言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

水の中、雲の上の空という場所で―三品輝起『雑貨の終わり』

私の机の上は雑貨でいっぱいだ。赤い手回し式の鉛筆削り、小さなサファイアのついた片方しかないピアス、オロナイン軟膏、腕時計、メモ用紙、木彫りの熊やひょうたんおやじ(シゲチャンランドにて)のミニチュア、単三電池、MOZの赤いぬいぐるみ、いくらか前に装丁が気に入って購入した書籍1冊、フェルメールの真珠の耳飾りの女が印刷された栞……。なんのデザイン性もなく、雑然として、ただ手元にやって来たままになんとなく置かれただけの物たち。実用品から、ただ鑑賞するためだけの物まで。思えば私が子供の頃、散らかった私の机を見た母親が「そんな〈こまもん〉ばっかり集めて」と怒っていた。我が家では机上の小さな雑貨を〈こまもん〉と言うらしい。細かい物、ということだろうか。ただ不思議なことに、机の上の〈こまもん〉はある時には雑貨であり、別の時には雑貨ではなくなる。例えば、雑貨屋で買った物が机に置いた途端に雑貨ではなくなること、その反対にシゲチャンランドで買ったひょうたんおやじのミニチュアは机に置いたら雑貨になってしまった、シゲチャンランドで観た時は絶対に雑貨じゃなかったのに。こんな経験がある。私の「雑貨感覚」による経験だ。

すっかり前置きが長くなってしまったが、今回ご紹介する本はこちら。

三品輝起『雑貨の終わり』(新潮社、2020年)

 

 

「身のまわりのあらゆる物が雑貨に鞍がえし店に雪崩れ込んできた。物と雑貨の壁がこわれ、自分が何を売っているのか、いよいよわからなくなっていった。東京西荻の雑貨店主が綴る物と人とをめぐるエッセイ集」(本の帯文より)

 

 

 

 

素直な感想としてまず、この世界に「雑貨」とは何かについて、ここまで真剣に考えていた人がいたのか、という驚きがあった。この本に出合うまで、私は机上の〈こまもん〉について、深く考えたことがなかった。それらはただそこにあった。しかし著者は私と違って単に雑貨に囲まれて暮らしているだけではなく、それらを商うことによって資本の流れに否応なしに巻き込まれていく。だからこそ、「雑貨化」という現象に気がついてしまった。

著者の定義によると「雑貨」とは「雑貨感覚によって人がとらえられる物すべて」であり「人々が雑貨だと思えば雑貨。そう思うか思わないかを左右するのが雑貨感覚」ということであるらしい。雑貨と雑貨ではない物を分け隔てる何かがあるとすれば、それは個人の「雑貨感覚」ということになる。

エッセイの中で著者は、例えばある工芸品を生活に取り入れようとした哲学がやがて大衆化した先に昨今の暮らし系ムーヴメント(「丁寧な暮らし」だとか「美しい生活」という言葉で紹介される)が芽吹き、それに目をつけた商売人によって工芸品と雑貨の境目が踏みしだかれ曖昧になってしまう、ということを「雑貨化」の流れと説明していた。それから「無味」であることにこだわったデュシャンレディメイドの概念がどこかで忘れられて、「美しい、レディメイド」という言い方が生まれる。この撞着した言葉を著者は「雑貨化」と言う。雑貨になったレディメイド。このブログ記事の始めのほうで紹介した机上の〈こまもん〉の中にある装丁の気に入った本というのは、実はデボラ・ソロモン著『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア[新版]』なのだけれど、この本の表紙にコーネルの箱作品のひとつである「無題(星ホテル)」が使われていて、私が初めて書店で見かけた時に「なつかしい」という強い思いに囚われてしまったのだった。コーネルの作品なんてそれまで一つも知らなかったくせに「なつかしい」とは……。勿論、買った本は読んだけれど今では机上で「雑貨化」している…のかもしれない。箱付きの本の装丁になった「なつかしい、アッサンブラージュ」という雑貨化。雑貨化の速度はエグい。

 

「すべての物を雑貨としてとらえるような雑貨感覚」は「自室と店の垣根も、雑貨と物のさかいめもなくなっていく平らな商空間」であるインターネット上で今日も勢いを増し続ける。著者はそんな世界で自分がなにを営むことができるだろうかと自問する、それを読みながら、私はそんな世界でいつまで雑貨屋を愛し続けるだろうと考えていた。雑貨屋で雑貨を買って、机上で雑貨ではなくする行為、フェティシズムに裏打ちされた行為をいつまで続けていくことができるだろうか。

 

雑貨を個人的なルールだけにしたがって偏愛することは、消費される宿命を背負った物にとって、なけなしの救いとなるはずだから。(28頁引用)

 

 

 

 

私が勝手に救いに思ってホッとしたりするのは、本書のあちらこちらに雑貨化をまぬがれた物が存在しているらしいことである。「おじいちゃんは忘れられへんから彫ってきただけやから。こうやって木をな、息止めて」と語った祖父の木彫やライカ、亀山さんがライカで撮った数千枚はありそうな神田川の水面の写真、これらはきっと「雑貨」ではない。傍から見れば「雑貨」になってしまうのかもしれないけれど、祖父や亀山さんには物とのあいだに自分だけのルールがあり、省くことのできない繰り返しの行為があったのだ。それは亀山さんが「博士」と呼んだ夫が「雲のうえにも空があるのを知ってるかい?」と言った、ジヴェルニーのモネの庭で夫婦が池の水面を眺めていた思い出に繋がっている。雲の上の空は「美しい反面、とてつもなく寒くて空気も薄い。思考さえ、うまくはたらかなくなる」場所でもある。物と人が静かにつながり合う清廉な場、そこでは雑貨化の巨大なうねりは形(なり)をひそめる。

 

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2017年に夏葉社より刊行された同著者の『すべての雑貨』が、最近ちくま文庫になってようやく手に取ることができた。こちらも「雑貨とは何か」ということ、「雑貨化」という現象に真正面から向き合うエッセイ集(より濃密かも?)。私は「最後のレゴたちの国で」という終わりの方にあったエッセイがとても好き。レゴの神に見捨てられる、というそれまで愛好していた物との関係が切れる瞬間の、せつないけど必然とも思える感触が書かれていた。