言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

収斂しないイメージ、無限定なメキシコ―カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』

カルロス・フエンテス(1928-2012)という小説家の作品を今回初めて読んだ。今回はこの本についての感想。

 

カルロス・フエンテス、寺尾隆吉 訳『澄みわたる大地』(現代企画室、2012年)

 

澄みわたる大地

澄みわたる大地

 

 

カルロス・フエンテスは、現代メキシコを代表する作家であり『澄みわたる大地』の他に代表作として、『アルテミオ・クルスの死』、『テラ・ノストラ』がある。実はこの作品を手にとったのは『テラ・ノストラ』を購入しようかどうか悩み、一先ず図書館で手に取ることのできるフエンテス作品を読んでから決めようと思ったという、ただそれだけのことだった。

現代メキシコについて、私には何の予備知識もなかった。メキシコ・シティがどんなところなのか、どんな歴史をもっているか全く知らなかった(そしてたぶん今でもよくわかっていない)。大雑把な世界地図上の位置くらいしか知らずに『澄みわたる大地』を読んでどう思ったのか?

一読目でメキシコ・シティの喧噪が伝わってきた! まさに人間が都市を作り、都市が人間を作るという相互関係が見えた!なるほど、これは「都市小説」なのか!と思った。

そして続く二読目でメキシコ・シティは巨大ではあるが、その実態がついに掴み切れない霧のようなものに変わってしまった。読めば読むほど、都市の混沌や雑踏にメキシコの・シティのイメージが隠れてしまう。まるでメキシコ・シティは固着したイメージを嫌ってでもいるかのように、ひとつのイメージに収斂するのを拒否する。この小説にはじつに様々な階層の人々が登場し、それぞれが多様な「メキシコ観」を語るが、結局のところメキシコは、ありとあらゆる説明を拒否するのである。

 

そんなメキシコを都市小説として描きだして見せたカルロス・フエンテスの技巧にはただただ驚嘆した。訳者あとがきから引用させていただくと、「都市という巨大な怪物を相手に、手法的実験を繰り返しながら多様な社会階層を代表する登場人物を繰り出し、彼らの話し言葉を再現すべく、方言や俗語を広範に取り込んで完成したのが本作『澄みわたる大地』である。」(前掲書、502頁より引用)とのことだ。

技巧について一番印象に残ったことを書くならば、ある人物の長い長い台詞の中に突然≪ ≫が現われて、声にならない声が綴られていたり、やはり≪ ≫で括られた声にならない声として、死者(ヘルバシオ、父さん)と生まれる前の者(僕)の対話が繰り広げられる。次に引用する部分だ。これはロドリゴ・ポラという人物がイスカ・シエンフエゴスという人物に父親の話を語っている台詞である。

 

「親父はベレン刑務所でビクトリアノ・ウエルタに処刑された。一九一三年のことで、俺は親父がまだ刑務所にいるときに生まれた

≪父さん、死ぬ前に僕のことを思い出した?一瞬でも僕のことを考えた?

 精巣、生ぬるい鼠径部、覚えているのはそれだけだ

 で、僕は?もう母さんの血を熱くしていた僕のことは?

 いや。寒い夜明けだった。ティエラ・カリエンテを流れる川で羽を濡ら    しながら鳥が横切り、鉛の弾が何の感触を残さずに体を貫くと、すべてが灰色になる。それだけだ≫

だが死体は返ってこなかったから、俺たち、というか、おふくろだけど、何年も後になって、親父が他の名もない革命戦士の死体と混ざり合った頃になってようやく知らされた……(後略)」

(前掲書、133頁より引用)

 

実はこの場面にいたる前に、読者はロドリゴ・ポラの父親であるヘルバシオ・ポラという1910年革命の将校の死に様を見ている。その印象的な銃殺刑のシーンで「ティエラ・カリエンテの川で羽を濡らす鳥の姿」という語が出てくる(86頁)。ロドリゴ・ポラが父親について語る長い台詞を読みながら、読者はヘルバシオ・ポラの生き様や死に様が否応なしに思い起こされることに気がつく。

 

この物語のあらすじについて簡単に触れておこう。

 

「私の名はイスカ・シエンフエゴス。生まれも育ちもメキシコ・シティ。大したことじゃない。メキシコに悲劇などない。すべてが屈辱になる。」

(前掲書、8頁)

 

と、書き出されるこの小説は、前半は主にこのイスカ・シエンフエゴスなる人物がありとあらゆる階層の人々のもとへ自由に出入りし、彼らの話を聞いていくという体裁をとっている。先ほどから登場する人物の社会階層の多様さについて言及しているが、どのくらい多様かというと、伝統的な(革命前の富豪という言い換えれば没落貴族的な)家柄の人、銀行家(革命後の富豪)、知識人(詩人、ジャーナリスト、マルクス研究者などなど)、革命家、ブルジョア、キャバレーの娼婦、タクシー運転手とその家族、出稼ぎ労働者……さらに詳細不明の未亡人でどこか呪術的な雰囲気の漂うテオドゥラ・モクテスマ、正体不明の聞き手イスカ・シエンフエゴス。この多様さを読んでいるだけで、メキシコ・シティに混沌が渦巻いているような気分になる。そんな彼らが語る「メキシコ観」は中盤以降、作中人物同士の関係性が見え始めると、作品の中で互いに対立したり和解したりしているのに気がつく。「メキシコ観」という内面のズレを残したまま、社交パーティーの上辺だけが取り繕われたり、夫婦関係が取り持たれたりと微妙なバランスが楽しい。銀行家の没落と共に雪崩のように崩れかかってくる物語のクライマックスは独立記念日メキシコ・シティのソカロを埋め尽くす人々の叫び(グリート)に溶け込む。革命を機に成功した者もいれば、没落したものもいるし、特に変わらない生活をしている者もいるメキシコ。結局の所、そこに住むすべての人間は、その限られた大地の上で自らな与えられた運命を遂行するのだ。

 

もう一つだけ、私が気になったことを書いておこう。

それは作品のいたるところに「こちら側」と「あちら側」、「こちら側」と「そちら側」といった言葉が使われ、二項対立を想定しているように読める部分が目立つ、ということだ。

 

「こちら側にとどまればお前は無名の男、みんなと孤独を共有する。あちら側に行けばお前は名を成すが、群衆に囲まれていても人との接触はない。さあ選べ」

(前掲書72頁より引用、イスカの台詞)

 

この「こちら側 / あちら側」という感覚自体がひとつのメキシコ観(というかラテンアメリカ各国に存在する?国家観?)であるとは言えないだろうか? つまりヨーロッパ史的な見方である「新大陸」「旧大陸」という土地の捉え方だ。この二項対立から脱却しようと試みることが、あるいはラテンアメリカ文学においてひとつのテーマなのかもしれない。そのために「こちら側」でも「あちら側」でもない「その他もろもろの側」を描くということが小説という芸術表現にはできてしまうのだから(なんて言っているとフリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』を再読したくなってくる笑)。

私は『澄みわたる大地』を読みきれたとは思えないけれど、この作品において「その他もろもろの側」を引き受けているのは間違いなくイスカ・シエンフエゴスという得体の知れない存在だろう。私には彼が「固着したイメージを拒否し続ける無限定なメキシコ」そのものであるように思えるのだ。

 

ここが我らの都。なすすべなど何もない。この空気澄みわたる大地。

(10頁/小説の始り そして497頁/小説の終り より引用)

 

以下私(@MihiroMer)が『澄みわたる大地』を読みながらTwitterでつぶやいていたことのメモ↓↓

(スルー推奨)

 

カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』を読んでいる。メキシコについてまた、フエンテスについて一切予備知識のない状態で読み始めたから大変(汗) でも100頁こえたあたりから面白がり方、みたいなものがわかってきたような気がする。

 

カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』第1部を読み終えた。もういろんな人が登場してる段階で、メキシコ・シティの混沌とした感じが伝わってくる。登場人物たちそれぞれに抱える「メキシコ観」とそこに至るまでの出来事は先祖にまで遡るよう。断絶だったり延長だったり。

 

カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』を読んでいる。革命を経て、変わる人生変わらぬ人生。いろんな人がそれぞれに自分にとって都合の良いメキシコ観(像)を語っているように見える。まだ読んでいる途中なので今のところこんな印象だ、としか言えない。

 

都市小説の面白さは、形成されつつある物体としての「都市」とその中で繰り広げられる人間の営みが結びついた時に起こると思う。

 

この間読んだメキシコの小説がたまたま『ペドロ・パラモ』だったからかもしれないが、メキシコには声があふれているように思える。フエンテスは視覚的な描写にも質量があるけれど、何より混沌と渦巻くメキシコ・シティにあふれる声が聞こえてくるように書かれていて興味深い。

 

実は今日も一日お休みだったのですが、ずっとカルロス・フエンテス『澄みわたる大地』を読んでいたら一日が終わりました。おかげさまで読み終えることができたわけですが……これはなかなか感覚的に理解するのが大変な本でした。現代日本人に革命や独立記念日の感覚はわかりにくい。

 

物語のクライマックスが独立記念日あたりに設定されていて、メキシコ・シティのソカロの喧騒がぐわぁぁぁぁっと盛り上げにかかるのですが、同じような盛り上げ方を日本の建国記念日で小説に書いてみても、ああいう風にはならないだろうなぁ(苦笑)

 

カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』を読んだ。実に様々な境遇の人々が語る「メキシコ観」、そこにはメキシコの地理や歴史とともにそれを語る人々の社会的成功や没落も込められている。人々の聞き役はいつも「イスカ・シエンフエゴス」という名の正体不明の傍観者。

 

あらゆる階層(貧民から銀行家まで)の人々の家に出入りし、彼らの話を聴きとっていくイスカ・シエンフエゴスの不気味さ。そして彼が関わる人間たちの間に少しずつ関係性が見え始めたあたりから面白くなってきた印象。

 

結局の所、人間は限られた大地の上で自らに与えられた運命を遂行するという話だった……ような気がする(一読じゃ汲みきれなかった笑)。そんなわけで明日から二読目です。独立記念日の風景については思わずググってしまったが、なんかラテンのノリはすごいなと思った(微笑)

 

地の文にさりげなく、死者(過去)の対話が挿入されていたことに気がついてふるえている。「川で羽を濡らす黒い鳥」というイメージだけで繋ごうとしたらしい。すごいな、『澄みわたる大地』。容赦なく、直接関係のなさそうな言葉を突っ込んでくるメキシコの混沌が怖い笑。

 

『澄みわたる大地』の再読が終わるかなと思っていたが、終わらなかった。いやぁ、指示表なんてないのにコルタサルの『石蹴り遊び』ばりに、あちこち行きつ戻りつしながら読み直しております。派手な運命の陰でひっそり終わる人生の描かれ方が本当にひっそりしてて感動する。まさに色々な人がいる。

 

色々な人がいて、色々な運命がある。だがしかし、そのすべてはこの限られた大地の上で生成隆起する。空間だけでなく時間も限られている。今夜が明日の夜に繋がらない。無数の人の時間が縦に並んで細切れに歴史を作る。「ここが我らの都。なすすべなど何もない。この空気澄みわたる大地。」

 

過去なんて革命によってなくなったと主張する人物や、過去に向き合って意味づけ、説明するところにメキシコが立ち現れると考える人物もいる。原初のものを不動としてそこにメキシコの真髄を見るような人物もいる。でも究極的には「メキシコは説明しない」。この投げ出され感、最高にふるえる。