言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

書けない日々の声たち―ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』

これまでブログに詩集の感想を書いたことがなかったから、今回ははじめての試み。そもそも普段あまり詩を読まないし、読めないし、詩集の感想を書こうとしているくせに「詩のことば」をちゃんと理解しているのかと問われたらちょっときびしい。それでも書いてみようと思ったのは、私がこの一冊の本にずいぶん救われたからだ。

 

ルイーズ・グリュック 著、野中美峰 訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、2021年)

 

 

 

「Word/mist, Word/mist……

ことば/霧、ことば/霧……。ことばは霧であり、霧はことばであり、ことばは霧に隠れ、霧はことばを宿す。」

(今福龍太「霧のなかのルイーズ・グリュック」『新潮』2021年2月月号掲載)

 

 

発売からだいぶ遅れて読んだ雑誌にこう書いてあったのがしばらく心の中に引っかかっていて、それである日ネットで検索すると『野生のアイリス』(『The Wild Iris』)の日本語訳が発売されていたことがわかった。

2020年ノーベル文学賞を受賞したアメリカの詩人ルイーズ・グリュックの6冊目の詩集で出版は1992年、翌年にはピュリッツァー賞を受賞とのこと。

 

小説を書こうと思って机に向かったのに一言も書けず、ひらいたノートをとじた朝があった。鏡をみたら顔面蒼白になっていた。電話一本で書き手としての生き方が激変して、緊張やらストレスやらでちょっと精神的に大変なときだった。支えてくれるものが欲しかった。霧の深い朝だった。つめたい外気に飛び出していって車に乗ると、オートでヘッドライトが点いた。空中にただよう水を光でかきわけながら走って、本屋まで出かけた。そうして手に入れたすがすがしいうつくしさを纏った詩集を、部屋でひとりよんだ。寝転がって、詩のことばひとつひとつを声に出したりして、ちょっとたのしい時を過ごした。その時はどうしてかわからなかったけれど、とても元気づけられた。詩集をとじた。昼を大きく過ぎた頃、霧は晴れていた。

 

何度か読み直しているうちにこの詩集の言葉が、詩人の内面の葛藤であったことがわかった。草花や神との対話に仮託された詩人の声。訳者あとがきにもあるようにこの詩集は二年間一篇の詩も書けなかった著者が、長くつらい沈黙のあとに二カ月で書き上げたものだった。

「苦しみの果てに/扉があった。」「わたしは告げよう、わたしは再び話すことができた、と/忘却から蘇るものはみな声を見つけるのだ、と。」(「野生のアイリス」より引用)は、そのまま言葉で創作する者にとっての希望だ。

「悲しみという言葉がやってくるまで、/自分がそれを/感じるということすら知らなかった。雨がこうしてわたしから滴り落ちるのを感じるまでは。」(「エンレイソウ」より引用)や「あなたを取り戻す、/そのためにわたしは/書くのです。」(「夕べの祈り―再臨」より引用)は、書くことへの期待、書くことで得たり取り戻したりすることがあるという証明、けれどようやく取り戻せたと思った存在は書き言葉である以上「こんなにもあっさりと/イメージに、匂いに、姿を変えてしまっただなんて――」と書き手を驚かせることもある。

この詩集に登場するのは、庭作りをする詩人、庭や野の草花、創造主である神だけれど、彼らは詩のことばで作られた存在で、作ったのはルイーズ・グリュックという詩人だ。だから主な舞台である「庭」はもしかしたら詩人がことばを書きつけていく「紙」かもしれない、などと考えてみるとたのしい。全体の中の一部として存在するもの(庭の草花や佇む人)とそのあり様は、無限の中に限定される具体的な存在としてしっかり風景に根を張る。同時に作中の庭に流れる時間を有限にする。詩人のことばは、庭作りをする詩人の祈りにも草花のぼやきにも神の嘆きにもなって響き、内面に反響してから具体を纏って外側に、作品として咲きこぼれる。

 

わたしがお前たちを一つに集めた。/ただの練習、/捨てるための原稿の下書きのように消してしまうこともできる、最も深い悲しみのイメージとして、/お前たちはすでに完成したのだから。

(「九月の黄昏」より引用)

 

 

ところで春先に自宅の庭を見て毎年思うことがある。何もしてやらなくても冬を越えて春に芽吹く多年草はどこに何が植わっているのかいつもわからなくなっている。庭の手入れでもしようかなと思って土に触れるが、間違えてこれから花を咲かせるものを引き抜いてしまわないか心配になる。さっさと抜いてしまったほうがいいかもしれないものもあって、以前一株植えて放置しておいたルピナスの野生化には驚いてしまった。気がつくと庭をはみ出している。よく見るとうちだけではなくて、何軒もの家の庭からはみ出している……。植物の生命力ってすごい。じっと土の中の沈黙に埋まっていた球根が二年間一篇の詩も書けなかった作者にかさなるとしたら、机に向う朝のいっとき書けなかったくらいで青白い顔をして嘆いていてはだめだなと、自分の未熟さを思う。