言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

生命観を描ける言葉―水沢なお『うみみたい』

ふえるって美しい、のだろうか? どうして生き物はふえたいのだろう? 太古の昔の海の中からずっとそうだったから? その「ずっと」を根拠に、私たちはふえつづけるんだろうか?

生命観、ということについて考えもした。ふえる(生殖する)ことへの意思、うみたい、うみたくない、その両方を尊重できる世界があったらいい。

ところでどうして政府の少子化対策のニュースは私にとってこんなにも不気味なのだろう。これ以上「生殖」ということに政治には入ってきてほしくないという思いがある。(勿論、子供を産み育てたいひとがより良く実現できるようになる制度の構築は良いことと思う)。少子化対策として、ある政策の有効性を論じる時、または年齢別の人口ピラミッドで未来を予測する時、そこからは個人の感情がこぼれ落ちていく。そもそも何故ひとはふえたいの? 各種社会制度を維持するため? そこに個人の生命観はないの? そんなふうに思う。

 

水沢なお「うみみたい」(『文藝』2022年冬号掲載)

※ブログ記事を書いた時点ではまだ単行本が出ていなかったので、引用やページ番号は『文藝』冬号に依っています。どうやら単行本は三月末に出るようです。楽しみですね!

 

 

 

 

能見うみと志田みみは、一年前まで同じ美術大学に通っていた。今はフリーターをしながら美術作品の制作をしている。うみは、みみのアトリエを貸してもらっていて、ふたりは生活をともにしている。そこでふたりで協力して、むむというぬいぐるみを作りインターネット上で販売したりもしている。ずっとここにいたいと言ったうみに「人間を愛さないことだけ誓って」とみみは言った。うみにはやがて自分もひとを愛するようになる運命を受け入れる覚悟があって、けれども愛のすべてと折り合いがついているわけでもなく、やがてセックスへと流れ着く恋愛を恐ろしいと思っている。「ふえるって美しい」(410頁)と思っているし、子供の頃から自分の分身が欲しかった。ふえたい、うみたい、だけれど自分がふえるための方法は異性とのセックスしかなくて、それは恐ろしい。セックス以外にふえる方法を探しているようだ。大学一年生の五月から、卵生の生き物の成育と繁殖をしている「孵化コーポ」と呼ばれる場所でアルバイトをしている。

 

一方、みみは「わたし、ミュウツーだから」と言う。

ポケモンをやったことのあるひとなら、その存在が悲しいことを知っていると思う。ミュウツーは人工的につくられた存在であり、伝説のポケモンに分類されるから性別の概念はなく繁殖(卵をうむこと、そういえばポケモンってみんな卵生なのか!?)はできない。「だれがうめと頼んだ、だれがつくってくれと願った。わたしはわたしをうんだすべてをうらむ」ミュウツーは、ポケモンの映画「ミュウツーの逆襲」でそんなふうに表明した。それを小学二年生くらいのときに見たみみは、自分をうんだすべてについてよく考える。人間のすることの中で一番悲しいことは、ひとがひとをうむことだと考えている。「タイムマシンがあったら、人間がうまれてこないように、太陽を壊してあげたい」(418頁)。「わたしはうまれたときから、そこにいることを、できれば忘れてほしいんだろうな」(413頁)

ふたりが美術へ向かう動機も真逆に見える。うみは「人間になりたかった」し、みみは「人間じゃなくなりたいから」。

けれども、ふたりが互いの輪郭を絵筆でなぞりあったらお互いによく似ているものができた。ふたりの出会いは美大の四年の時、くじびきで同じ数字を持つ二人がペアになって互いの絵を描くという授業だった。ふたりとも「3」の数字を持っていた。そしてふたりとも、去年単位を落としていた。人間を描くことを恐ろしかったという。描くのも、描かれるのも。

 

「絵に描くことほど、その存在を肯定することってないと思うから。ただの色の集まりが、実在する人物に見えるようになるって、途方もない存在への祈りだと思う。わたしは、それが恐ろしい。だって、うみは怖くないの? わたしに身体を描かれること」

(中略)

「怖いよ。わたしも、昔からひとを描くのが苦手だった。絵を描くことも、描かれることも、そのひとと重なるみたいで、恐ろしくて」

 重なる、とみみはつぶやいた。

「でも、それはきっと喜びでもあるんだろうね。身体がただの器じゃなくて、光の粒になっていくような、絵を描くことだけで、触れる部分があって。怖いけど、それと同じくらい、うみはどんなわたしを描くんだろうって見てみたい」

(414頁より引用)

 

 

この会話を読んで、私はちょっとドキッとした。孵化コーポでうみがヘラクレスオオカブトを「ハンドペアリング」という方法で交尾させる場面があったのを思い出すのだ。それは昆虫同士を人間の手で交尾させる方法で、うみとみみが絶対に単位を落とせなかったあの授業のくじびきに似ていると思った。「くじびきで簡単なつがいにされた」人間と、人間の手によってほどよいものとして選ばれた昆虫のふたつの個体。

互いの姿を描くということが、セックスに重なっていくような、でもふたりの肉体はあくまで触れ合うことなく輪郭のもたらす光と影の境目を描写するだけ、筆でなぞるだけ、そのぎりぎりの交接のような営みをする、うみとみみの距離感が、読んでいてとても心地よかった。

 

生まれたくなかったみみにとって、描くことによる「存在への祈り」は恐ろしい。うみにとって、ひとを描くことはそのひとと重なるみたいで恐ろしい。ふたつの恐ろしいを乗り越えたところに、絵を描くことだけで触れる部分があって、それを見つけるのはきっとうれしい。

出来上がった絵に対して「ふたりの間に娘がうまれたらこんな感じかもしれないですね」と言われたことを、うみはもしかしたら「ふえる」こと(自己分裂)として喜べるのかもしれない。異性とのセックス以外にふえる方法をみつけたと思えたかもしれない。けれどみみは「へんなの」と囁いてミュウツーのマスコットをぎゅっと握る。ふえたくないみみにとって、出来上がった絵は近づきすぎて失敗したふたりの姿だったのかもしれない。ためらい、であるのかもしれない。

 

「触れたいって思ったから。もしくは触れたくないと思ったから、人間は絵を描くんだね」

「うん」

「キャンバスに、絵の具が、筆が触れること。なにかがなにかに触れることの素晴らしさを感じたから、みんな絵を描くんだと思う。だれにどう触れたいのか、みんな悩んでる。わたしも、きっと、うみも」

(423頁より引用)

 

 

去年の個展でみみが作った〈いるかのたまご〉という作品では、人型のきぐるみが殴り合う映像にドーン、ドーンと爆ぜる音、それから「海が見たい 人を愛したい 怪獣にも心があるのさ」と歌う合唱曲の『怪獣のバラード』が流れていた。

物語の後半で、みみが作ったインスタレーション作品「うみ」が展示される。それを見たうみは、自分たちの関係性をもとにした作品だとすぐに気がつく。白いパネルにCGの海が投影されて、そこに手のひらだけが漂流物として現れる。近づいて触ろうとしたら、自分の影が入ってしまって見えなくなってしまう。「海から遠い場所でそれをただ見ることを、近づいてはいけないことを、わたしは強制されている。みみによって、わたしはここに置かれている」(435頁)と、うみは思った。みみは、人を愛したいのに、愛されたくないのだ。独立した個の輪郭をなぞるように海辺を走ったふたりはなんだか清々しくて、それはちゃんと自立しているもの同士の愛を知っているからなんじゃないかと思った。

 

うみみたい。

うみみたい(うみと似ている)。

うみたい(あるいはうみたくない)

海見たい(うみと、海が見たい)

 

著者のゆたかな言葉の広がりやふくらみが、うみとみみ、ふたりの関係性を描いている。

みみは、ずっとみみでいたい。まみむ。「ままに戻りたくない。ずっとみみでいたい。進化するならむむがいい」(437頁)。孵化コーポにあった公民館でよく見るようなグリーンのスリッパ。「ふかふかだね」「かちかちだけど」「ふかふかだよ」「うん、ふかふかだ」(418頁)孵化孵化。

「存在したくないという存在が、存在したくないという作品を存在させる。そういう矛盾を美術だけが受け入れてくれるんじゃないかと信じてる」(419頁)と言うみみの言葉を思い出す。そういうものが、著者にとって「言葉」なんじゃないだろうか、と想像したりする。その言葉でなら、個が抱く生命観の繊細さが描ける。