言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

時間のゆくえ、星雲に浮かぶ小鳥の羽根の永遠―小川洋子『約束された移動』

――死者はとても耳がいいから、小さな声で充分なのだ。

という言葉を「巨人の接待」という作品の中に見つけて、なんだか安心した。というのも、私事で大変恐縮だが、先日同居のモルモットのこもるさんが亡くなったのだった。10月25日の深夜0時26分。飼い主の膝の上で、しゃっくりのように繰り返していたふるえる呼吸がぴたっと止まり、そのまま命がスッと抜けて行ったような最期だった。

この一つの死を私は、あらかじめ約束された移動だったのだと思っている。

 

文学を志す者として、私の本の読み方は相当歪んでいて、そして邪道だと思う。その時々の自分が置かれた状況や心境をどうしても映してしまう。映さずにはいられないというか、そうやって読んでいった本が後で振り返った時に、本当に大切な一冊になっていることが多い。

今回は小川洋子さんの『約束された移動』を紹介したい。この本を手にとった時にはモルモットのこもるさんはまだ生きていた。亡くなって少し落ち着いてから読み終えてみれば、まるでこの本が自分のために用意されていた安心の「四角い囲み」だったと思うほど、深く慰められていたのだった。たぶん私の寂しさや悲しさを癒せるのは、書かれた言葉だけなのだろうと思う。

 

小川洋子『約束された移動』(河出書房新社、2019年)

 

 

「約束された移動」「ダイアナとバーバラ」「元迷子係の黒目」「寄生」「黒子羊はどこへ」「巨人の接待」本書は、この“移動する”6篇の物語を収めた1冊だ。

 

赤い背景に青い台、その上に置かれた銀の皿の上の洋ナシ、リンゴ。コーヒーカップに巻き貝1個、そして透明の花瓶に活けられた花は途中で大きく伸びてゆく方向を変えている、こんな装画の本だ。表紙に描かれた青い台は敢えて本の右端に長辺に沿って縦に配置されている。そのせいで花瓶の花は画面右から横方向に伸びて、途中でぐっと縦方向に向きを変える。左端に配された縦方向に伸びる花と右端の青い台で、題名と著者名がそっと囲まれている。あ、この四角い囲みは小川洋子さんの物語の場所だ、と思った。小川さんの作品に時々みつけてしまう、安心の場所だ。そこは読者にもそっと差し出されている。装画は三宅瑠人というひとの作品だった。皿の上の果物や活けられた花を見て、17世紀西洋絵画の静物画を思い出した。“移動する”物語に静物の装画? このコントラストを考えているうちに、静物画というものも停止しているものを描いているのではなくて、すべては「約束された移動」の最中を描いているのだと思った。

移動とは変化だ。生きている限り、人は絶えずどこかへ移動していく。人だけではない、生きている者すべて、いや命の無い物体であっても絶えず変化し続けるという移動をしている。それは時間。すべての存在は時間を孕むものとしてうつろっている、生き物ならば生から死へと移動していく。

 

表題作「約束された移動」は今ではすっかり落ちぶれてしまったハリウッド俳優Bと彼が宿泊したホテルの客室係「私」がこっそり共有する移動の物語。Bはロイヤルスイートに宿泊するたびに書棚から1冊ずつ本を持ち去って行く。

「ダイアナとバーバラ」は、かつてこの国にエスカレーターが導入されたばかりの頃、慣れない乗り物を安全に運行するための補助員だったバーバラと孫娘の物語。大事なのは「そこにいるけど、いないも同じ、という雰囲気を出すことなんだ」(60頁)

“ママの大叔父さんのお嫁さんの弟が養子に行った先の末の妹”(この続き柄に大移動を感じてしまう)の斜視の黒目が迷子を発見するのに最適だった、決して可愛そうな子を見逃さなかったという物語「元迷子係の黒目」。

〈ヒトに寄生する虫たち~その離れがたき関係~〉という虫の特別展で知り合った相手にプロポーズをしようと出かけていった「僕」に、突然見知らぬ老女がしがみついてきて離れなくなってしまう「寄生」。

大風の吹いたとある夜に座礁した貿易船から流れ着いた二頭の羊を引き取った村はずれに住む寡婦がやがて村で唯一の託児所『子羊の園』の園長となって、子どもたちが子どもでなくなるのを「ある日」まで見送り続けた物語「黒子羊はどこへ」。

 

最後の物語は巨人と呼ばれる作家の小さな声を通訳する「私」が、その声が小さいのは死者に向かって語りかけているからだ、と気がつく「巨人の接待」。

 

あなたはあなたの声帯に相応しい声で語ればいいのです、と私は心の中で呼び掛ける。すると巨人は耳たぶで私だけに合図を送り、マイクに視線を落としてから、二言三言答える。星雲の流れに小鳥の羽根を浮かべるように、そっと言葉を吐き出す。

(前掲書、196頁)

 

 

死者はとても耳がいいから、小さな声で充分なのだ。巨人には双子の弟がいたのだけれど、母親のお腹にいる間に天に召され、兄の隣に寝かされた時には既に死者となっていたという。巨人は夜になると幼い弟や妹に自分で作ったおとぎ話を聞かせてやっていたのだが、そんな時しばしば一人足りない、という感覚に戸惑うのだった。その欠落に向けて語る巨人の声は小さいのだ、小さくていいのだ。そしてたぶん作家である巨人が小さな声で語りかけたいのは弟だけではなくて、かつていて今はいないもっと多くの者たちなのだった。モーリシャスクイナ(1700年)、タヒチシギ(1773年)、カササギガモ(1878年)、ワライフクロウ(1914年)、カロライナインコ(1918年)。すべて絶滅した鳥たちを座席にデザインしたメリーゴーランドが巨人と通訳の「私」が最後に行った野鳥の森公園にある。巨人が乗ったのはドードー(1681年)だった。巨人はうっとりと目を細め、語り手には聞こえない小さな声でドードーに話かけるのだ。絶滅した鳥たちがメリーゴーランドの回転によって延々と一つの円を描き続けている。私はこの物語には特に、死の向こう側の永遠を見る思いがした。そしてこの永遠を読者に見せて本書は終わる。

 

さて、私もそろそろ移動しなければならないな、と思う。私の移動は日々の読書でできている。そんなわけでもしかしたら、約束されたその移動に、ついて行くことができるかもしれない、とそんなことを考えたのはこのブログ記事をそろそろ書き終えようとしている時だった。作品内に登場するのと同じ本を私も手に取って行くのはどうだろう? と企み始めたのだ。ちょうど表題作「約束された移動」でハリウッド俳優Bが持ち去った移動にまつわる本を、語り手「私」が同じものを読むことで追いかけるように。「私」のあとを読者の私が追いかけたら、私の読書遍歴は面白い移動になるのではないか。

 

ハリウッド俳優Bが出演した作品の中で、語り手「私」の一番のお気に入りはデビュー作だった。その作品がスタートしてからちょうど十八分四十秒後、仲間に怪我を負わせてしまったBが行き場を失い、延々と川沿いの道を歩きながら幼い頃に祖母が繰り返し語ってくれた象の移動の物語をつぶやいている。昔々、この町で万国博覧会が開かれた時、船で運ばれてきた十六頭の象たちが、港から会場まで川材の道を行進したんだよ。その移動の途中で子象が一頭生まれた。それから移動には子象も加わる。

 

ああ、これはあらかじめ約束された移動なのだ、と誰もが深くうなずいて、生まれたばかりのその生きものに祈りを捧げた。厳かな気持ちにさえなった。象たちは再び歩き出した。もちろん子象も一緒だ。小さいからといって近道できるわけじゃない。何のために、どこへ行くのか知ろうともせず、ただ黙々と歩くのだ……。

(前掲書9頁より引用)

 

 

 

ハリウッド俳優Bがロイヤルスイートの書棚から持ち去った本はこんな具合。

ガルシア=マルケス『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』、コンラッド『闇の奥』、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』、アラン・シリト―『長距離走者の孤独』、サン=テグジュペリ『夜間飛行』、アガサ・クリスティオリエント急行殺人事件』、アンデルセン『絵のない絵本』、ライマン・フランク・ボームオズの魔法使い』、ケネス・グレーアム『たのしい川べ』、スタインベック怒りの葡萄

 

デビュー作の映画のワンシーンでつぶやいた象の移動の物語は、ハリウッド俳優Bが新たに読んだ本の別の物語に取って代わっていき、それと同じ本を開いた「私」はBの後を追いかけていくように読む。本当のところBが何を思っているのかはわからないけれど、「私」はBが今でも移動し続けていると信じている。どんなに落ちぶれて世間に蔑まれても彼が手に取った物語の登場人物たちに導かれるようにして「ただ黙々と歩くものだけがたどり着ける場所まで、彼は歩き続ける」(9頁)のだ。

 

------------------------------------------------------

今月発売の「新潮」12月号に小川洋子さんの『掌に眠る舞台』の書評を書きました。

題名は「消失点の場所」です。どうぞよろしくお願いします。(久栖)