言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

島々を書く、やがてそれは大陸になる―ル・クレジオ『ラガ 見えない大陸への接近』

日本は島国である。

と、敢えて当たり前のことを書いて再確認したくなるほどに、私には島暮らしの実感がない。自分の属する国が他国から見れば「島」であるにも関わらず、なんとなくもっと「地盤」のしっかりした場所にどかっと暮らしているような気持ちでいる。そして、私が「島」だと思う場所は自分の暮らす土地のほかにある。たとえば、礼文奥尻小笠原諸島や沖縄、対馬長崎県九十九島と呼ばれる一帯のことを、また北方領土のことも「島」だと思っている。それらが「島」であるのに、自分が今立っている場所は「島」だとは思えない。これってちょっとおかしな感覚だ、ということにはじめて気がついた。自分を中心に考えて、自分の立っている領域より狭い場所を、私は「島」だと思ってしまうらしい。

それでずっと、「島」という場所には一種あこがれの感情をもって接してきた。

 

今回紹介する本はこちら。

ル・クレジオ 著、管啓次郎 訳『ラガ 見えない大陸への接近』(岩波書店、2016年)

 手に取って最初に、この本の装丁の、深い青色に心が満たされる思いがした。 

ラガ――見えない大陸への接近

ラガ――見えない大陸への接近

 

 

 

南の島々、と聞いて我々は一体なにを想像するだろう?

どぎつい色をした花柄のワンピースを着た島の女の、日に焼けた黒い顔。その彫りの深い顔の、くぼんだ眼と高い鼻、厚いくちびるからこぼれる言葉はどこか呪文めいた語の羅列、そういう歌のハミング、たとえばラグビーで有名なトンガから連想される、からだの大きな人々から漏れ出す細やかなリズム。強烈なにおいのする見たことのないような巨大な花はどれもこれも驚くほどに赤かったりピンク色をしていたりする。これが私の思い描く、大雑把に捉えるならチリ沖のイースター島から台湾のあたりまでの太平洋のイメージだ。もちろん、この地域には一度も行ったことはない。つまりこのようなイメージは本当にただの想像でしかなく、それを根拠にした「好き」という感情さえ、自分が南の島々に対して勝手に押し付けたイメージに対する好奇心でしかないかもしれない。それなのに時々、無性に心配になる。何故、この大好きな熱帯地域には「アメリカ」があるのだろう? かつて「日本」もあったという。ふと中島敦という小説家や、土方久功という彫刻家のことを思い出す。

 

おそらく旅には、自分自身の無能を正確に測るという以外の理由などないのかもしれない。ラガという、見えない大陸のこの一片に、ぼくはほとんどついうっかりとでもいうようにして近づいてしまった、それがぼくに何をもたらしてくれるのかも知らず。夢か欲望か、幻想か、新たな希望か、それともただの寄港地か……。

一瞥し、かすめただけのラガが、すでに遠ざかってゆこうとしている。

(前掲書、109頁より引用)

 

太平洋に点在する島々は大きく三つに分類される。

ミクロネシアメラネシアポリネシアだ。

本書でル・クレジオが扱うのは、南西太平洋にひろがるメラネシア地域に、1980年に生まれた独立共和国ヴァヌアツ、その中でも特に独自の言語と習慣が生きているという島、ペンテコスト島、現地名は「ラガ」という場所だ。原著は2006年に出版されたスーユ社の「水の人々」と呼ばれるシリーズの一冊で、ペンテコスト島を訪れたル・クレジオの紀行文と言える(以上、要点は本書に挟み込まれていた訳者の管啓次郎氏による解説「訳者から読者へ」というブックレットを参照した)。

ペンテコスト島、ラガ、アオレア。これらはすべて同じ島についている名前だ。ラガはアプマ語、アオレアはサ語という言葉による「ペンテコスト島」の別名だそうだ。訳者は「別の言語集団からはまた別の名で呼ばれ、そのようにしてひとつの島は何重にもかさなった名と記憶をもっているようです。」と書いている。

不思議なことのようにも思えるが、考えてみればこの感覚はとても身近なもので、たとえば北海道に住む私の場合「樺太」と「サハリン」が同じ場所をさすことを知っているし、その上にある都市「豊原」は「ユジノサハリンスク」、「大泊」は「コルサコフ」であるということも知っている。かつてそこが先祖の地であったという記憶が土地の名前の重層的なイメージを支えているようだ。北方四島も、ロシアから見れば、日本から投影するイメージとはまったくかけ離れた名前や役割が与えられているのかもしれない。単に国の違いに留まらず「島」の内側と外側という意識の違いによって生じる風景もあるだろう。

ル・クレジオが紹介する「ラガ」の風景は、決して穏やかなものではない。

 

海は純粋な青だ。観光客がよろこぶラグーンのトルコ石の色ではなく、暗く、激しく、深い青。ペンテコスト島では岩礁がない。島は深淵から立ち上ってきた孤立した高い火山の山頂であり、どこか始原の壮麗さを身にまとっている。それは何千何万年にもおよぶ雨と嵐の時期、空がそのまま地表に落ちてきてまだマグマが顔をのぞかせている谷を溺れさせ、やがて太陽が成立したころのことだ。

(前掲書、54頁-55頁より引用)

 

島にある村は海岸沿いの便利な位置にはない。切り立った崖を登ったところ、その深みに人の暮らす場所がある。そのこと自体が、かつてこの地域を襲った「ブラックバーディング」と呼ばれる島々の征服をめぐる黒い伝説の影だ。本書によれば「ブラックバーディング」とは、1850年から1903年にオーストラリアの法律により公式に終止符が打たれるまで続いた強制的に徴用された労働力の取引のことであり、事実上、奴隷制そのものだったという。南洋地域は歴史上、幾度となく戦場にされたり、核実験の場所として選ばれてきた暗い歴史もある。しかし、それだけでなく、ル・クレジオはラガの風景から「抵抗への意志」を汲み取っている。たとえば言語。征服者たちの暴力の痕跡を背後に秘めるクレオル語には、クレオル語話者たちの「生き方と世界理解の仕方が、変化し生き延びみずからを再発明する能力」が刻み込まれているという。

 

島。その場所を、

海に囲まれているがゆえに、外界から隔絶されていると捉えるか、

海に囲まれているがゆえに、あらゆる場とつながっていると捉えるか。

 

この捉え方ひとつで世界は随分と違って見えるものだ。近年の歴史学の研究では後者の立場をとって日本史や世界史をとらえ直す動きが盛んになってきている(そしてこの見方は、教科書的な「硬直した」歴史とは全然違ったイメージを与えてくれる)。ル・クレジオの立場も後者だろう。

 

アフリカのことを人は失われた大陸だという。

オセアニア、それは目に見えない大陸だ。

目に見えないというのは、そこに最初に思い切って乗り出した旅人たちにはそこが見えていなかったからであり、また今日でもそこが国際的には承認されていない場所、通過地点、ある種の不在であるに留まっているからだ。

(前掲書3頁より引用)

 

大地ではなくむしろ太陽によってできあがった大陸であり、様々な群島、深海からそびえたつ火山、あらゆる時代を通じてもっとも恐れを知らない海の旅によって人間たちが住みついた珊瑚礁から、なっていた。初期のヨーローッパ人航海者たちがそれを見ることなく横切ってしまったひとつの大陸。夢の大陸だ。

(前掲書7頁より引用)

 

南太平洋に浮かぶ島々を、ひとつの大陸と見なすこの大胆な表明。

ル・クレジオの目に島々がそう見えた理由、それは人の移動とともにゆるやかに移っていったと想像できる文化の痕跡や、死者たち、先祖たちの声が、遠く島を越えて伝わってゆくように響き合うスリット・ゴング(木鼓)の音と重なりあったように感じたためだろう。スリット・ゴングの響きは大陸の「博物館」のような場所では何も語らない。生活の猥雑な、整理されていない、まさに生きているという現場でこそ初めて聞かれるもの、文化というものへの深い洞察をもつル・クレジオが「ラガ」で拾い集めて書き上げた言葉。その言葉がこうして一冊の本になって私たちの手元に届く。「ラガ」から、ひとつひとつ拾い集められた言葉はやがて風景になって、いつの間にか読者の前で繋がるように、島々をひとつの「大陸」に見せてしまう。

 

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