言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

地球人という器―三島由紀夫「美しい星」

有名な作家の名を冠した文学賞はいろいろあるけれど、まさかそのうちのひとつの最終候補という名誉に自分が与ることになるとは、手を真っ黒にして鉛筆で文字を書きまくっていた子供時代の自分には思いもつかないことだったろう。書くことに関して真摯にやって生きてきたけれど、実は周りが期待するほど文学に精通しているわけでもない私は、三島由紀夫作品を読まずにここまで来てしまった。そんなわけで、候補の連絡をいただいてからこんな絶好の機会は人生でそう何度も訪れるものではないと思い三島由紀夫作品を読みはじめた。ありがたい機会だ。仕事帰りに書店の文庫本コーナーで、一度に片手で掴めるだけの三島作品の文庫を掴んでレジへ向かった。読みたかったけれどなかったものは図書館で借りた。そうして「潮騒」から読んだ。それから「憂国」「剣」「橋づくし」「魔法瓶」「月」「雨のなかの噴水」「絹と明察」「花ざかりの森」……。ここまで読んできて思ったことは、完全な美というものがあるなら、それは絶対の静止の中にあるのではないか? ということだった。美しいものは「時間」の中にはあり得ないというか。「時間」の流れの一つの表現である小説の中に美しいものを抛り込んだとしたら、それはやはり毀れていくしかないのではないか。完璧な美は一瞬の静の状態ではないか。美が毀れていくしかないことを知ったうえで見つめるという営みへの嗜好性が、人間が悲劇というものを好む理由のひとつなんじゃないかなぁ……。

 

今回ブログで話題にしたいのは「美しい星」である。

 

 

三島由紀夫という作家に抱いていたイメージとはずいぶん違っていて面白かった。作家の幅の広さを知った。手に取ったのは図書館にあった不思議な文学全集。

三島由紀夫「美しい星」(『De Luxe われらの文学5 三島由紀夫講談社、昭和44年、所収)

ブログ中に引用したページ番号はこの全集に依っている。「美しい星」は文庫にもなっているので、こちらのほうが手に取りやすいかと思う。

 

 

「美しい星」は1962年に出版された長篇小説。埼玉県飯能市に暮らす大杉家の一家四人は、ある時、空に円盤を見て自分たちはそれぞれ別々の星から地球にやって来た宇宙人だという自覚に目覚める。父・重一郎は火星、母・伊余子は木星、息子・一雄は水星、娘・暁子は金星という具合に。時代背景は冷戦による世界不安があって、ソ連の水爆実験など米ソの核開発競争が激化している。こうした時代の不安の中に居れば「地球は」「人類は」これからどうなってしまうのだろう? という主語の大きな疑問が浮かんでくるように思う。「地球は」「人類は」と論じる時、自分の立ち位置をそこから引き離したら……壮大な(時に荒唐無稽な)議論が可能になる。

 

重一郎は主張する。

「核実験停止も軍縮もベルリン問題も、半熟卵や焼き林檎や乾葡萄入りのパンなどと一緒に論じるべきなのだ。宇宙の高みから見たら、どちらも同様に大切なのだ、ということを彼らに納得させなくちゃいかん」

(前掲書、190頁)

 

 

重一郎はこの世界がおそろしくばらばらで、統一感の欠けていることを見抜いた。人類を救うため、宇宙的観点から結束を説き「宇宙友朋会」を組織して各地で世界平和達成講演会を開催する。

真偽はともかく、なんて人間に好意的な宇宙人なんだろう。「上から目線」になるのは仕方ない。だって「宇宙人」の意識はこの美しい星空に浮かぶどこか別の星から地球を見下ろしているのだから。地球人が美しい星を見上げるなら、宇宙人は美しい星として地球を見下ろすことも可能なのだろう(この視点の前提が人間臭くてとても好きだ)。

しかし、どうやら宇宙人は彼らだけではないらしい。宮城県仙台市に暮らす羽黒真澄助教授、銀行員の栗田、床屋の曽根の三人組は、やはり円盤を見たことをきっかけに、自分たちが白鳥座61番星あたりの未知の惑星からやって来た宇宙人であると自覚した。彼らは重一郎の主張とは逆に、人類全体の安楽死、すなわち人類滅亡を望んでいる。ほうっておけば人類にとって苦痛が募るばかりで、われわれは人類を愛しているからこそ「平和」という不可能な条件を課してまで存続させようとは努めない、とのこと。

 

物語のクライマックスでこの羽黒一派は大杉家にやって来て、重一郎と議論することになる。簡単に書いてしまえば、人間は不完全だから滅ぼしてしまうべきだと主張する羽黒と、人間は不完全ではあるが、それでも「気まぐれ」という美点があるから希望を捨てないという重一郎の論争である。羽黒の主張では人間には三つの宿命的欠陥があり、そのどれを考えつめていっても人間は水爆のボタンを押すのだと言う。重一郎は、羽黒の考える人間の欠点を認め人類に平和を与えようという企ての奇妙さもよく知っていた。「平和を願う人間どもは、現在存在している平和には不満であって、もっと完全な、不安のない平和を求めているのでしょうが、実は彼らが不満なのは、現在の平和の存在様態にではなく、平和の本質に不満なのかもしれない」(312頁)。

 

平和は自由と同様に、われわれ宇宙人の海から漁られた魚であって、地球へ陸揚げされると忽ち腐る。平和の地球的本質であるこの腐敗の足の早さ、これが彼らの不満のたねで、彼らがしきりに願っている平和は、新鮮な瞬間的な平和か、金属のように不朽の恒久平和かのいずれかで、中間的なだらだらした平和は、みんな贋物くさい匂いがするのです。

(前掲書312-313頁)

 

 

 

「平和」は宇宙産(?)なのか……、と文章の面白さに突っ込みをいれつつ、でも平和の「腐敗の足の早さ」はわかるような気がする。戦後〇百年、〇千年……ということは人類史上無い。前の戦禍の記憶が保たれるのはせいぜい数十年なのかもしれず、人間は飽きることなく戦争を繰り返している。そして「戦後」には「平和」が訪れる。その幸福な感じが共有される。

人間は「事後の平和」しか平和と認めない、「事後の平和」を願うということはつまり事の起こるのを前提としており、事とはつまり水爆戦争である。これが重一郎の説だ。それでもなお重一郎は人類に希望をみる。彼によると人類はまだ時間を征服できていないという。人類にとっての平和や自由の観念は時間の原理に縛られており、時間の不可逆性が人間の平和や自由を困難にしている要因らしい。

「もし時間の法則が崩れて、事後が事前へ持ち込まれ、瞬間がそのまま永遠へ結びつけられるなら、人類の平和や自由は、たちどころに可能になるでしょう」(313頁)

 

 

つまり、重一郎は人類に水爆戦争後の悲惨さを現在の時点においてまざまざと眺めさせ、その事後の世界の新鮮きわまる平和を味わわせてやれば水爆のボタンを押さずに済むと考える。しかし、そのためには人間の想像力がおそろしいほど貧しくて破滅を思い描けなかったという困難があったのだった。

水爆の悲惨さを人類に対して見せるという点において、羽黒一派と重一郎のあいだには違いはない。ただ見せた結果がそれぞれ異なっていて、人類の肉体をも破壊して滅亡させる羽黒のシナリオと、あくまで想像のうちで破壊させるのみで滅亡はしないという重一郎のシナリオが想定されている。どちらもかなり宇宙人的上から目線で、丁寧に読めば読むほど面白い。時間を征服し、未来を現在において経験することが前提なんて絶対に無理だと思うし、羽黒の人類滅亡シナリオのほうが想像しやすい(あ、やっぱり地球人の私って想像力が貧しい?)。

ところが、この一連の議論を精読して心のどこかで重一郎を応援したくなる自分も確かにいる。それで、宇宙人の視点で考えた人間像とその未来予想に関するこの議論は、私にとって「人間の面白さ」を気づかせる地点に着地した。人類を滅亡させるのか救うのか、正反対の意見のどちらも地球人である私の(あるいは作者の)想像のうちに共存している。どちらの可能性も、実現するかどうかは別として考えることはできる……。確かに地球人には重一郎が想定するほどのまざまざとした破滅を想像することはできないのかもしれない、故にその直後の平和の至福もわからないかもしれない。でもなんだか羽黒一派との論争を、人間である私はこの本の上から見ていて、あれこれ考えることはできるらしい。ここに希望があるのではないか? 人間は矛盾する存在であり、しかもその矛盾を納得して共存させることができる器だと私は思った。そういう意味で、描かれた羽黒一派と大杉家、ついでに暁子と束の間の恋愛をした竹宮と名乗った金星人も、作家の想像力によってあらゆる角度から描かれた人間の姿なのだ。

 

物語は、羽黒一派が好き放題言い放って去り、倒れてしまった重一郎が末期の胃癌であったことが判明する、と進んでいく。医者から内密に重一郎の癌の告知を受け取った息子の一雄は、目の前に迫った父の死という現実を悲しむ一方で、その死はたかが他の惑星人の仮の肉体の崩壊にすぎないという二重性を発見する。そのころは端午の節句が間近だったので、町の屋根屋根には鯉幟が風に翻っていた。その光景を眺めながら、一雄は宇宙人としての重一郎を裏切ったが、悲しむのはあくまで父の死なのだという矛盾した二つの感情の辻褄が合って、流れる涙が二つのものを結ぶ大きな絆のほんの一端が揺れさざめいているのだと思い做されたのだった。この鯉幟の描写がとても好きなので、引用して終わりにしたい。

 

 

こうした場合、自分の涙に一顧も与えずに、ほがらかにうねる鯉幟を、人間だったらその対照の冷たさに、むしろ敵意を以て眺めるだろうが、一雄は今それを一つの対照としては感じなかった。何故だか、自分の悲しみと、緋鯉や真鯉ののびやかな遊泳とが、同じ旋律で一つの円環をめぐっているような気がしたのである。ビル街の裏表には、強くなりかけた日ざしと影の、くっきりした明暗があった。すべてがひとつのゆるやかな、感情の輪舞を踊っていた。同じものが影へ入るときは悲しみの形になり、日向へ出れば鯉になって、風をはらんだ鮮やかな尾をひるがえすのだ。そう思うと、人間と宇宙人をつなぐ大きな絆が、おぼろげに覗かるような気がした。

(前掲書335頁)