言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

繭のような感想――大江健三郎『燃えあがる緑の木』

とにかく「意味」を求めたり与えたりしたくなる、というのは人間の習性なんだろうか? だれが、だれに、どうして、なんのために? 「意味」を与える(求める)ということについての問いは、その「意味」を巡って堂々巡りすることになる。答えはきっと空っぽなんだろう、ただ巡ることだけが無限に続いていく。揺れ続ける。ある一つの結論を出したと思っても、すぐにその反対側にある思考の気配が感じられる。片側は緑に覆われていて露が滴っていて、もう片方の側は燃え上がっている木。両極が同時に存在しているということ。

 

今回は大江健三郎『燃えあがる緑の木』を読んで考えたことを書いていく。

大江健三郎『燃えあがる緑の木』(新潮社、大江健三郎小説10、1997年)

 

 

 

第一部〈「救い主」が殴られるまで〉、第二部〈揺れ動く(ヴァシレーション)〉、第三部〈大いなる日に〉からなる長篇小説だ。

〈「屋敷」のお祖母ちゃんが、あの人をギ―兄さんという懐かしい名前で呼び始められた〉という印象的な一文で物語は始まる。読み始めたばかりの読者には「屋敷」も「あの人」も「ギー兄さん」のこともわからないけれど、「語り手」にとってギー兄さんという名前は「懐かしい」ものらしい。この冒頭から続く一段落は〈地下に伏流していた名前が、湧水となって地表へ出たのだ〉で閉じられる。こうして地表へ出た湧水の「ギー兄さん」は、物語の終盤で〈一滴の水が地面にしみとおるように〉物語の「外側」へ帰っていく。お祖母ちゃんが「ギー兄さん」と呼ぶより前の、ただ素朴に「魂のこと」をやりたいと思ったという時間へ、あるいは歴史時代の一揆や、〈壊す人〉がこの土地を開いたという伝承にまで繋がっていくような無限の時間に。たった一段落にふくみこまれる時空間の大きさに圧倒される読書経験だった。……というのも、私が本書に与えたひとつの「意味」だ。

 

物語全体を簡単に言ってしまえば、四国の山間の集落で一人の男が宗教を作ろうとする話、というふうにまとめられると思う。地元でオーバーと呼ばれるお祖母ちゃんに土地の伝承をきき、「魂のこと」をしたいと思い立ってから繰り返された様々な対話、そして偶然から「救い主」と呼ばれるようになった男はサッチャンこと語り手「私」とともに「燃えあがる緑の木」という教会を立ち上げる。農場が拡大し経済基盤が整い、礼拝堂まで建てたのちにメンバーが分裂し、やがて男が教会を去ることになるまでの出来事。イェーツ、ダンテ、ドストエフスキー、アウグスチヌス、シモーヌ・ヴェイユワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』という過去に書かれたもの、さらには大江自身がかつて書いた自作(『懐かしい年への手紙』など)からの引用と対話から、登場人物がそれぞれの身に起きる人生の事柄に「意味」を与えようとする物語でもある。「本にジャストミートするかたちで出会うことは、読む当人がなしとげる仕業というほかないんだね。選び方もあるし、時期もある」と第三部で作家のK伯父さんが言うように、ある本が深く心に刺さるためには、読む当人がそこになんらかの「意味」を見つける必要がある。自分にとって今一番必要だと感じられる本、文章、言葉、そういうものに出会った時の喜びを「私」は「私」にしか与えられない。その固有の「意味」を登場人物たちはそれぞれに読み解いていく。

 

「燃えあがる緑の木」の教会には「神」がいない。そのことについて教会の主要なメンバーの一人であるザッカリーは「空屋のごとき教会」と表現する。ギー兄さんはその表現が適当だと思う。「なにもなかにはないかも知れない、むしろなくていい、そういう繭のようなものが思い浮かぶから」と言う。

教会のメンバーたちは「救世主」ことギー兄さんの言葉を待っている。福音書をまとめたいし、祈りの言葉だって定めたい。教典も必要になるだろう。そういうものを「救世主」に定めてもらいたい、「意味」を与えてもらいたい。

しかしギー兄さんは、やがて教会に背を向けることになる。なんであれ「意味」を与えるということが他人によってなされる時、それは自分にとって真っ直ぐなものでなくなるというか、正直な、自分のためのものではなくなってしまうのだ。だから「魂のこと」も、生きる意味みたいなものも、なぜ自分が死んでいかなければならないのかということの答えも、人間が他の人間に与えることなんかやっぱりできないのではないか。そんなふうに思うから私には深く信仰する宗教が無いのかもしれない。そのくせ「私の神様」的な何かに祈ることがあるのだから、ここまでくるともはや自分勝手としか言いようがない。しかしなんと言われようとも自分にとって「固有」なものにしがみついていたい、そうやって生きたいのだと言い張りたい。

 

――痛みは少しもありませんでした。しかし、愛想もこそもなしに、歯が捥ぎとられましょう? ミリミリという音がして。あれは下顎から耳の神経に直接つたわる音なのでしょうがな、魂が身体から捥ぎとられる時も、この音を聞くのかと思いました!

(第一部、17頁のオーバーの言葉)

 

 

お祖母ちゃん(オーバー)の身体感覚に根差した魂の捉え方は、オーバーの身体を通さないと聞こえてこないものなのだ。このオーバーの言葉に私は強く揺さぶられた。それから語り手サッチャンが水の中から飛び上がったアメノウオが羽虫をパクリと脣(くちびる)に加え込んだのを見て、羽虫をオーバーの魂に、そしてアメノウオをオーバーの肉体と捉え、「お祖母ちゃんが、こちら側から向こう側に移られる際にも、羽虫のようにかすめ過ぎようとした自分の魂をとらえなおして、脣にくわえこんだ澄まし顔が、時と空間のそれぞれに滲みあうところで見えるのか?」と問う場面がある。この魚と羽虫のいる光景にこの魂という「意味」を見出せるのはサッチャンだけだ。

「魂のこと」とは、やっぱり人それぞれ個別のことなのかもしれないし、だからこそ想像される光景のひとつひとつが尊いものになる。

……なーんていうのも、私が本書を読みながら重ねていった「意味」のひとつでしかない。

 

結局は自分の言葉でどう把えなおすかということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心を通過させないで、脣の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰りかえしだけをやる連中がいるけれど――学者に、とはいわないまでも研究者にさ――、こういう連中は、ついに一生、本当に大切なテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?

(第三部、K伯父さんの言葉)

 

 

肝に銘じつつ(時々、大江健三郎自身の読書観ではないか? と思いたくなる文章が出てくる1冊でもあった)、やっぱり「私」は過剰に「私」にとっての本の読み方しかできない。せめて繭の中で自分にとって「意味」を育てていくような読書の日々が続けばいいと願う。まあ時には、歪んで凝り固まった自分が羽化してどっかへ飛んで行き、空の彼方へ消え去っていって、その繭が空っぽになることもあるかもしれないけれど。