言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

透明な孤独の輪郭線―絲山秋子『海の仙人 雉始雊』

水晶浜ってどんなところ? とAIに訊いたら、福井県美浜町にある海水浴場で、その名前の由来は「白く透き通っていて光に透けているような砂が水晶のように見えることから付いた」のだと応えた。AIがいうことだから嘘か本当かはわからない、と思いかけて、いや、そもそも人間が言うことだって似たり寄ったりじゃない? 結局は自分で確かめるしかないんだから、とも思った。私はその浜が描かれた小説を「透明の孤独」だと思っていたから、AIが説明した水晶浜の由来にだけは、妙に納得してしまった。

 

水は波の向こうが透けてみえるほど透明で、ひんやりと身体を包んだ。日が射すと、光の網目模様が海底に映り、それが波の裏側に反射して、青い稲妻のように砕けた。海の色合いは陸から見るのと泳ぎながら見るのとでは違っていた。珊瑚礁の海の鮮やかさとは違う、砂地の海のまろやかな深みのある色調だった。

絲山秋子『海の仙人 雉始雊』33頁より引用、浦底の港から船で行った水島で泳いでいる場面の描写)

 

 

 

 

今回は絲山秋子さんの「海の仙人」という、私にとって日本現代文学を読む(そして今に至って関わり続けていられる)きっかけになったこの大切な小説について、書きたいと思う。

 

絲山秋子『海の仙人 雉始雊』(河出文庫、2023年)

 

 

人生のうちで雷に打たれる確率と宝くじで三億円当たる確率が比べられているのをどこかで読んだことがある。「海の仙人」に登場する河野勝男が、その両方を体験しているのだからよほど確率の低い道を生きているような気がする。で、行きついた先が「仙人」か。

二十九歳の時に宝くじで三億円を当て、店員をしていた銀座のデパートを辞めた河野は敦賀に移住し、空き家になっていた古い造りの平屋を買い取って一人暮らしを始めた。「リンゴは好きで、雨がこわい」らしいオカヤドカリを飼っている。特殊なタイルの床に砂を敷き詰めた家(ちなみにオカヤドカリの飼育には床材に砂を敷く)に住んでいる。冒頭で河野はオレンジ色のダットサン・ピックアップの荷台に積んできた砂をぶちまけて、空になった荷台に新しい砂を積む。部屋に敷いている砂の入れ替えだ。早朝の水晶浜での出来事だった。ここでその年初めて泳いだ日、河野は「ファンタジー」と名乗った役立たずの神様と出会う。

不思議なことにこの「ファンタジー」なる存在について、この後登場する人物のほとんどが何故か知っていた、いつどこでかはわからないけれど会ったことがあるような気がすると証言した。でも片桐という女性だけはファンタジーを知らなかった。

「あ、ファンタジー

と、私は書店で河出文庫から今年新しく出た『海の仙人 雉始雊』を手に取って心の中でつぶやきたくなった。初めて読んだのが新潮文庫版で、今からもう十数年前であることに驚いた。もう何度読んできたか知れない。だから私はファンタジーを知っていた、と思いたかった。

初めて読んだ時から、この「ファンタジー」とは一体なんなのか、ずっと考えていた。十数年前には言葉にできなかったことが、今ならほんの少しだけ言葉にできるような気がしてこうして書いている。

今の私にとってファンタジーは「透明な孤独に輪郭を与えたもの」だ。

ファンタジー曰く、自分ができることは「せいぜいが、孤独な者と語り合うくらい」で、河野に会う前はトキとかニホンオオカミと語り合ったらしい。「よくいるだろう、新橋の焼鳥屋とかモンマルトルのカフェとかブダペストの下町なんかに」とファンタジーは自分のことを言う。片桐がファンタジーってどういう意味なのさ、と尋ねたら「裏側」だと応えた。片桐の友人である石原はバレエをやっている時にファンタジーに会った気がしていて、自分を裏側まで突き詰めていたらファンタジーに会えるのかもしれない、と考えている。

 

裏側を見るということは、表側を無視することだ。それは自分が現在おかれている状況を直視しないことだ。日常の音という音がすうっと遠ざかってやがて完全に聞こえなくなる深み、真夜中に電灯の光が届かない場所、眠りのような沈黙、殻の中のようなところに潜り込むように、何であれ物事に没頭している時、人間は裏側を見ている。その孤独は驚くほど透き通っていて心の襞のひとつひとつが見えそうなほどで、つめたく身体を包み込んでくる(冒頭に引用した水島の海みたい)。何かひとつのことに集中している時の孤独がたぶん最も透明で、人生においてその他のことすべてを無視しているこの状態は恐ろしい瞬間でもある。そういう時にファンタジーは現れる。一見、裏側は孤独である。けれども実のところ、表側の存在こそ本物の孤独の形をしていて、それを見ないようにするために人間は熱心に何かに取り組み続けているのではないだろうか。趣味であれ仕事であれ芸術であれ。本物の孤独を他のもので濁らせておくのだ。もしかしたら、人間は本質的にずっと孤独な存在なのではないか。片桐だけが、もしかしたら孤独をまっすぐに見つめている。片桐にとってはたぶん孤独が心の輪郭になっている。片桐だけ自分の表側の孤独の形を知っている。だから裏側の「ファンタジー」なんて見る必要はなかったのかもしれない。

 

「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか? 外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」

(93頁、片桐のセリフ)

 

 

初めてこの作品を読んだ時、私には孤独がわからなかった。今でも本当にはわかっていないと思う。というか、本当にわかる日なんか来るのか、それが心の形だとちゃんと理解できる日がくるのかはわからない。でもひとつだけ、今の私に言えそうなことがあるとしたらこれだ、小説というものは、透明な孤独に輪郭線を与えることができる。

「どうして旅の終わりってこんなに嫌なのに、また旅に出るんだろうね」と片桐は言った。「ひ……」しゃくりあげたあとで漏らした「……ひゃね……」という片桐の短い別れの言葉、衰弱していくかりんが「さっき、ファンタジーが来たの」と言った時のあかるい切なさ。何の魔法も奇跡も起こせない役立たずの神様が物語の終わりのほうで、河野と並んでいる静謐さ。

 

「彼らは静かに心を並べて、小石の混じった砂を洗う浅い波の音を左右に聴いた。」

(147頁)

 

 

ファンタジーは眠る時、どこからともなく白い布でできた一人用のテントを取り出す。ファンタジーがそこに潜り込むとだいだい色の灯りがぽっと灯る。片桐が覗いたところ、それはラグビーボールくらいの大きさのタマゴだった。もしかしたら、片桐の孤独はそういう形をしているんじゃないかと思った。

 

 

 

ちなみにAIに水島について訊いたら「水島という名前の場所は日本に複数ありますが、どこについて知りたいですか?」と問い返してきたから「福井や」と応えた。そうしたら、敦賀市の色ヶ浜沖にある無人島だと教えてくれたので、水島が描かれた小説はあるかと重ねて訊いたらこんなふうに応えた。

 

「水島が描かれた小説としては、絲山秋子さんの『海の仙人』があります。この小説は、敦賀市の色ヶ浜にある旅館を舞台にした物語で、水島も登場します。作者は敦賀市出身で、水島にも親しみを持っていたそうです。」(AIの回答)

 

 

 

どこが嘘なのか、考えるのも面白い。ちなみに情報元として出てきたURLの先は旅行情報のサイトだった。AIに平然とつかれる嘘に、ちょっとだけ笑った。

 

6日発売の「新潮」6月号に「ウミガメを砕く」という小説を書きました。

異様に細長い公園を大停電の夜にさまよい歩く話です。お読みいただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。久栖の情報告知用にtwitterのアカウントも作成しましたので、フォローもよろしくお願いします。(久栖)