言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

大事は静けさのうちに―古井由吉『夜明けの家』

小説を読んでいる間の、時間はいったい誰のものなのだろうか、とふと思う。

読む作品によって、本を読んでいる時間の在りようというのは、どうしてこうも違うのだろう。やっぱり小説を読んでいる間の時間は、純粋に自分の時間ではないかもしれない。素朴な考え方だけれど、その時間というのは登場人物の生きている時間であったり、その人物にとって過去の時間であったり、またそれに同調するように自分もふと思い出してしまう過去の時間であったり、時には作者によって支配されてしまう時間なのだ。
古井由吉の『夜明けの家』という本を読んだ。

古井由吉『夜明けの家』(講談社、1998年) 

夜明けの家 (講談社文芸文庫)

夜明けの家 (講談社文芸文庫)

 

 (私が読んだのは、文庫版ではなくて単行本だったので、引用ページ番号は単行本になっています。ご了承ください。)


濃密な文体の小説はその濃さのゆえに、読者の時間感覚を麻痺させてしまうものらしい。この一冊を読んでいる間の私の時間は止まっていた。本を読んでいる間の時間が極限まで圧縮され、まるで止まっているかのような心持ちになった。こういう読書体験は久しぶりかも知れない。読み始めるまで時間がかかり、読み始めればその時間の外側に逃れることができなくなる。なかなかに怖い経験だったと言える。

生と死、または覚醒と眠りのはざまのゆらぎ。明確な線で区切ることのできない領域、そのあわい時空間を描いた短編集だ。生死の間(あわい)を縫う最高の連作。
収録作品と初出をメモ程度に書いておく。私は特に、「祈りのように」「クレーン、クレーン」「島の日」「夜明けの家」が好きだ。

 

『夜明けの家』収録作品(初出誌はすべて「群像」)
「祈りのように」1996年11月号
「クレーン、クレーン」1996年12月号
「島の日」1997年1月号
「火男」1997年3月号
「不軽」1997年4月号
「山の日」1997年5月号
「草原」1997年7月号
「百鬼」1997年8月号
ホトトギス」1997年9月号
「通夜坂」1997年11月号
「夜明けの家」1997年12月号
「死者のように」1998年2月号

 

死者の時間が、生者の見る風景にまぎれこむように描かれている。たとえば「島の日」の干潟であったり、「クレーン、クレーン」に出てくる外装工事をされる建物であったり、夜明けという時間帯と、そこにある不眠であったり。「夜明けの家」冒頭の鴉も印象的に描かれている。その飛べない鴉の生死を語り手は気にしているのだが、その鴉の姿を見かけなくなる、というのは何のことはない人間の身勝手、つまり語り手の目が探さなくなっただけに過ぎない。それは「死んでいる」のではないのかもしれない(実際に死んでいるかもしれないけれど、本当のところはわからない)。生と死の間(あわい)も、覚醒と眠りの間も、また現在と過去の記憶の風景でも、自由自在に往来する筆の運び。「夜明けの家」に登場する老人は「生死の境のゆるむままにしか生きられなかった。境がゆるまずには夜が明けない」(229頁)
作者はこの一連の短編小説を書くことで、死者の時をはかっているのではないか、と思った。生と死を対立するものとして捉えるのではなくて、そういう捉え方をすればつい取りこぼされてしまいそうになるものがあるのだという感慨に深く感じいる。


「生きている」というのはどういう時間に自らを浸している状態のことだろうか。では「死んでいる」というのは何だろうか。それは時間に沈むようなことだろうか。だがしかし、そうであるならば生者の回想に突然浮かび上がってくるこの死者の時は一体どういう状態に属するものなのだろう。


この作品の中では決して「大事件」は起こらない。人が死ぬ、ということは確かに当事者や周囲の人々にとっては十分に大事件であるし、死というもの、あるいはそこへと至る可能性を秘めた病というものを書く作品において、人の死は避けては通れない。しかし、この作品に「大事件」の喧噪は見あたらない、あるのはただ静けさばかりだ。喧噪があるとすればそれは「生きている」者の周囲に広がる風景からくるものだ。そこに死者の沈みかけるような時間の沈黙が上塗りされている印象を受けた。
「大事件」は起こらない、だけれど大きなことが起こっている。大事は静けさのうちに生起し、そして消えていく。

最後に「島の日」という作品から引用しておきたい。

 

「鳥たちがまた騒いでいる。玉を転がすような細い音色だが、寝床から耳を澄ませば、たちまちおびただしい群の声
になる。昼よりは近くに聞える。潮が上げてきたので、狭くなった渚にひしめいて、いよいよ忙しく餌を漁っているらしい。夜半にはまだ間がある。睡気のほうはせっかく満ちかけたのがまた引きつつある。旅の最後にはとかく不眠の夜が来る。」
(前掲書、50頁より引用)

「昨日と今日との間に畳みこまれて、別の一日があったのか。あるいは墓丘の上の夕暮れと、寝床の上に打ちあげっれたこの今との間に、長い漂流がはさまるのか。干潟の光がいつまでも失せずにいるので、つい夜半までさまよって、かすかになった足音が、風に流れる草の穂を分けて近づいてくる。部屋の中に入り、片隅にまとめた荷物をひょいと肩に掛け、夜明けのほうにもう近いので、その足で家へ帰って行く。朝一番の船に乗り、また一日歩きまわった末に、空港の搭乗待合室で眠っている。」
(前掲書、68頁より引用)