言葉でできた夢をみた。

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著者が約束した後篇―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇の感想①

近代小説のはじまりと言われているセルバンテスの『ドン・キホーテ』を今年に入ってから読んでいたのだが、つい先日後篇を読み終えた。長いような気がしていた物語も、読み始めればあっという間に終わってしまった。今回からしばらくの間『ドン・キホーテ』後篇についての感想を更新していきたいと思う(前篇については、過去記事参照。関連記事としてこの記事の一番下にリンクを貼っておく)。

 

セルバンテス 著、牛島信明 訳『ドン・キホーテ』(後篇)、岩波文庫2001年

引用頁番号などは、すべて岩波文庫版に拠っている。

 

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

 

 

「ひょっとして」と、ドン・キホーテが言った、「著者は後篇を約束しておりますかな?」

「ええ、約束しています」と、サンソンが答えた。「しかし作者は、まだその続きが見つかっていないし、それを誰が持っているのかも分からないと言っているので、本当に後篇が日の目を見るのかどうか、いまだはっきりとは言えない状況です。かてて加えて、「後篇がよかったためしがない」と言う者がいるかと思えば、「ドン・キホーテの行状なら、これまでに書かれたもので十分だ」と言う者もいたりで、後篇の出版を疑問視する向きもあります。」

(『ドン・キホーテ』後篇、4章、79頁より引用)

 

まず一番衝撃的なのは、『ドン・キホーテ』後篇の世界では、すでに前篇が広く出版され人々に読まれている!という設定になっていることだ。登場人物の中には『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(前篇)を愛読している者さえいるのだ。そういう人にとっては、向こうからやってくる痩せ馬に乗った時代錯誤の騎士は、本で読んだ「あの」人物だ、とわかってしまう。なんだかすっかり有名人になった≪愁い顔の騎士≫ドン・キホーテ。こんな設定になっているからこそ、上に引用した通り「後篇」の出版についてあれこれ意見を述べる人物もいるのだ(ちなみに上に引用した文章に出てくるサンソン・カラスコという人物はドン・キホーテと同じ村に住んでいる学士で前篇を読んだことのある人物である)。

いつの時代も同じようなことが言われるらしい。現代日本においてもなんとなくわかる感覚がスペインの小説(それも17世紀)に書かれている。その感覚とは「根拠はよくわからないが、小説でもドラマでもアニメでも、ヒット作の続編はつまらない」というもの。巷でよく聞くうわさ話のネタである(『ドン・キホーテ』後篇に関して言えば、前篇とは違った意味で面白い、と私は思う)。

 

作者であるスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』前篇が出版されたのが1605年、それから十年後の1615年に後篇が出版された。『ドン・キホーテ』前篇がそれ以前に刊行されていた騎士道小説を下敷きにしているのと同じように、後篇は前篇の物語を下敷きにしている。さらに複雑なことに、前篇と後篇の間には『ドン・キホーテ 続篇』という贋作が存在している。アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダなる人物によって書かれたこの贋作は実際に出版されているわけだが、セルバンテスは後篇を書くにあたり、贋作の存在までも取り込んでしまった。つまり、『ドン・キホーテ』後篇の作中世界では、前篇だけでなく、続篇(贋作)までもが出版されて人々に読まれている!ドン・キホーテが自らについて記述された物語の存在を耳にするし、贋作ドン・キホーテを手にとる場面もある。前篇の記述の矛盾をサンチョが印刷のミスだ、などと弁解する場面もある。

前篇も後篇も作者はアラビア人の歴史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリという設定になっており、セルバンテスはそのテキストを翻訳したのだ、という語りの特徴を持っている。ある行為が記述され、翻訳され、出版されるという流れを一作の中に書き込んだ『ドン・キホーテ』のメタフィクション構造は現代人が読んでも十分楽しめると思う。

後篇は、ドン・キホーテの三度目の遍歴が描かれている。もちろん、従者のサンチョ・パンサも一緒であるが、前篇とは旅の印象がかなり違う。前篇ではドン・キホーテの狂気に物語の原動力があったのに対して、後篇ではドン・キホーテ自身に物語を押し進める力はないのだ。彼によって、というよりは彼の周りにいる人々によってドン・キホーテは欺かれ、嘘に嘘を塗り固められて遍歴の旅を続ける(これがちょっと悲しいところかもしれない。自らの冒険を信じ切れない≪愁い顔の騎士≫はどこか不安そうに見える)。

 

今回の更新はざっくりこんな感じの感想にとどめておいて、次回から以下のことについてもう少し詳しく書いておきたいと思う。

 

①「本」というものをめぐる原作者と翻訳者、そして登場人物たちの意見と行動

→後篇世界の人物たちの中には『ドン・キホーテ』前篇や続篇(贋作)を読んでいる人物が登場する。前篇を読んだ人と読んでいない人では、ドン・キホーテその人を見た時のリアクションが全然違っている。贋作に登場する人物とドン・キホーテが後篇世界で出会ったりもする。それだけではなく、後篇は前篇に書かれた物語の矛盾を指摘してみせたり、小説論のようなものを展開するなど、メタフィクションの要素が強い。「原作者」や「翻訳者」が作品のいたるところに顔を出す。また、ドン・キホーテが印刷所を見学する場面もあり、それについても少し紹介したいと思う。

 

②演じるということ―ドン・キホーテに含まれる素朴な芝居観念について

→嘘に嘘を塗りこんでいく過程で、多くの登場人物たちが自分ではない何者かを演じる場面が多くある。そもそもアロンソ・キハーノというラ・マンチャ地方のある村の郷士が遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを演じている。

 

③名づける、ということで作り上げられる世界の枠組み

→遍歴の騎士は前篇において自らの名前をつけ、想い姫の名をつけ、愛馬の名をつけた。そこから「冒険」がはじまるのだが、後篇においても新たな冒険を示唆するような名づけが行われている(しかし、それは実現する前にドン・キホーテは臨終を迎えてしまう)。

 

④魔法のしくみ、その性質

→あらゆる出来事を「魔法」のせいにしていく『ドン・キホーテ』であるが、前篇と後篇では描かれる魔法の性質が違っている。上述したように、後篇にはドン・キホーテ自身に物語を押し進める力はないのだが、それは魔法の源泉が彼にはないからである。終始、周囲によって作り上げられた「魔法」の中をドン・キホーテは進まなければならなかった。なお、ドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアを醜い村娘の姿にするという「魔法」を使ったのはサンチョであり、彼が後篇の物語で一番はじめにドン・キホーテを欺いている。

 

 

以上、今後数回に分けてざっくりこんなことを今後書いていきたいと思う。

 

おお、令名赫赫たる作者よ! おお、幸運なドン・キホーテよ! おお、その名も高きドゥルシネーアよ! おお、機知に富んだ愛嬌者のサンチョ・パンサよ! そなたたちが一人ひとり、また皆いっしょになって、この世に生を受ける者たち共通の慰めとも喜びともなるために、無限の世紀を生きながらえますように!

(前掲書40章、247頁-248頁)

 

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