り手「私」と佐々森という人物がかつて作った火同好会。これはライターの火というごく小さな火を鑑賞する会だった。この火をみていると落ち着く、そんな二人はあくまで個と個のままでいる。「お互いが、火を見てひとりでいるままに、ふたりだった。」火が合わさって巨大になったりはしない。小さな火。繋がらない火。

フラッシュを「焚いた」まま人の写真を撮る観光客、SNSで「広まる」快感など所々で自分の意思では止められない暴力や空気の流れみたいなものの存在が描かれ、そういうものが火を巨大な火柱にし得るのではないか? などと思った。

「本当は行きたいと感じていたのだと、思い込みたい。楽になれたらいいな、と思う。だれもが。」

この終わりには優しさを感じた。「思い込みたい」の先にある感覚を当たり前だと誰もが信じているけれど案外そうでもない事柄を、それでも思い込めたらいいのにと願ってしまう。

だれもが?

 

大前粟生さん新刊も出ているようです(欲しい)。

『私と鰐と妹の部屋』 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

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