言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

遅れてくる痛み―『ウクライナ戦争日記』

この本を読んでいた数日間、真夜中の中途覚醒や酷い動悸、過呼吸の発作などに襲われていて、「あれ最近忙しかったっけ? 疲れてるのかな……」と、はじめはどうして調子が悪くなったのかわからなかったのだけれど、しだいにこの本の内容に相当打ちのめされているのではないか、と思うようになっていった。

(後日談:実は持病の悪化もあった。)

 

Stand With Ukraine Japan/左右社編集部編『ウクライナ戦争日記』(左右社、2022年)

 

 

 

戦争は生活破壊以外の何物でもない。どんな大義名分があろうと、それが正しかろうと間違えていようと、ただひとつ揺らぐことのない現実としてたち現れるものは破壊された日常生活なのだ、と思わずにはいられない。本が読める日常のありがたさを噛みしめてしまった。

本書は2022年2月24日、戦争が始まった日から数日間のウクライナの人々の日記を集めた一冊で、ハルキウマリウポリ、ヘルソン、キーウといった戦争絡みのニュースでこの一年でよく聞くようになった地名ごとに、そこにいた人々の記録がまとめられている。何気ない会話に、自分はブチャから逃げてきたのだという人の話などあり、それはつまりあの虐殺が起きる前に脱出できた一人なのだと思った時、日本にいてこの本を読んでいる私の手元には無事であった人の言葉しか届いてはいないのだ、と改めて戦慄した。

「ボランティア」という言葉が何度も目に留まって、それが戦時のウクライナで大きな役割を果たしていたことはわかるのだが、極限状態に追い込まれた人までが何故そんなにボランティアというものに身を投じることができるのか、不思議でもあった。その答えのひとつ「ボランティアの経験は驚くほど人生を肯定してくれるもののようだった」(318頁)という言葉を見つけて、なるほどと思うのと同時に複雑な気持ちにもなる。平和な時にはボランティアをはじめ、なんの社会貢献なんかしていなくても、肯定されていた人生だってたくさんあっただろうに。「連帯」が救いとなる有事の際に、上手に他者と「連帯」できない私のようなはみ出し者には救いなんかないんじゃないだろうか、と考えてしまった。そういう人だってだくさんいるだろうに。自然災害と戦争を比べるのは無意味かもしれないが、敢えて書くなら、東日本大震災の時にも「連帯」の輪、「絆」という軛に背を向けざるを得なかった人は今でもきっと苦しいだろうと思う。

 

「分断」ということを、最近はよく考える。新型コロナウィルスについてもそうだ。私はコロナ禍の最初から今までずっと同じ病院職員として働いているから、いくらかマシになったとはいえ、いまだに新型コロナウィルスは脅威であり続けている(最近、遺体の取り扱いが変わって納体袋が不要になったが、葬儀会社が対応しておらず結局、納体袋を使うはめになった、ということがあった)。ところが世界的に、あるいは日本国内であっても医療や介護現場の外側にいる人にとってはコロナ禍はすでに終わったも同然らしい。もちろん、そのことを否定するつもりは全くなくて、私自身、コロナ禍の初期の頃よりも行動制限をいくらかゆるめている。それでも多くの人と同じ方向に感情を向けられないでいるので、孤独はどんどん深くなっていくように思う。

私が置かれている現状がコロナ禍ではなくて戦争だとしたら、やっぱり孤独を感じるんじゃないだろうか。私が暮らす北海道とロシアはとても近いから、今回のウクライナ侵攻を遠い出来事とは思えないひとが多かった。さらにすでに2回も北朝鮮のミサイル発射によってJアラートが鳴ったという事実がある(一体、どこに逃げろというのだろう。登校中の子供たちが通学路を歩いているというのに)。悲観的な想像や状況を浴びているうちに、軍備を増強しなければならない、いざとなったら戦わなければならない、なんならロシアの守りが手薄なうちに北方領土は奪還するべきではないのか? なんていう声もきこえてくるようになった。私は何を思えばいいのだろう。やられたらやり返すでは、やられた側の家族はもちろん向こう側の家族もまた犠牲になる。生活だって、双方ともに壊れてしまう。

 

「分断」の悲しい事例として本書にこういうエピソードが語られている。日記の書き手はソ連生まれでハルキウに暮らしていた、親戚の半分はロシアにいるそうだ。軍隊が市民を撃つ日が来るなんて思いもしなかった、かなりショックだった、という言葉に次にこう語られる。

 

それから、私にはロシアに住む双子の姉がいる。戦争が始まったとき、姉に写真を送って、「こんなことが起こっているんだ。見て」と伝えた。

だが彼女は、「これは嘘よ」と答えた。

ロケットが私たちの地域を攻撃し始めても、彼女は電話で「ロシア軍は軍事施設にしか発砲していないわ」と言った。元気いっぱいの幸せそうな声で、「ロシアがウクライナを自由にしてあげるよ!」と言い放ったのだ。

(本書58頁より引用)

 

 

このふたりはどちらも悪くないのに関係が壊れてしまうのだ。

私は何を見ればいいのだろう、と思う。政府が言っていることとも、「世論」と言われるものとも、SNSに流れてくる情報とも、ほんのすこしずれた意見や感覚を抱いてしまう孤独な心は何を思えばいいのだろう。

本書の「はじめに」でStand With Ukraine Japanの共同創設者であるサーシャ・カヴェリーナ氏が書いていたことに少しだけなぐさめられた。

 

あらゆるものが動き、変化するということだけが唯一の変わらないことであるこのようなときには、書くことで正気を保てるのです。それは、ロシアの侵略によってもたらされた恐怖を記録するだけでなく、私自身の絶え間ない不安を和らげ、楽にするための手段でもありました。

(15頁より引用)

 

 

 

だから、今回ブログでこの本を紹介しようと思ったのかもしれない。

 

国境にある検問所で受けた忠告のとおり全速力で走ってきたので、草むらの中になぜ人の服らしきものが落ちているのか、はじめはよく理解できずにいた。だが、過去に見たことのある何かがふと頭を過り、道の両脇に奇妙な恰好で横たわっているものが人間の死体であると気づいた。

(36頁より引用)

 

 

今は本を読んでいられる幸せと、書くことで癒される気持ちを抱えて全速力で走るしかない(私が置かれた状況は戦争ではなくて、コロナ禍や個人的で些細な人生の事柄にすぎないけれど)。この戦争も、震災も、コロナ禍も、傷ついてしまった心がふと見つけられるのは、もう少し先なのかもしれない。遅れてやってくる痛みがある。