言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

きみはいまだにそのことを知らないでいるし―岡田利規「ブロッコリー・レボリューション」

こんな私にだって経験がある、旅先で感じるあの解放感の正体は「当たり前」に絡めとられていない感触だ。うっかり旅先の土地を好きになってしまって、たとえば移住してしまったら、今度はそこの空気が「当たり前」になってしまって結局は絡めとられてしまうから、解放感は消えてしまう。憧れは憧れのままにしておいた方がいい、だから私は旅をしない。でも、ずっとここにいて、ここからいなくなっている。読書にひそむ解放感は、きっと旅先に似ている。

 

岡田利規ブロッコリー・レボリューション」(『新潮』2022年2月号掲載)

きみはぼくから逃げ、バンコクへ向かった。

嫉妬と解放感がせめぎ合う情念のサスペンス(新潮ホームページより冒頭読めます)。

www.shinchosha.co.jp

 

 

岡田利規ブロッコリー・レボリューション」(『新潮』2022年2月号掲載)を読み始めたのは風呂の中だった。最近ちょうど良い大きさの透明カバーを手に入れたので、風呂で文芸誌を読むのにハマっている。風呂で読むと、眼鏡をかけないことになるから、裸眼で0.1もない視力では活字と自分の顔の距離がいつもと違って異様に近くなる。しかも雑誌を持つ手を湯に沈めないように気を遣うから変わった力の入り方になる。ちょっと日常から飛び出してしまっている本の読み方だなと思っている。

だれかが私よりも先に「ブロッコリー・レボリューション」を読んで、その感想を書いているかもしれない。そう思って「ブロッコリー・レボリューション」とネットで検索したら、お洒落なカフェの紹介が出てきた。「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」(引用)どうやらヴィーガンのカフェらしい。

 

この小説の語り手「ぼく」によると「きみ」はどうやらバンコクに行ったらしい。ルンピニ公園にもほど近い、サトーン通りを折れたところの道路に面したアパートメントタイプのホテルの部屋で「きみ」は「ぼく」から遠ざからなければ決して得られない安らぎの日々を過ごしていた。こんな「きみ」の日々と、時に制御の利かなくなる暴力的な衝動を抱えた「ぼく」の日々が語られていく。確かなことは「ぼく」が部屋に帰ったら扉の新聞受けから入れられた「きみ」の鍵が落ちていたことと、「きみ」のスーツケースと分厚い小説がなくなっていたことと、「きみ」がいなくなっていたことだ。

「きみ」はバンコクの街中のいたるところにタイの国王の肖像写真が飾られているのを見た。その肖像を頭の中で日本の天皇陛下へと置き換えてみて、その想像にぞっとしたというか苦笑した、という経験をする。タイの王さまなら全然平気、でも日本の天皇陛下に置き換わるとなんだか違和感が生じる。でも思えば日本の東京にはそのころオリンピック・パラリンピックの視覚イメージがあふれていた、そのこととタイの王さまの肖像と、何か違うのだろうか。

 

だれもがある特定の場所に暮らしている。そこには、「当たり前」として、わたしたちを締めつけるものが存在する。そこにたまたま意識が向いて、一度でも認識してしまうと、たぶんずっと苦しい。だから逃げたくなる。そして旅に出る。解放を求めて。「きみ」のバンコクでの日々はそういう逃走なのだ。「きみ」がなんとなく見入っているのが床のタイルというまっさらで平凡なものだというのが印象的だった。それから後半のプールの話。水中メガネを装着した「きみ」の視線がとらえるプールの底の「翡翠色のタイルの表面に現れては消えるランダムな光の現象」のうつくしさが、現実から遠くへ逃れることに成功したかのような解放感をもたらす。水に沈もうとする体がもつ浮力の存在が読者の身体感覚から思い出され、ふわーっと離脱していくような解放を惹起する。

 

水中できみが四肢を動かすこと、それによって水の量塊が攪拌されることで、光の像が揺らめいた。光が形態ならざる形態の、そのひとつひとつが現れているのはほんのひとときのことに過ぎないさまざまなパターンを、プールの底面と側壁とに連綿と提示し続けていること、その美しい現象の成立にきみ自身が一枚嚙んでいるのだという事実にきみはその時改めて、あるいは今さらのように気がついて、そして驚嘆した。

岡田利規ブロッコリー・レボリューション」新潮2022年2月号58頁より引用)

 

 

しかし、浮力とは反対の感覚をもこの作品は置き去りにしない。プールのエピソードの前の章の終わりで「ぼく」が蹴ろうとしたママチャリと倒れ込んだという無様な場面がある。「ぼく」による暴力と、自身の暴力の想像にいっそ壊されたいとすら思う「ぼく」の痛々しい現実だ。「きみがバンコクに行ったのだ」という「ぼく」の妄想を壊せば嫉妬だって無くなるだろうに、妄想は壊れず、「きみ」は「ぼく」から逃走したまま別のだれかといちゃついている。

だけれど本当に「きみ」は逃避に成功しているだろうか。

読者の前に現れる「きみ」は「ぼく」の語りに絡めとられた存在でしかない。客体としての「きみ」が実際どうなっているのかはわからない。ただ「ぼく」に妄想される「きみ」はどこまでも語りから逃れることができない。小説構造の「当たり前」に絡めとられて、そのことに気がついたらきっと苦しいだろうな。きみはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども。