言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

野生の馬、その美しい不在―パスカル・キニャール『落馬する人々〈最後の王国7〉』

水声社から刊行されている「パスカルキニャール・コレクション」の中でも、私は特に〈最後の王国〉シリーズを楽しみにしていて、全巻購入しようと思っている。部屋の片隅で夢中になって読んでいるうちに、時間は過ぎ、日は暮れて、思えばその日一日はだれにも会わず話さずであったことの幸福をひとり思うのだ。

今回は〈最後の王国〉シリーズ7巻目にあたる『落馬する人々』を読んだ感想を書いていく。ちなみにこのシリーズは著者のライフワークであり本国フランスではまだ書きつづけられているそうであるが、水声社からは9巻までが邦訳される予定になっている。1冊ずつゆるやかに繋がりつつも基本的には独立しているため、どの巻から読んでも問題ない。すべて読み終えたあとに〈最後の王国〉とはどういうものであったか、振り返ってみることができたら、それは幸せな読書の旅なのだと思う。

 

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パスカルキニャール 著、小川美登里 訳『落馬する人々〈最後の王国7〉』(水声社、2018年) 

落馬する人々 (パスカル・キニャール・コレクション)

落馬する人々 (パスカル・キニャール・コレクション)

 

 

 

異論の余地なく、自分よりも美しいと人間が認めた唯一の動物こそ、おそらく馬なのだ。

(前掲書、71頁より引用)

 

人間の歴史に想いを馳せると、ここにもあそこにも馬がいる、ということに気がつく。そう、自動車や鉄道、飛行機が登場するまで人類最速の移動手段は馬であったのだ。移動だけではない、例えば悪夢という言葉は、夢を見る女性の乳房にのしかかる雌馬を意味するそうだし、嵐は空を駆けるギャロップの轟音に喩えられることがある(71頁)。人間と馬の関係は実社会から空想の世界まで、広く見られる。そしてその中で時々、落馬する人々がいる。

受胎時には確かに個(孤独な存在、本来的に人間は個である。)であった人間が誕生後に徐々に社会化され集団を形成していく。その集団の持つ残酷さ、起こし得る戦争という行為は何に依るものなのか、またそれを抑止することは可能なのか、人間存在を個人的なあり様から歴史的なあり様まで考察する、この壮大な問いを、本書は「人と馬の関係」から語る。

 

5番目に「恥辱の荷鞍」という章があって、ここでは馬と鹿が戦ったエピソードが引かれる。鹿たちは「人間の手を逃れ、主義としての逃亡者であり、飼い慣らし難く、魂の底まで猛々しい」(22頁)存在と規定され、そんな鹿の優位に見栄っ張りの馬は耐えきれず戦うことになった。

決着のつかない決闘。

「お前の背中に私を乗せてくれさえすれば、勝利をもたらしてやろう」

谷から近づいてきた人間を騎手として乗せた馬は鹿の首を刎ね、勝利する。けれどもそれ以後馬は機種からも馬銜からも乗馬鞭からも自由になることはできなくなった。「たちの悪い勝利」(23頁)。他方、負けた鹿たちは以後、人間からも馬からも動物丸出しの逃走を宿命づけられるが、ここにもまた「奇妙な勝利」といえるものがあった。すなわち「ひとつの不服従。誇示された馴化への抵抗、落馬行為そのもの」(24頁)。

 

この馬と鹿の戦いこそ、個としての人間が集団を形成する過程と重なる。人間を乗せた馬は社会化された共同体であると言える。文化的に人間に近い馬を、人間の集団化のたとえとして利用する。では「落馬する」とはどういうことか。それは社会との関係性を絶ち切って個として再生することだ。そして落馬したものは「書く行為」を始める。その例が本書『落馬する人々』にはいくつも引かれる。ランスロットやアベラール、パウロ、ペトラルカ、モンテーニュ、ブラントーム、ドービニェ等々。

 

落馬がきっかけとなって聖パウロ、アベラール、アグリッパ・ドービニェはものを書きはじめる。

彼らが書きはじめたのは、少なくとも自分が死者の世界から戻ってきたかのような気がしたからだった。

(前掲書、46頁より引用)

 

「落馬」を契機に書き始める、とすると、「書く行為」は本質的にひとりでするもの、孤独に属するものであると考えることはできないだろうか。

 

社会化され集団となった人間たちが次に引き起こし得るものは「戦争」である。

著者は「戦争」の原因を人間の内側に求める。「原初の苦しみ」、自分より強い者(捕食者)への根源的な恐怖だ。この強者を殺害するために人々は共謀せざるを得ない。そうして遂行されて生じる「死」に一種の神聖さを与えるものが「宗教」であり、殺害という原初の罪を繰り返し共同体内に再生するものが「供儀」だ。いずれも共同体を強化する作用を持つ。人間の内面に深く刻み込まれている「原初の苦しみ」というものが人を群れさせ、戦いに赴かせる。さらに共同体を維持するために「供儀」をもってその戦いが焼き直しされていく……。そう考えれば戦争というものは人間の内側から湧いてくるものであり、とどめようもないことである、となってしまう。ただひとつ、恐怖から生じる暴力による連鎖を食い止める方法は、その暴力を自分自身に向けることである、とも著者は語る。鬱、拒食、引きこもり。

 

……なんて、何とかこの一冊に込められた著者の深い思索を読み解こうとしてはみるものの、やはり的外れなことばかり書いてしまったかもしれない。読み始めたばかりの頃、私はこの書物について、思想書だろうか小説だろうか、と一度立ち止まった。『落馬する人々』もこれまでこのブログで扱った他の〈最後の王国〉シリーズと同じように断片から成っている作品だ。一冊の本を構成する複数の断片(そしてそれらは何冊もの本から抜き出されてきたものであろう)。断片的にあらわれてくる様々なイメージから思索を浮き上がらせる手法、読み終えてから、この構成力は間違いなく「小説」の力だと思った。著者であるパスカルキニャールはしばしば読書を狩猟行為に喩えているそうだが(『さまよえる影たち』参照)その姿勢が本作では特に際立っていると思う。この作品は荒々しくも美しい野生である。

 

ことばもまた、ひとつの捕食行為なのである。

(『落馬する人々』228頁より引用)

 

ジョルジュ・サンドは父親の落馬事故の報を聞いた部屋、その片隅を「不在」と呼んだ。彼女はいつもそこで書き物をしていた。生涯この「不在」の場所で不在であることを臨んだ。

読書や書き物に没頭している時、そのひとはその場にはいない。その没我的な空間さえ実は存在しない。そこは読書、あるいは書き物をしている間にのみ浸れる場所。あるいは〈最後の王国〉というのはそういうことだろうか。束の間「不在」であることは完璧でないにしても、ある種の落馬行為と言えるのかもしれない。

 

わたしは読書しながら眠り込んだ。わたしはそこにいながらにして旅をしていたのだ。ひきこもりが真の大旅行というわけではないが、大旅行とはむしろ「非-場所」でなされるものなのだ。つまり、どこにもある片隅、壁の隅、空間でない場所、あるいは時間の中で。

自分を守るために人々の下す審判に従うのを止めたとき、それまで自分を傷つけていたものが一瞬にして千々に裂けて消え去る。まるで陽光が差した瞬間の川面の霧のように。

(前掲書、286頁より引用)

 

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