言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

網の目の自立―森田真生『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』

私は子供の頃、一生大人になれないと思っていた、ような気がする。その当時実際にどう思っていたのかなんて今となってはある程度想像するしかないことなのだけれど、ひとつ確かに言えるのは、子供の私にとって世界が「圧倒的なもの」に見えていたことだ。目の前からどこまでも続く道路は誰がつくったのか、どうして信号機は淀みなく赤や青にひかるのか? 家はどうやってつくるの? テレビから流れてくる番組は誰の頭のなかにあったものなの? この絵本は、この物語は……と、自分の目の前にあるものが何一つわからなかった。電化製品が大変な恐怖だったことも覚えている。特にカセットテープ、本を読んでくれなかった母親の代わりに喋っている機械が、もし永遠に止まらなくなったらどうしようと思って執拗に停止ボタンを押していた。学校の行事で「社会見学」なんてものがあって、浄水場下水処理場を見学したけれど、その断片が「圧倒的なもの」として映る私を取り巻く世界と結ばれることはなかった。そして「大人」になったら、仕組みなんて全然わからないのにそんな「圧倒的なもの」を作らなければならないと思っていて、そんなの無理に決まっているし今では一人の存在が一から十まで建設しているわけではないことを知っているが、その当時はわからなかった。それが一生大人になれないという思いにつながっていたのではないか。

 

そのことが今回紹介する一冊の本とどうつながっているのか。

それは、子供時代の私にとっての「大人」のイメージとは狭い意味での「自立」だったのではないか、ということだ。

 

森田真生『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社、2021年)

 

 

〈「ここでないどこかに行く」ためではなく「すでにいるこの場所を精緻に知る」ために〉(帯文より)

「これまで反復していた自然がかつてのようには反復しなくなり、当たり前にいたはずの生き物たちが次々と滅びていく世界で、心を壊さず、しかも感じることをやめないで生きていくためには、大胆にこれまでの生き方を編み直していく必要がある。」

(前掲書、3-4頁引用)

 

 

本書は、2016年『数学する身体』で小林秀雄賞を受賞した森田真生さんのエッセイだ。2020年春、つまり新型コロナウイルスの感染が日本で急拡大を始めたころから1年ほどの出来事と著者の思索がつまっている。

著者によると、アメリカで独自の環境哲学を展開するティモシー・モートンは同じことが別のスケールではどんな意味を持つかを常に想像し続ける姿勢を「エコロジカルな自覚」と呼ぶ。(エコロジカルな自覚=おびただしく多様な時間と空間の尺度があることに目覚めること)すべてがただ順調に作動しているときには、その順調さを測るための「一つの尺度」に依存しているわけだが、順調でなくなる(危機に陥る)時に、人は初めて自分がこれまで寄りかかっていた「一つの尺度」の脆さに気づき、いままではとは別の尺度を探し始める。

 

大洪水や干ばつ、森林火災など世界的な自然災害の増加によっていよいよ顕在化してきた地球環境の問題や、新型コロナウイルスの世界的流行が多くの人間に「危機」として迫った。特に新型コロナウイルスによって、それ以前までは当たり前に動いていた社会生活が否応なしに寸断されてしまうという事態に、私たちは遭遇した。それで「新しい生活様式」というのが盛んに言われて、家にいて、ひとりで過ごすための様々な物へのニーズが一時的に高まった。いつもより本を読もうと思う人もいたし、ネットフリックスとかアマゾンプライムの契約をして、映画やドラマをまとめて観ようと思った人も多かったと思う。業種によってはそんな悠長なことを言ってもいられなくて、仕事を失う危機を抱いた人や、医療従事者として否応なしにコロナのすぐそばにいるしかなかった人もいただろう。「私って、この状況でどう生きればいいの?」はっきりそう問うことはなくとも、今まで依存していた「一つの尺度」から別の尺度を探さなければならなくなった。

 

本書の著者はパンデミックの前までは国内外を忙しく旅しながら、数学にまつわるレクチャーやトークをするという活動をしていたが、それが次々と中止や延期になったことで、「自分が言葉を発するよりも、自分でないものたちが発している声に、耳を澄ます時間が多くなった」という。何せ冒頭いきなり「僕の一日は、家にいる生き物たちの世話から始まる」と本書は切り出される。カワムツ、ヨシノボリ、エビ、オタマジャクシ、サワガニ、トノサマガエル、クワガタ、カミキリムシ、カマキリに餌をやり様子を確認し、昨日の生ゴミコンポストに入れ、カブ、パクチー、万願寺唐辛子、トマト、モロヘイヤ、ローズマリー、レモン、ミントなど庭にたくさんの野菜やハーブがひしめいている。(そもそもこうなるに至った経緯に幼稚園のお子さんの「ねぇ、おうちも、おにわも、ぜーんぶようちえんにするのはどうかな!?」という提案があって、なんだかほっこりした。)

自分とは違う生き物と暮らすということは、これまでの自分の生活の中に別の尺度が入り込んでくることだと思う。

 

かつて「自力」を信じることができた時代に、知の目指すところは「正しさ」であったが、エコロジカルな自覚のもとではこのような「高さ」という考えそのものが機能しなくなる、と著者は書く。エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)のなかに自己を感覚し続けることで、網には「てっぺん」などない。人間は、人間以外のものに深く依存して生きているわけだが、近代という時代はそのことを巧みに秘匿してきた。人間は人間だけで「自立」していると思っていた。だが、本当のところ「自立」とは「何ものにも依存していない」状況ではなくて、むしろ依存先をいくつも持つことによって「一つ一つの依存先への依存度が極小となり、あたかも何ものにも依存していないかのような幻想を持てている状況」なのだと小児科医、熊谷晋一郎氏の脳性まひ当事者としての経験を引きながら本書の著者は説明する。「弱いからこそ」人間は他者とつながることができる。強い主体として「自立」を保つことではなく弱い主体として他のあらゆるものと同じ地平に降り立つこと、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として自己を再発見していくことを説く。

 

 

この記事の始めに書いたが、子供の頃の私にとって世界は「圧倒的なもの」に見えていた。その世界は完成されていて完璧に私を包み込む「絶対」だった。そんな遥かな「てっぺん」みたいなものを作るのが「大人」でそれは「自立」しているべきものだった。

漠然とであれ、そんなふうに思っていた子供の頃の私に言いたい。

この世界は、本当は無数の小さなものの犇めき合いからできていて、その関係の中であなたは生きているんだよって。だから、たとえばあなたが今日書いた他愛もない作文や、私が今書くこんなブログ記事でさえも、その一部として世界の形になっているんだよって。