言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

お節介な愛情のある風景―加藤多一『馬を洗って…』

今回はこの絵本について書きたい。

加藤多一・文、池田良二・版画『馬を洗って…』(童心社、1995年)

 

 

清冽な文と重厚な版画で描く〈若い人の絵本〉

遠いあの日、迫りくる戦争の影

馬を洗うたった一人の兄がいた

その兄と愛馬〈三本白〉の悲劇

(帯文より)

 

 

 

たいていの動物は、人間が洗ってやらなくても死んだりしない。汚れたら自分で水や砂を浴び、せっせと毛繕いをして不快な状態から脱しようとする。あるいは人間が汚れていると思っているだけで、当の動物は全く気にしていない。それなのに、どうして人間は動物を洗ってやりたくなるのだろう?

 

ふしぎなことに、わたしの思い出の中の兄は、いつも川で馬を洗っている。

(前掲書15頁より引用)

 

 

そしてこの「わたし」の回想の風景は、地平線の果てまでも続くような、終わりのない永遠のものとしてラストに現れてくる。

 

遠いところ。

空と地面とがとけあうところ。

ひとりの青年が、いつまでも、いつまでも、馬を洗いつづけている。

(前掲書、44頁より引用)

 

 

物語は、さだかではない「わたし」の記憶のような描写から始まる。それによると、ふぶきの夜に子馬が生まれた。しかし子馬は生まれてすぐに捨てられてしまった。

次に描かれるのはきれいな小川。そこで「わたし」は、兄のカツトシが馬を洗う姿を見ている。そこで「わたし」は兄に「ソンキ」と呼ばれるようになった、この馬の話をきく。

ソンキは「三本白(さんぼんじろ)」といって、足首が三本白い不吉な馬だった。この家ではかつて三本白の馬に蹴られて妹が死んだという。「古い世界をたいせつにする人」であった父は、不吉な馬を生まれてすぐに処分しようとした。兄はそれを必死に止めた。それから兄のカツトシはソンキをとても大切にしているのだった。

やがて戦争がはげしくなって、体の丈夫ではなかった兄までも兵隊に取られていく。

という、物語の作品である。戦争のあった時代に起きたいくつかの悲劇が描かれている。作品から強い戦争批判を読み取ることもできるが、どうしてかこの絵本を読んだ私は「動物を洗う」という、労働力として長らく馬を頼りにしてきた北海道の、何気ないと言えば何気ない日常風景に心を動かされてしまった。

 

私はさっき同居のモルモットの尻を洗った。茶色と白色のホルスタイン牛みたいな柄のモルモットで、大きな病気を抱えつつも今年の9月に4歳の誕生日を迎えた。壮年を過ぎ、そろそろ老年期に差し掛かっている。年をとっておしっこのキレが悪くなったせいか、最近やたらとお尻(と、その回りの毛)に尿の固まったような茶色い汚れがこびりつき固まってしまう。尻回りの毛が白いものだから汚れは目立つし、後足まで汚れたまま放って置くのは足底皮膚炎という病気になりそうで心配になる。なるべく清潔に保ってやらねば、と思う。それで私がたぶん子供の頃に買い与えられたセーラームーンの洗面器にぬるま湯を張って、両手で抱きかかえたモルモットの尻をつける。モルモットは、そもそも乾燥地帯に生息していたネズミなので濡れるのが大嫌い。洗面器から逃れようと、濡れ尻のままビタビタ飼い主によじ登ってくるから大変だ。「やーだってば」と飼い主の手をすり抜けようと意外にある力で抵抗してくる。でも洗ってやりたくなる。洗ってやらないといけないような気がする。それで洗い終わったモルモットは、さっぱりした顔で平然と牧草を食べていたりする。

 

もちろん、ペットと使役動物への感情を同じものと捉えることはできないだろう。

だけれど、人間が動物を洗ってやっている時、そこには本当のところは相当お節介かもしれない愛情が流れている、と私は思う。苦笑いの愛情、みたいなものがある。

『馬を洗って…』という作品で馬を洗う兄カツトシと三本白の不吉な馬といわれたソンキのあいだには、きれいな小川のような何か尊い感情が流れているように思える。その尊さが「永遠」のヴィジョンになるのなら、対極にある戦争にまつわる暴力や、生きているものを雑に扱うことによって起きる酷い死は忌むべきものになる。

 

「馬と、体格の悪いひとりの青年とを殺したのは、いったいだれなのだろう。」(40頁)20年以上も前の兄とソンキの死から、その真実を告げた母の手紙によって一気に現在に引き戻される「わたし」には、近くで起きたはずの兄の酷い死の真実が遠いものに思われ、かえって永遠となって馬を洗う兄の姿のほうが今ではずっと近いものとなっている。そうやって聖化されたものが無言のうちに戦争とそれにまつわる暴力を非難し、馬がトラクターにとって代わる時の流れを感じさせ、そのずっとずっと先にある風景として記憶とも祈りとも受け取ることのできるラストを、読者の前にそっと差し出している。

はじめのほうで「絵本」と書いたが、正確には版画である。硬く引き締まった画面には決してやさしいばかりではない北海道という土地と人間と動物の距離が緊張感をもって表現されている。私にはそう感じられた。