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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

酔っ払い小説―滝口悠生「文化」「夜曲」

滝口悠生さん、改めまして芥川賞受賞おめでとうございます。デビュー作「楽器」(新潮新人賞受賞)から淡々とやっていたような印象があります。デビューから読んでいた作家の受賞は、私が「書き続ける」ということのモチベーションになるみたいです(笑)

今回の記事では「文化」「夜曲」という短篇小説二作品を取り上げます。

           ◆

滝口悠生の短篇小説「文化」「夜曲」、どちらの作品も「酒を飲む場」(居酒屋、スナック)が舞台になっている。酒を飲むこと、その結果出てくる「酔っ払い感覚」みたいなものが、登場人物たちの視線を自由にし、作品内を自在に動き回らせるのを自然と可能にしている。時間さえも自在に動き回れるのは「酔っ払いの特権」なのだ。芥川賞受賞作「死んでいない者」の後に出た二作はどちらも酔っ払い小説だった。

以下、それぞれの作品について個別に見てみよう。

 

 

「文化」(新潮2016年1月号、創作特集「想像力の新しいパースペクティブ」掲載)

 

11月3日文化の日の神保町の居酒屋。この昼間からやっている居酒屋はやけに餃子がおいしそうだ。居酒屋というか、元中華料理店の飯屋で昼間から酒も出している。どこにでもありそうな小さな店で、派手でもオシャレでもTVで特集されるような気を衒ったところもない、そういえば学生時代こういう飯屋の世話になったなぁ……という親しみをもてる場所。何もめずらしいものはなく「雑踏が雑然として」いるような所。

そこに小説の語り手の身体はある。身体はある、なんて書くと変な感じだが、視点が小説空間を自在に飛び回る作品であるから一応の起点はけっこう大事だ。

語り手が飲んでいるビールが減っていく描写が作品に一貫性を持たせている。確かに、昼間からやっている居酒屋に語り手の身体はあるらしい。

しかし、思考がない交ぜになった視線は、ふらふらとどこまでも行ってしまう。魂抜けてんじゃないか? と思ってしまうほどに浮遊する視線。

 

「秋の冷えた空気を感じながら青色の濃い空を背景にして見る都心の高層ビルは、人々の目に凛々しく映った。しかし目はすぐに建物を逸れ、どこと焦点のさだめようのない空の中に泳ぎだした。なにしろ空は澄んできれいだった。見ているだけで気持ちよかった。空の奥をどこまで追っていっても、この日みたいな空ならば目はどんどん遠くまで行けた。遠く曖昧な果てまで送った視線を、すぐ傍らの古いビルとビルの隙間に戻してみれば、視界のうちにほんの一瞬で何千キロもの距離が生じ、焦点もその周囲の像も鮮明だったが、あの速い戦闘機だってそんな一瞬では移動できない距離に、視界が動揺し細かく震えるようだった。」(新潮2016年1月号掲載「文化」181頁より引用)

 

引用が長くなってしまったがこんな具合である。いい感じに魂が抜けている。また、語り手が自分自身を観察している描写が面白い。語り手自身を俯瞰する視線が、ごく自然に組み込まれている(あまりにシームレスすぎて、一瞬何かよくわからなくなってしまったが)。

 

「ビールを飲むと、あごがわずかに上を向き、一瞬その立ち襟の服に隠れていた喉元が見えた。年相応のしみやしわ、たるみに覆われてわずかに突き出た喉仏が鈍重に動いた。喉を通り、腹に流れて落ちていくビールの味と刺激にか、私は、思わず、といった様子で眼を閉じた。」(前掲177頁より引用)

 

同じ店内にいる家族についての描写があるが、そのところの視線も面白い。妻と息子のやりとりを眺めている父親を見ている私。「見る人を見ている」この二重性。しかもここに出てくる父親はどこかで会った誰かに似ている、というかよく見れば店内全部が似ているような気がしてくる。視線という個別性で描かれた風景は抽象化される。

その漠然と抽象化されたところに「時間」が加わる。かつての「文化の日」もこんな一日を送らなかったか? 未来はどうなるんだろう? 未来から見る過去は?

この作品は文化の日」という平日ではない1日を縦(時間)や横(視線)と様々な方向から切り取った作品だ。平日ではない(祝日)ということで特別にも思えるが、過去にもこんな一日があったような気がする。気がするけれど、それについて明確な根拠はない。すべては語り手の酔っ払い感覚由来の漠然とした記憶やそれをめぐる思考だ。

文學界2016年3月号に芥川賞受賞記念のインタビューが掲載されていたが、そこで滝口悠生は小説の語りについて、「カメラワーク」というよりも「視線」であることを強調していた。「カメラというよりは人間の目に近い」。見るということに含まれる雑多な事柄(例えば見るのと同時にしょーもないことを考えていたりする)を掬い取っていくこと、そういう作者の感覚を凝縮した一作と言える。

 

 

「夜曲」(芥川賞受賞第一作、文學界2016年3月号掲載)

 

カウンター六席、詰めて八人座れるだけの小さなスナックが舞台。そこを一人で切り盛りするママと常連客4人のある一夜が描かれる。芥川賞受賞作「死んでいない者」で故人や友人のはっちゃんが通っていたスナック……かもしれないと思えるような場所。「死んでいない者」のファンはそういう視点でも面白がれる作品(注:作品に直接の繋がりはありません、そういう描写も出てきません。ただ場の雰囲気が似ているので読んでいて「おお」と思ったり)。

この作品も酔っ払い感覚(?)に満ち溢れていて、いい感じに魂が抜けているところがある(語り手が自身を俯瞰する)。さらに「文化」と同様にある人の過去や視線を駆使しながらも、登場人物たちをぼやっと抽象化してみせたりもする。その場に居合わせる人々が「似たり寄ったり」だという話にもなるのだ。この表現がとても面白い。

 

「今日の客は男四人。平日の九時をまわって、このあと来る客はおそらくなかった。ひとり、ふたり……煮たり、酔ったり……手鍋の中のさつま揚げや里芋を転がしながら、頭の中でふざけて呟いていたら、三番目の早川と目が合った。」

(「夜曲」文學界2016年3月号掲載、12頁より引用)

 

このあとに「似たり寄ったり」という言葉が出てくる。こういう遊びをさらっと交えながら、「語られない過去」と「嘘」が人の思いの中で増幅する様が描かれている。昔の話を一切しないスナックのママや、「嘘だよ」と否定はするものの、一瞬だけ存在を匂わせられた近藤という人物の「子ども」。真実だと断定できるものなんか何一つない話題が(芸能人のゴシップに詳しい登場人物もいる)その場に居合わせた人々の想像力によって増幅され、可能性という形で、読者に提示される。登場人物たちの頭のなかにあふれてくる「もしも~」という文脈を追いながら、「ひとつの時間がおさまる」(短い作品ながら二度もでてくる印象的な表現)のだ。

 

真実を知らないからこそ広がってくる時間や空間、これはもしかすると、小説を読むということの愉しみそのものともいえるだろう。小説を読むのが好きだという人は、程度の差こそあれ、作者の語りに「酔って」いる。

 

 

新潮

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文學界2016年3月号

文學界2016年3月号