言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

傷口にあてがう―ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

「白いものについて書こうと決めた」と、始まる本書に最初に表れる白いもののリストはひとりの人間が生まれてから死ぬまでの時間に含まれ得るものだと思った。「おくるみ、うぶぎ」から「壽衣(註:埋葬の際に着せる衣裳)」までの時間。けれど読み進めていくと著者の文学の言葉が復元していくひとりの人間は、生まれてからたったの二時間で死んでしまったことがわかってくる。たったの二時間、言葉さえ覚える間もなく死んでしまった人間に、あの白いもののリストは長すぎる。けれど、著者の言葉はかつてナチスドイツによって破壊された都市(ワルシャワ)を歩くことで、存在することのなかった人の時間を可能にする。「私」は「彼女」に自分の生と体を貸し与えるのだ。

 

ハン・ガン著、斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』(河出書房新社、2018年)

(文庫本になっていたのを知りませんでした!私が持っているのは単行本のほうだったので引用ページ番号などは、単行本のものです。)

 

韓国語には白い色を表す言葉に、綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン(まっしろな)」と、生と死の寂しさをたたえた色である「ヒン(しろい)」がある。本書の最後にあった「作家の言葉」という著者のあとがきで読んだ。著者が書きたかったのは「ヒン」についての本だったそうだ。そして本書はまさにそういう本だった。もう少し言えば生と死の間に浮かぶ1枚の白いガーゼのようなものが、私には思い浮かぶ。

 

単語を一つ書きとめるたび、不思議に胸がさわいだ。この本を必ず完成させたい。これを書く時間の中で、何かを変えることができそうだと思った。傷口に塗る白い軟膏と、そこにかぶせる白いガーゼのようなものが私には必要だったのだと。

(単行本、9頁より引用)

 

 

単語というのは、ブログの冒頭で紹介した「白いもののリスト」のことだ。「傷口に塗る白い軟膏と、そこにかぶせる白いガーゼのようなもの」という言葉のイメージが、今回再読をしていくなかでずっと印象に残り続けた。そういうものが「私」には必要だったと書きつつも、白いガーゼをかぶって隠れてしまってもいいのかと自問する。そして早々に「どこかに隠れるなどとはしょせん、できることではなかった」と悟る。

 

「私」が「あの冬を過ごすため」に借りた部屋へと通じるドアが忘れられない。「私」の前にこの部屋を借りていた誰かに、錐のような尖ったもので引っ掻かれて「301」という部屋番号が刻印されたドア。「乱暴に引かれた直線も曲線も赤黒く錆びた傷となり、傷跡から錆び水が垂れ落ち、古い血痕のように固まっている」ドア。「私」はこの上から刷毛で白いペンキを塗る。傷を覆い隠すガーゼのように。傷に触れるのは、こわい。だからガーゼのようなものがあればいいと思う。痛みは残っても直視しないで済むなら、それで救われる感情もある。

「私」には生まれてからたった二時間で死んでしまった「姉」がいた。「タルトック(註:月のように丸い餅)のように色白の女の子だったらしい。八か月の早産で、躰はとても小さかったが、目鼻がはっきりして美しかった」と「私」は母親から聞いていた。

 

私は死の物語の中で育った。稚いけものの中でもいちばん無力な生きもの。タルトックのように真っ白で美しかった赤ん坊。その子の死んだ跡地へ私が生まれてきて、そこで育つという物語。

(単行本23頁より引用)

 

 

「私」は滞在することになった都市の博物館で1945年の春に米軍が空撮した映像を見る。そして1944年10月から六カ月あまりの間にその都市の95パーセントが破壊されたと知った。ふしぎなほど近しく、自分の生にも死にもよく似ているその都市に重ね合わせるようにして、「私」は一度死んで破壊されてから粘り強く復元してきた人として、死んでしまった赤ん坊の姉のことを考える。「しなないで しなないでおねがい」と母は赤ん坊に言っていた、その言葉をお守りのように宿して「私」ではなく「彼女」がこの都市へやって来ることを考える。

こうして、本書の主語が「私」から「彼女」へと変わっていく。「彼女」は都市の中心部を歩いていって四つ角に残された赤れんがの壁の一部を見ている。「爆撃で倒壊した昔の建物を復元する過程で、ドイツ軍が市民を虐殺した壁を取りはずし、一メートルぐらい手前に移したのだ。そのことを記した低い石碑が立っている。その前には花が手向けられ、たくさんの白いろうそくが灯っている」。「彼女」は著者の文学の言葉でしずかに語られる物語の中で育つ。文学の言葉は「私」の生と体を「彼女」に貸し与えるのだ。こうして「彼女」が歩く都市には霧がかかっているというのも忘れられない。70年前、ナチスドイツに破壊された街の廃墟を覆い隠す白いガーゼみたいな霧。

 

隠してはおけない、けれども剥き出しの傷(死)と対峙することはできない。だからこそ、白いガーゼで覆うような場所と時間が必要だった。「闇と光の間でだけ、あのほの青いすきまでだけ、私たちはやっと顔を合わせることができる」とあるように、「私」と「彼女」が会えるのは、死という傷跡を覆うそっと一枚置かれた白いガーゼによって作られるような、うすくて、かるい、あるかないかの白い時空でだけだ。この白いガーゼのようなものの役割を、ハン・ガンの文学の言葉は果たしている。著者の言葉がガーゼの役割を担って「彼女」を存在させている、哀悼のように。

 

この本は文学によって可能になる、そういう奇跡的な感触を捉えている。余白までうつくしい本だった。三つの大きな章とその中にちらばる短い散文を私は繰り返し読む。同時に私が小説を書く時の手つきについて考える。小説を書き始める時、私は私を空白にして、別の「何か」や「誰か」に時間を託す。私の人生の時間の大半は空白なのだと思う。だからなのかSNSで言いたいことがほとんど無い。

今年になって読めないくせに韓国語版の本書を手に入れた。タイトルは『흰』とあった。

水の中、雲の上の空という場所で―三品輝起『雑貨の終わり』

私の机の上は雑貨でいっぱいだ。赤い手回し式の鉛筆削り、小さなサファイアのついた片方しかないピアス、オロナイン軟膏、腕時計、メモ用紙、木彫りの熊やひょうたんおやじ(シゲチャンランドにて)のミニチュア、単三電池、MOZの赤いぬいぐるみ、いくらか前に装丁が気に入って購入した書籍1冊、フェルメールの真珠の耳飾りの女が印刷された栞……。なんのデザイン性もなく、雑然として、ただ手元にやって来たままになんとなく置かれただけの物たち。実用品から、ただ鑑賞するためだけの物まで。思えば私が子供の頃、散らかった私の机を見た母親が「そんな〈こまもん〉ばっかり集めて」と怒っていた。我が家では机上の小さな雑貨を〈こまもん〉と言うらしい。細かい物、ということだろうか。ただ不思議なことに、机の上の〈こまもん〉はある時には雑貨であり、別の時には雑貨ではなくなる。例えば、雑貨屋で買った物が机に置いた途端に雑貨ではなくなること、その反対にシゲチャンランドで買ったひょうたんおやじのミニチュアは机に置いたら雑貨になってしまった、シゲチャンランドで観た時は絶対に雑貨じゃなかったのに。こんな経験がある。私の「雑貨感覚」による経験だ。

すっかり前置きが長くなってしまったが、今回ご紹介する本はこちら。

三品輝起『雑貨の終わり』(新潮社、2020年)

 

 

「身のまわりのあらゆる物が雑貨に鞍がえし店に雪崩れ込んできた。物と雑貨の壁がこわれ、自分が何を売っているのか、いよいよわからなくなっていった。東京西荻の雑貨店主が綴る物と人とをめぐるエッセイ集」(本の帯文より)

 

 

 

 

素直な感想としてまず、この世界に「雑貨」とは何かについて、ここまで真剣に考えていた人がいたのか、という驚きがあった。この本に出合うまで、私は机上の〈こまもん〉について、深く考えたことがなかった。それらはただそこにあった。しかし著者は私と違って単に雑貨に囲まれて暮らしているだけではなく、それらを商うことによって資本の流れに否応なしに巻き込まれていく。だからこそ、「雑貨化」という現象に気がついてしまった。

著者の定義によると「雑貨」とは「雑貨感覚によって人がとらえられる物すべて」であり「人々が雑貨だと思えば雑貨。そう思うか思わないかを左右するのが雑貨感覚」ということであるらしい。雑貨と雑貨ではない物を分け隔てる何かがあるとすれば、それは個人の「雑貨感覚」ということになる。

エッセイの中で著者は、例えばある工芸品を生活に取り入れようとした哲学がやがて大衆化した先に昨今の暮らし系ムーヴメント(「丁寧な暮らし」だとか「美しい生活」という言葉で紹介される)が芽吹き、それに目をつけた商売人によって工芸品と雑貨の境目が踏みしだかれ曖昧になってしまう、ということを「雑貨化」の流れと説明していた。それから「無味」であることにこだわったデュシャンレディメイドの概念がどこかで忘れられて、「美しい、レディメイド」という言い方が生まれる。この撞着した言葉を著者は「雑貨化」と言う。雑貨になったレディメイド。このブログ記事の始めのほうで紹介した机上の〈こまもん〉の中にある装丁の気に入った本というのは、実はデボラ・ソロモン著『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア[新版]』なのだけれど、この本の表紙にコーネルの箱作品のひとつである「無題(星ホテル)」が使われていて、私が初めて書店で見かけた時に「なつかしい」という強い思いに囚われてしまったのだった。コーネルの作品なんてそれまで一つも知らなかったくせに「なつかしい」とは……。勿論、買った本は読んだけれど今では机上で「雑貨化」している…のかもしれない。箱付きの本の装丁になった「なつかしい、アッサンブラージュ」という雑貨化。雑貨化の速度はエグい。

 

「すべての物を雑貨としてとらえるような雑貨感覚」は「自室と店の垣根も、雑貨と物のさかいめもなくなっていく平らな商空間」であるインターネット上で今日も勢いを増し続ける。著者はそんな世界で自分がなにを営むことができるだろうかと自問する、それを読みながら、私はそんな世界でいつまで雑貨屋を愛し続けるだろうと考えていた。雑貨屋で雑貨を買って、机上で雑貨ではなくする行為、フェティシズムに裏打ちされた行為をいつまで続けていくことができるだろうか。

 

雑貨を個人的なルールだけにしたがって偏愛することは、消費される宿命を背負った物にとって、なけなしの救いとなるはずだから。(28頁引用)

 

 

 

 

私が勝手に救いに思ってホッとしたりするのは、本書のあちらこちらに雑貨化をまぬがれた物が存在しているらしいことである。「おじいちゃんは忘れられへんから彫ってきただけやから。こうやって木をな、息止めて」と語った祖父の木彫やライカ、亀山さんがライカで撮った数千枚はありそうな神田川の水面の写真、これらはきっと「雑貨」ではない。傍から見れば「雑貨」になってしまうのかもしれないけれど、祖父や亀山さんには物とのあいだに自分だけのルールがあり、省くことのできない繰り返しの行為があったのだ。それは亀山さんが「博士」と呼んだ夫が「雲のうえにも空があるのを知ってるかい?」と言った、ジヴェルニーのモネの庭で夫婦が池の水面を眺めていた思い出に繋がっている。雲の上の空は「美しい反面、とてつもなく寒くて空気も薄い。思考さえ、うまくはたらかなくなる」場所でもある。物と人が静かにつながり合う清廉な場、そこでは雑貨化の巨大なうねりは形(なり)をひそめる。

 

*

2017年に夏葉社より刊行された同著者の『すべての雑貨』が、最近ちくま文庫になってようやく手に取ることができた。こちらも「雑貨とは何か」ということ、「雑貨化」という現象に真正面から向き合うエッセイ集(より濃密かも?)。私は「最後のレゴたちの国で」という終わりの方にあったエッセイがとても好き。レゴの神に見捨てられる、というそれまで愛好していた物との関係が切れる瞬間の、せつないけど必然とも思える感触が書かれていた。

 

 

透明な孤独の輪郭線―絲山秋子『海の仙人 雉始雊』

水晶浜ってどんなところ? とAIに訊いたら、福井県美浜町にある海水浴場で、その名前の由来は「白く透き通っていて光に透けているような砂が水晶のように見えることから付いた」のだと応えた。AIがいうことだから嘘か本当かはわからない、と思いかけて、いや、そもそも人間が言うことだって似たり寄ったりじゃない? 結局は自分で確かめるしかないんだから、とも思った。私はその浜が描かれた小説を「透明の孤独」だと思っていたから、AIが説明した水晶浜の由来にだけは、妙に納得してしまった。

 

水は波の向こうが透けてみえるほど透明で、ひんやりと身体を包んだ。日が射すと、光の網目模様が海底に映り、それが波の裏側に反射して、青い稲妻のように砕けた。海の色合いは陸から見るのと泳ぎながら見るのとでは違っていた。珊瑚礁の海の鮮やかさとは違う、砂地の海のまろやかな深みのある色調だった。

絲山秋子『海の仙人 雉始雊』33頁より引用、浦底の港から船で行った水島で泳いでいる場面の描写)

 

 

 

 

今回は絲山秋子さんの「海の仙人」という、私にとって日本現代文学を読む(そして今に至って関わり続けていられる)きっかけになったこの大切な小説について、書きたいと思う。

 

絲山秋子『海の仙人 雉始雊』(河出文庫、2023年)

 

 

人生のうちで雷に打たれる確率と宝くじで三億円当たる確率が比べられているのをどこかで読んだことがある。「海の仙人」に登場する河野勝男が、その両方を体験しているのだからよほど確率の低い道を生きているような気がする。で、行きついた先が「仙人」か。

二十九歳の時に宝くじで三億円を当て、店員をしていた銀座のデパートを辞めた河野は敦賀に移住し、空き家になっていた古い造りの平屋を買い取って一人暮らしを始めた。「リンゴは好きで、雨がこわい」らしいオカヤドカリを飼っている。特殊なタイルの床に砂を敷き詰めた家(ちなみにオカヤドカリの飼育には床材に砂を敷く)に住んでいる。冒頭で河野はオレンジ色のダットサン・ピックアップの荷台に積んできた砂をぶちまけて、空になった荷台に新しい砂を積む。部屋に敷いている砂の入れ替えだ。早朝の水晶浜での出来事だった。ここでその年初めて泳いだ日、河野は「ファンタジー」と名乗った役立たずの神様と出会う。

不思議なことにこの「ファンタジー」なる存在について、この後登場する人物のほとんどが何故か知っていた、いつどこでかはわからないけれど会ったことがあるような気がすると証言した。でも片桐という女性だけはファンタジーを知らなかった。

「あ、ファンタジー

と、私は書店で河出文庫から今年新しく出た『海の仙人 雉始雊』を手に取って心の中でつぶやきたくなった。初めて読んだのが新潮文庫版で、今からもう十数年前であることに驚いた。もう何度読んできたか知れない。だから私はファンタジーを知っていた、と思いたかった。

初めて読んだ時から、この「ファンタジー」とは一体なんなのか、ずっと考えていた。十数年前には言葉にできなかったことが、今ならほんの少しだけ言葉にできるような気がしてこうして書いている。

今の私にとってファンタジーは「透明な孤独に輪郭を与えたもの」だ。

ファンタジー曰く、自分ができることは「せいぜいが、孤独な者と語り合うくらい」で、河野に会う前はトキとかニホンオオカミと語り合ったらしい。「よくいるだろう、新橋の焼鳥屋とかモンマルトルのカフェとかブダペストの下町なんかに」とファンタジーは自分のことを言う。片桐がファンタジーってどういう意味なのさ、と尋ねたら「裏側」だと応えた。片桐の友人である石原はバレエをやっている時にファンタジーに会った気がしていて、自分を裏側まで突き詰めていたらファンタジーに会えるのかもしれない、と考えている。

 

裏側を見るということは、表側を無視することだ。それは自分が現在おかれている状況を直視しないことだ。日常の音という音がすうっと遠ざかってやがて完全に聞こえなくなる深み、真夜中に電灯の光が届かない場所、眠りのような沈黙、殻の中のようなところに潜り込むように、何であれ物事に没頭している時、人間は裏側を見ている。その孤独は驚くほど透き通っていて心の襞のひとつひとつが見えそうなほどで、つめたく身体を包み込んでくる(冒頭に引用した水島の海みたい)。何かひとつのことに集中している時の孤独がたぶん最も透明で、人生においてその他のことすべてを無視しているこの状態は恐ろしい瞬間でもある。そういう時にファンタジーは現れる。一見、裏側は孤独である。けれども実のところ、表側の存在こそ本物の孤独の形をしていて、それを見ないようにするために人間は熱心に何かに取り組み続けているのではないだろうか。趣味であれ仕事であれ芸術であれ。本物の孤独を他のもので濁らせておくのだ。もしかしたら、人間は本質的にずっと孤独な存在なのではないか。片桐だけが、もしかしたら孤独をまっすぐに見つめている。片桐にとってはたぶん孤独が心の輪郭になっている。片桐だけ自分の表側の孤独の形を知っている。だから裏側の「ファンタジー」なんて見る必要はなかったのかもしれない。

 

「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか? 外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」

(93頁、片桐のセリフ)

 

 

初めてこの作品を読んだ時、私には孤独がわからなかった。今でも本当にはわかっていないと思う。というか、本当にわかる日なんか来るのか、それが心の形だとちゃんと理解できる日がくるのかはわからない。でもひとつだけ、今の私に言えそうなことがあるとしたらこれだ、小説というものは、透明な孤独に輪郭線を与えることができる。

「どうして旅の終わりってこんなに嫌なのに、また旅に出るんだろうね」と片桐は言った。「ひ……」しゃくりあげたあとで漏らした「……ひゃね……」という片桐の短い別れの言葉、衰弱していくかりんが「さっき、ファンタジーが来たの」と言った時のあかるい切なさ。何の魔法も奇跡も起こせない役立たずの神様が物語の終わりのほうで、河野と並んでいる静謐さ。

 

「彼らは静かに心を並べて、小石の混じった砂を洗う浅い波の音を左右に聴いた。」

(147頁)

 

 

ファンタジーは眠る時、どこからともなく白い布でできた一人用のテントを取り出す。ファンタジーがそこに潜り込むとだいだい色の灯りがぽっと灯る。片桐が覗いたところ、それはラグビーボールくらいの大きさのタマゴだった。もしかしたら、片桐の孤独はそういう形をしているんじゃないかと思った。

 

 

 

ちなみにAIに水島について訊いたら「水島という名前の場所は日本に複数ありますが、どこについて知りたいですか?」と問い返してきたから「福井や」と応えた。そうしたら、敦賀市の色ヶ浜沖にある無人島だと教えてくれたので、水島が描かれた小説はあるかと重ねて訊いたらこんなふうに応えた。

 

「水島が描かれた小説としては、絲山秋子さんの『海の仙人』があります。この小説は、敦賀市の色ヶ浜にある旅館を舞台にした物語で、水島も登場します。作者は敦賀市出身で、水島にも親しみを持っていたそうです。」(AIの回答)

 

 

 

どこが嘘なのか、考えるのも面白い。ちなみに情報元として出てきたURLの先は旅行情報のサイトだった。AIに平然とつかれる嘘に、ちょっとだけ笑った。

 

6日発売の「新潮」6月号に「ウミガメを砕く」という小説を書きました。

異様に細長い公園を大停電の夜にさまよい歩く話です。お読みいただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。久栖の情報告知用にtwitterのアカウントも作成しましたので、フォローもよろしくお願いします。(久栖)

 

おれたちの再審はすなわちおまえの審判だ!―大江健三郎『万延元年のフットボール』

死ぬことは、とても大変なことなのだと思う。そのくせ、自分が死ぬ時には魂がぽろっと崖から転げ落ちるようにあっけなく死ぬんじゃないかと思っている。楽をしたい。それはたぶん自分の中にある本当の地獄に向き合うのが恐ろしくて耐え難いからだ。死に至るまでの思考の厚み、自身が引き裂かれるほどの葛藤、そういうものをもし言葉にするとしたらその総量はとてつもない。小説の中に死を書いてそれに説得力(死ぬことの手触り)を持たせるとしたら、そこに必要になる言葉の数もまたとてつもない。『万延元年のフットボール』を読んで、そういうことを考えていた。今の私は自分の地獄を表す言葉を持ってはいない。

 

大江健三郎万延元年のフットボール』(『大江健三郎小説3』新潮社、1996年所収)

 

 

語り手「僕」こと根所蜜三郎とその妻である菜採子。ふたりの間に頭に腫瘍を持った子供が生まれた。そのことを受け止めきれずに養護施設に入れてしまったことが、この夫婦にとって大きな葛藤になっている。そこへアメリカから蜜三郎の弟である鷹四が帰国する。彼は安保闘争で傷つき、己のうちに「地獄」を抱えている。そんな彼らが故郷である四国の森の中の集落に戻ると、曾祖父の弟が首謀者であったという万延元年の一揆を百年後の作中現在に繰り返すように、スーパーマーケットの略奪という暴動が起きる。

 

雑な把握の仕方なのかもしれないが、この作品からは二種類の人間の有り様が浮かんでくる。ひとつは「己の内側に抱えた地獄を正面から引き受けて戦い乗り越えていくタイプの人間」で、もうひとつは「そういう地獄の存在などついに見定められずにもっと薄暗く不安定で曖昧な現実生活をおとなしく生き延びていくタイプの人間」だ。前者を鷹が、後者を蜜がそれぞれに受け持っているように読んだ。

「歴史は繰り返す」とはよく言う。万延元年の一揆が百年後に別の形を持って繰り返される。ではなぜ繰り返すのか、そのメカニズムとは一体どんなものなのか。鷹四のように地獄を引き受けて戦い乗り越えていく人間の持つ「暴力性」というか、感情の激しさが、一揆の契機となるのではないか。しかしその「暴力性」の効力はそれほど持続しないのだ。一揆のあとで来る敗北(ここに敗戦時の日本の様子も重なる)のあとで集落において人々に共有される感覚は「恥」である。蜜三郎が纏う雰囲気はこの「恥」の感覚だ。これは蜜三郎だけでなく、そこに住む多数の者に共有される感覚でもあって、そのおかげで何事もなかったかのように時は経ち人々は暮らすことができる。しかしその平穏な暮らしの中から「暴力性」が完全に消え去ることはない。「暴力性」は単に平和裏に忘れ去られるのではなく、集落の伝統である踊り念仏の「御霊」となって、いずれ目を覚ます時まで祭りの中に継承されていく。人々を「恥」の感覚に真正面から向き合わせて「憎悪」に転じさせる「暴力性」の目覚めが一揆や暴動といった歴史を繰り返す原動力になっているのではないか、そんなふうに考えた。

 

語り手「僕」こと根所蜜三郎は、自宅の庭に掘った穴のなかに尻を濡らして座り、異様な姿で縊死した友人のことや、養護施設に入れた頭に腫瘍を持って生まれた子供のことを考える。なぜ、どうして? と呪いたくもなる運命に「僕がきみたちを見棄てた!」と叫びたくもなる、そのくせ「僕」の胸の内に本当の地獄はない。というか、己の内側に巣食う「地獄」に真正面から向き合うことをしないで済ませている。穴のなかで無意識に自身を生き埋めにしようとしていたと思い至るも、穴のなかから見上げた赤い、地獄絵の炎に似たハナミズキの葉裏に「優しさ」を見出して慰められる「僕」は結局、自死することはない。対極の存在と言える鷹四は激しい感情を爆発させ、己の内側の地獄を戦った末に自死する。弟の地獄を理解できなかった蜜三郎は、子供のころから曾祖父の弟(万延元年の一揆の首謀者)にヒロイックな抵抗者の光背をおわせたがる弟に反発していた。「本当のこと」を知った時、蜜三郎は自分の地獄に向き合うことをしない自分の弱さを発見する。

 

――そうだ、きみは本当の事をいった、と僕は死の時の鷹四を見つめた数かずの家霊たちの眼に、いまは自分を四方から見つめられたまま屈服して認め、そのような惨めな自分自身の全体をくっきりと認識した。僕は自分を異様なほどにも無力に感じ、その無力感は寒さの感覚ともども加速度的に深まり、底なしに深まった。僕は憐れっぽい音を立てて口笛を吹き、マゾヒストじみた最低の気分でチョウソカベを呼びよせようとしたが、それが訪れて倉屋敷を崩壊させ僕を生き埋めにするということは当然おこらない。(238頁より引用)

 

「僕」は生き埋めにならない。底なしに深まった無力感、自身の弱さ、「恥」のゆえに地獄絵の「優しさ」に慰められながら、人生のつづきをただ生き延びていく。

自覚するかどうかは別として、たぶん大勢の人間たちの生き方はこうなのだろうと思わせられた、そして読みながらそのことにも苦しさを覚えた読書体験だった。

 

――おれたちの再審はすなわちおまえの審判だ!と舞台の上の鷹四が脣の肉の吹っとんで単なる赤黒い穴ぼこのような口を大きく開き憎悪と共に勝ち誇って叫ぶ。

218頁より引用)

 

 

 *

 

ちょうど本書を読んでいた時に大江健三郎氏の訃報に接した。本当は別のブログ記事を用意していたのだけれど、やはり『万延元年のフットボール』について新たに書くことにした。それがただ生き延びている自分が文学というものに誠意を込めて、ひっそりとできる哀悼の意の表し方なのだと思う。ご冥福をお祈りいたします。

 

生命観を描ける言葉―水沢なお『うみみたい』

ふえるって美しい、のだろうか? どうして生き物はふえたいのだろう? 太古の昔の海の中からずっとそうだったから? その「ずっと」を根拠に、私たちはふえつづけるんだろうか?

生命観、ということについて考えもした。ふえる(生殖する)ことへの意思、うみたい、うみたくない、その両方を尊重できる世界があったらいい。

ところでどうして政府の少子化対策のニュースは私にとってこんなにも不気味なのだろう。これ以上「生殖」ということに政治には入ってきてほしくないという思いがある。(勿論、子供を産み育てたいひとがより良く実現できるようになる制度の構築は良いことと思う)。少子化対策として、ある政策の有効性を論じる時、または年齢別の人口ピラミッドで未来を予測する時、そこからは個人の感情がこぼれ落ちていく。そもそも何故ひとはふえたいの? 各種社会制度を維持するため? そこに個人の生命観はないの? そんなふうに思う。

 

水沢なお「うみみたい」(『文藝』2022年冬号掲載)

※ブログ記事を書いた時点ではまだ単行本が出ていなかったので、引用やページ番号は『文藝』冬号に依っています。どうやら単行本は三月末に出るようです。楽しみですね!

 

 

 

 

能見うみと志田みみは、一年前まで同じ美術大学に通っていた。今はフリーターをしながら美術作品の制作をしている。うみは、みみのアトリエを貸してもらっていて、ふたりは生活をともにしている。そこでふたりで協力して、むむというぬいぐるみを作りインターネット上で販売したりもしている。ずっとここにいたいと言ったうみに「人間を愛さないことだけ誓って」とみみは言った。うみにはやがて自分もひとを愛するようになる運命を受け入れる覚悟があって、けれども愛のすべてと折り合いがついているわけでもなく、やがてセックスへと流れ着く恋愛を恐ろしいと思っている。「ふえるって美しい」(410頁)と思っているし、子供の頃から自分の分身が欲しかった。ふえたい、うみたい、だけれど自分がふえるための方法は異性とのセックスしかなくて、それは恐ろしい。セックス以外にふえる方法を探しているようだ。大学一年生の五月から、卵生の生き物の成育と繁殖をしている「孵化コーポ」と呼ばれる場所でアルバイトをしている。

 

一方、みみは「わたし、ミュウツーだから」と言う。

ポケモンをやったことのあるひとなら、その存在が悲しいことを知っていると思う。ミュウツーは人工的につくられた存在であり、伝説のポケモンに分類されるから性別の概念はなく繁殖(卵をうむこと、そういえばポケモンってみんな卵生なのか!?)はできない。「だれがうめと頼んだ、だれがつくってくれと願った。わたしはわたしをうんだすべてをうらむ」ミュウツーは、ポケモンの映画「ミュウツーの逆襲」でそんなふうに表明した。それを小学二年生くらいのときに見たみみは、自分をうんだすべてについてよく考える。人間のすることの中で一番悲しいことは、ひとがひとをうむことだと考えている。「タイムマシンがあったら、人間がうまれてこないように、太陽を壊してあげたい」(418頁)。「わたしはうまれたときから、そこにいることを、できれば忘れてほしいんだろうな」(413頁)

ふたりが美術へ向かう動機も真逆に見える。うみは「人間になりたかった」し、みみは「人間じゃなくなりたいから」。

けれども、ふたりが互いの輪郭を絵筆でなぞりあったらお互いによく似ているものができた。ふたりの出会いは美大の四年の時、くじびきで同じ数字を持つ二人がペアになって互いの絵を描くという授業だった。ふたりとも「3」の数字を持っていた。そしてふたりとも、去年単位を落としていた。人間を描くことを恐ろしかったという。描くのも、描かれるのも。

 

「絵に描くことほど、その存在を肯定することってないと思うから。ただの色の集まりが、実在する人物に見えるようになるって、途方もない存在への祈りだと思う。わたしは、それが恐ろしい。だって、うみは怖くないの? わたしに身体を描かれること」

(中略)

「怖いよ。わたしも、昔からひとを描くのが苦手だった。絵を描くことも、描かれることも、そのひとと重なるみたいで、恐ろしくて」

 重なる、とみみはつぶやいた。

「でも、それはきっと喜びでもあるんだろうね。身体がただの器じゃなくて、光の粒になっていくような、絵を描くことだけで、触れる部分があって。怖いけど、それと同じくらい、うみはどんなわたしを描くんだろうって見てみたい」

(414頁より引用)

 

 

この会話を読んで、私はちょっとドキッとした。孵化コーポでうみがヘラクレスオオカブトを「ハンドペアリング」という方法で交尾させる場面があったのを思い出すのだ。それは昆虫同士を人間の手で交尾させる方法で、うみとみみが絶対に単位を落とせなかったあの授業のくじびきに似ていると思った。「くじびきで簡単なつがいにされた」人間と、人間の手によってほどよいものとして選ばれた昆虫のふたつの個体。

互いの姿を描くということが、セックスに重なっていくような、でもふたりの肉体はあくまで触れ合うことなく輪郭のもたらす光と影の境目を描写するだけ、筆でなぞるだけ、そのぎりぎりの交接のような営みをする、うみとみみの距離感が、読んでいてとても心地よかった。

 

生まれたくなかったみみにとって、描くことによる「存在への祈り」は恐ろしい。うみにとって、ひとを描くことはそのひとと重なるみたいで恐ろしい。ふたつの恐ろしいを乗り越えたところに、絵を描くことだけで触れる部分があって、それを見つけるのはきっとうれしい。

出来上がった絵に対して「ふたりの間に娘がうまれたらこんな感じかもしれないですね」と言われたことを、うみはもしかしたら「ふえる」こと(自己分裂)として喜べるのかもしれない。異性とのセックス以外にふえる方法をみつけたと思えたかもしれない。けれどみみは「へんなの」と囁いてミュウツーのマスコットをぎゅっと握る。ふえたくないみみにとって、出来上がった絵は近づきすぎて失敗したふたりの姿だったのかもしれない。ためらい、であるのかもしれない。

 

「触れたいって思ったから。もしくは触れたくないと思ったから、人間は絵を描くんだね」

「うん」

「キャンバスに、絵の具が、筆が触れること。なにかがなにかに触れることの素晴らしさを感じたから、みんな絵を描くんだと思う。だれにどう触れたいのか、みんな悩んでる。わたしも、きっと、うみも」

(423頁より引用)

 

 

去年の個展でみみが作った〈いるかのたまご〉という作品では、人型のきぐるみが殴り合う映像にドーン、ドーンと爆ぜる音、それから「海が見たい 人を愛したい 怪獣にも心があるのさ」と歌う合唱曲の『怪獣のバラード』が流れていた。

物語の後半で、みみが作ったインスタレーション作品「うみ」が展示される。それを見たうみは、自分たちの関係性をもとにした作品だとすぐに気がつく。白いパネルにCGの海が投影されて、そこに手のひらだけが漂流物として現れる。近づいて触ろうとしたら、自分の影が入ってしまって見えなくなってしまう。「海から遠い場所でそれをただ見ることを、近づいてはいけないことを、わたしは強制されている。みみによって、わたしはここに置かれている」(435頁)と、うみは思った。みみは、人を愛したいのに、愛されたくないのだ。独立した個の輪郭をなぞるように海辺を走ったふたりはなんだか清々しくて、それはちゃんと自立しているもの同士の愛を知っているからなんじゃないかと思った。

 

うみみたい。

うみみたい(うみと似ている)。

うみたい(あるいはうみたくない)

海見たい(うみと、海が見たい)

 

著者のゆたかな言葉の広がりやふくらみが、うみとみみ、ふたりの関係性を描いている。

みみは、ずっとみみでいたい。まみむ。「ままに戻りたくない。ずっとみみでいたい。進化するならむむがいい」(437頁)。孵化コーポにあった公民館でよく見るようなグリーンのスリッパ。「ふかふかだね」「かちかちだけど」「ふかふかだよ」「うん、ふかふかだ」(418頁)孵化孵化。

「存在したくないという存在が、存在したくないという作品を存在させる。そういう矛盾を美術だけが受け入れてくれるんじゃないかと信じてる」(419頁)と言うみみの言葉を思い出す。そういうものが、著者にとって「言葉」なんじゃないだろうか、と想像したりする。その言葉でなら、個が抱く生命観の繊細さが描ける。

 

遅れてくる痛み―『ウクライナ戦争日記』

この本を読んでいた数日間、真夜中の中途覚醒や酷い動悸、過呼吸の発作などに襲われていて、「あれ最近忙しかったっけ? 疲れてるのかな……」と、はじめはどうして調子が悪くなったのかわからなかったのだけれど、しだいにこの本の内容に相当打ちのめされているのではないか、と思うようになっていった。

(後日談:実は持病の悪化もあった。)

 

Stand With Ukraine Japan/左右社編集部編『ウクライナ戦争日記』(左右社、2022年)

 

 

 

戦争は生活破壊以外の何物でもない。どんな大義名分があろうと、それが正しかろうと間違えていようと、ただひとつ揺らぐことのない現実としてたち現れるものは破壊された日常生活なのだ、と思わずにはいられない。本が読める日常のありがたさを噛みしめてしまった。

本書は2022年2月24日、戦争が始まった日から数日間のウクライナの人々の日記を集めた一冊で、ハルキウマリウポリ、ヘルソン、キーウといった戦争絡みのニュースでこの一年でよく聞くようになった地名ごとに、そこにいた人々の記録がまとめられている。何気ない会話に、自分はブチャから逃げてきたのだという人の話などあり、それはつまりあの虐殺が起きる前に脱出できた一人なのだと思った時、日本にいてこの本を読んでいる私の手元には無事であった人の言葉しか届いてはいないのだ、と改めて戦慄した。

「ボランティア」という言葉が何度も目に留まって、それが戦時のウクライナで大きな役割を果たしていたことはわかるのだが、極限状態に追い込まれた人までが何故そんなにボランティアというものに身を投じることができるのか、不思議でもあった。その答えのひとつ「ボランティアの経験は驚くほど人生を肯定してくれるもののようだった」(318頁)という言葉を見つけて、なるほどと思うのと同時に複雑な気持ちにもなる。平和な時にはボランティアをはじめ、なんの社会貢献なんかしていなくても、肯定されていた人生だってたくさんあっただろうに。「連帯」が救いとなる有事の際に、上手に他者と「連帯」できない私のようなはみ出し者には救いなんかないんじゃないだろうか、と考えてしまった。そういう人だってだくさんいるだろうに。自然災害と戦争を比べるのは無意味かもしれないが、敢えて書くなら、東日本大震災の時にも「連帯」の輪、「絆」という軛に背を向けざるを得なかった人は今でもきっと苦しいだろうと思う。

 

「分断」ということを、最近はよく考える。新型コロナウィルスについてもそうだ。私はコロナ禍の最初から今までずっと同じ病院職員として働いているから、いくらかマシになったとはいえ、いまだに新型コロナウィルスは脅威であり続けている(最近、遺体の取り扱いが変わって納体袋が不要になったが、葬儀会社が対応しておらず結局、納体袋を使うはめになった、ということがあった)。ところが世界的に、あるいは日本国内であっても医療や介護現場の外側にいる人にとってはコロナ禍はすでに終わったも同然らしい。もちろん、そのことを否定するつもりは全くなくて、私自身、コロナ禍の初期の頃よりも行動制限をいくらかゆるめている。それでも多くの人と同じ方向に感情を向けられないでいるので、孤独はどんどん深くなっていくように思う。

私が置かれている現状がコロナ禍ではなくて戦争だとしたら、やっぱり孤独を感じるんじゃないだろうか。私が暮らす北海道とロシアはとても近いから、今回のウクライナ侵攻を遠い出来事とは思えないひとが多かった。さらにすでに2回も北朝鮮のミサイル発射によってJアラートが鳴ったという事実がある(一体、どこに逃げろというのだろう。登校中の子供たちが通学路を歩いているというのに)。悲観的な想像や状況を浴びているうちに、軍備を増強しなければならない、いざとなったら戦わなければならない、なんならロシアの守りが手薄なうちに北方領土は奪還するべきではないのか? なんていう声もきこえてくるようになった。私は何を思えばいいのだろう。やられたらやり返すでは、やられた側の家族はもちろん向こう側の家族もまた犠牲になる。生活だって、双方ともに壊れてしまう。

 

「分断」の悲しい事例として本書にこういうエピソードが語られている。日記の書き手はソ連生まれでハルキウに暮らしていた、親戚の半分はロシアにいるそうだ。軍隊が市民を撃つ日が来るなんて思いもしなかった、かなりショックだった、という言葉に次にこう語られる。

 

それから、私にはロシアに住む双子の姉がいる。戦争が始まったとき、姉に写真を送って、「こんなことが起こっているんだ。見て」と伝えた。

だが彼女は、「これは嘘よ」と答えた。

ロケットが私たちの地域を攻撃し始めても、彼女は電話で「ロシア軍は軍事施設にしか発砲していないわ」と言った。元気いっぱいの幸せそうな声で、「ロシアがウクライナを自由にしてあげるよ!」と言い放ったのだ。

(本書58頁より引用)

 

 

このふたりはどちらも悪くないのに関係が壊れてしまうのだ。

私は何を見ればいいのだろう、と思う。政府が言っていることとも、「世論」と言われるものとも、SNSに流れてくる情報とも、ほんのすこしずれた意見や感覚を抱いてしまう孤独な心は何を思えばいいのだろう。

本書の「はじめに」でStand With Ukraine Japanの共同創設者であるサーシャ・カヴェリーナ氏が書いていたことに少しだけなぐさめられた。

 

あらゆるものが動き、変化するということだけが唯一の変わらないことであるこのようなときには、書くことで正気を保てるのです。それは、ロシアの侵略によってもたらされた恐怖を記録するだけでなく、私自身の絶え間ない不安を和らげ、楽にするための手段でもありました。

(15頁より引用)

 

 

 

だから、今回ブログでこの本を紹介しようと思ったのかもしれない。

 

国境にある検問所で受けた忠告のとおり全速力で走ってきたので、草むらの中になぜ人の服らしきものが落ちているのか、はじめはよく理解できずにいた。だが、過去に見たことのある何かがふと頭を過り、道の両脇に奇妙な恰好で横たわっているものが人間の死体であると気づいた。

(36頁より引用)

 

 

今は本を読んでいられる幸せと、書くことで癒される気持ちを抱えて全速力で走るしかない(私が置かれた状況は戦争ではなくて、コロナ禍や個人的で些細な人生の事柄にすぎないけれど)。この戦争も、震災も、コロナ禍も、傷ついてしまった心がふと見つけられるのは、もう少し先なのかもしれない。遅れてやってくる痛みがある。

 

何ぞかくとゞまるや―大江健三郎『懐かしい年への手紙』

大切な本の一節を、くりかえし読み返し続けている時に感じられる「永遠」というものが確かにある、と感じられる。今回紹介する『懐かしい年への手紙』という作品の中に、私はそういう「永遠」を見る思いがした。

ギー兄さんがダンテの『神曲』のある部分を説明する声が、この一冊の本にこだまするように響く。――煉獄の島の岸辺でね、ダンテとウェルギリウスを迎える老人がいます。このカトーもね、やはり自殺した人間です。煉獄の低い地域の、威厳をそなえた管理人で、かれは自殺者だけれどもそのような魂としてのありようを認められているわけね。

 

大江健三郎『懐かしい年への手紙』(大江健三郎小説9、新潮社、1997年)

 

 

前回ブログに感想を書いた『燃えあがる緑の木』で、何度も思い返されていた「さきのギー兄さん」という人のことが気になったら、たぶんこの本を手に取ることになるのだと思う。先に『燃えあがる緑の木』を読んだ読者には、本作のギー兄さんがダンテの『神曲』を読む人で、自分の土地と資力を実験台にこの土地全体の森林、農業経営を改革する根拠地の運動をおこなったこと、女優の殺害とその償いのために長い入獄を経験したこと、そしてテン窪に人造湖をつくろうとするも、臭くて黒い水に死体となって浮いていたことは既にわかっている。私も知ったうえで読んだけれど、それでもこの作品は読んで良かった。実際に自分で読んでみないと経験できない「永遠」があったのだから。

本作は『燃えあがる緑の木』と同じ四国の森の中の集落を舞台にした物語であり、時間的には『燃えあがる緑の木』よりいくらか前の出来事が作家のKという人物によって語られる。

語り手「僕」(K)に谷間の村で暮らしている妹から電話があった。それによるとギー兄さんが大がかりな事業を始めてしまいその進み行く先に不安がある、というところから話は始まる。その連絡を受けて「僕」は家族とともに四国の森の集落に向かう。しばらくはそのように「家族を軸として、そのいま現在時にそくして語って」いくのだが、あるところから語り手は「自分の生の別の景観のなかで、ギー兄さんと僕、それに妻との関わり方を書いておきたい」とことわった上で、子供の頃「僕」がギー兄さんに出会ったことからの出来事が語られていく。語り手の人生にとってギー兄さんの存在は非常に大きくて、ギー兄さんが言おうとしていること、それを正しいと自分が感じとっていることを「自分のこれからの時をすべて投入して理解して行くというのが、つまり生きてゆくことではないかと考えたようにも思う」(17頁)ほどである。

 

そのギー兄さんが「永遠の夢の時」ということを言う。

ギー兄さんにとってそれは四国の森の中の歴史や伝承の中にある。彼が最後にやろうとする人造湖の建設はまるで土地を過去に押し戻そうとするかのようであり(建設に反対する人々が恐ろしいと感じるのは、かつてこの土地で起こったことや森の中の創建神話が思い出されるからだ)、その過去の中にギー兄さんが全身で飛び込んで行こうとするようでもある。ギー兄さんは現実の感覚として「森」を舞台に見る「夢」の「時」を確信している。かれは、こんなふうに説明する。

 

はるかな昔の「永遠の夢の時」に、大切ななにもかもが起こった。いま現在の「時」のなかに生き死にする者らは、それを繰りかえしているにすぎない、という考え方。(81頁)

 

語り手の「僕」がメキシコ・シティーに滞在している時に「無限につづく循環のなかにいる」という感情を抱いたことがあった。その「僕」がギー兄さんの「永遠の夢の時」について考えると、確かに四国の森の中の土地には昔の出来事の痕跡のようなものがあって、その土地の形状からかつてあったことを読み取れてしまうという自分の実感に気がつく。

 

自分の足が苔の生えた緑の岩角を踏みしめている森の、その全体が、また部分がね、ある角度から見ると、そうだ、ここであの語り伝えの物語のひとつが行われた、と納得できる気がしたよ。それも自分らの生き死にの規範の行為として行われた、と……谷間と「在」の地形を気をつけてみると、むしろね、人が歩くことで道が踏みかためられるように、語り伝えられている出来事がそこで行われたことによって、この地形が出来あがった、というように感じたのさ。

(83頁)

 

 

『懐かしい年への手紙』において語られているのは、語り手「僕」にとっての(つまり『燃えあがる緑の木』に登場するK伯父さんにとっての)、「永遠の夢の時」なのではないか。「僕」はダンテの『神曲』に出てくる煉獄の島の、岸辺近くの情景を思う。カトーのみちびきにより、地獄で汚れた顔を洗い、抜きとった藺草を腰につけて、二重に汚穢をおとしたダンテとウェルギリウスは、天使の船で浜についた魂たちと出会い、ダンテの旧友カゼルラの、恋歌を聴く。《我等すべてとゞまりて心を歌にとめゐたるに、見よ、かのけだかき翁さけびていふ。何事ぞ遲き魂等よ/何等の怠慢(おこたり)ぞ、何ぞかくとゞまるや、走りて山にゆきて穢れを去れ、さらずば神汝等にあらはれたまはじ》

 

本書の終わりのほうでギー兄さんの死が語られる。黒い水に浮かぶギー兄さんの遺体を、

ギー兄さんの妻オセッチャンと語り手の妹アサのふたりがボートに乗ってテン窪大檜の島に運び上げる。この事実が語り手であるKの中で「永遠の夢の時」となって、ひたすら繰りかえされてこの作品は終わる。

ギー兄さんは草原に横たわり、いくらか離れてオセッチャンと妹アサは草を採んでいる。そこへいつのまにか僕もまたギー兄さんの脇に寝そべって、息子のヒカリや妻オユーサンも草採みに加わる。「陽はうららかに楊の新芽の淡い緑を輝かせ、大檜の濃い緑も夜来の雨に新しく洗われて、対岸の山桜の白い花房が揺れている。時はゆっくりとたつ」(308頁)

――煉獄の島の岸辺でね、ダンテとウェルギリウスを迎える老人がいます。このカトーもね、やはり自殺した人間です。煉獄の低い地域の、威厳をそなえた管理人で、かれは自殺者だけれどもそのような魂としてのありようを認められているわけね。

 

そこへ威厳ある老人があらわれて、何ぞかくとゞまるや、走りて山にゆきて穢れを去れ、さらずば神汝等にあらはれたまはじ、と叱りつけるので急いで大檜の根方に向けて走り登るのだが……時は循環するようにたち、あらためてギー兄さんと僕は草原に横たり、オセッチャンと妹は青草を採み……

「陽はうららかに楊の新芽の淡い緑を輝やかせ、大檜の濃い緑はさらに色濃く、対岸の山桜の白い花房はたえまなく揺れている」(308頁)

 

この時へ向けて、語り手は幾通も幾通も手紙を書く、そしてそれらが作家である語り手が生の終わりまで書きつづけてゆくはずの、これからの仕事になろう、そう結ばれる。

 

ところで本作の「永遠の夢の時」と「一瞬よりはいくらか長く続く間」(『燃えあがる緑の木』より)というのは、なんとなく響き合いはしないだろうか? 〈のちのギー兄さん〉の言うところによると「一瞬よりはいくらか長く続く間」というものは、自分が死んだあとも続くだろうほとんど永遠にちかいほどの永い時に対して限られた生命の我らが対抗しうる瞬間のことだ。命は有限だから、決まった長さの時以上には経験のしようがない。しかし有限であるにも関わらず「永遠」という無限を感覚してしまうことがある。

その「永遠」に向けて、きっと私は何かを表現しようとし続けているのだと思う。永遠の夢の時と一瞬よりはいくらか長く続く間、有限の私にもかろうじて感覚できる無限というものについて考えているうちに、2019年8月2日に書いた日記の記述を思い出した。それは暑い日が珍しく連日続いた日のことで、

「西日のきつい車窓から目を細めてみた風のない景色、そよともゆれない街路樹の緑が重たいここは、静止した夏でした。」

私はそんなふうに書いていた。