言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

言葉と沈黙―ル・クレジオ『悪魔祓い』

どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが、とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマインディオたちに出会うまで、わたしがインディオであるとは知らなかった。今では、わたしはそれを知っている。

ル・クレジオ『悪魔祓い』冒頭、9ページより引用)

 

 

今回は、フランスの作家であるル・クレジオによる、こんな宣言からはじまる1冊を紹介しようと思う。ル・クレジオインディオの出会いは偶然のものだった、と解説にあった。1966年、当時のフランスにはまだ兵役制度があったのだが、兵役に服するかわりに二年間ばかりを教員、技術者などとして海外で勤務する「海外協力隊員(コオペラン)」という選択も可能であった。後者を選んだル・クレジオは1967年からメキシコシティーラテンアメリカ研究所に勤務することとなる。これがル・クレジオにとってインディオ文化との出会いだったそうだ。とくにエンベラ族とワウナナ族との出会いは印象的だったようである。

(以上の情報はすべて『悪魔祓い』の解説にあったものを簡単にまとめた。)

 

ル・クレジオ 著、高山鉄男 訳『悪魔祓い』(岩波文庫、2010年)

悪魔祓い (岩波文庫)

悪魔祓い (岩波文庫)

 

 

ちなみに、ル・クレジオはのインディオ文化に関する本で私がすでに読み終えた本に『メキシコの夢』と『マヤ神話―チラム・バラムの予言―』がある。

 

どうして、ル・クレジオは自分がインディオなのだという直感に満たされたのだろう。

はっきりとはわからないけれど、本書を読んでいくと著者は自分の物の見方や考え方をインディオのそれと重ねあわせていったことがうかがえる。初期の作品で明確な都市文明批判を繰り広げていた著者にとって、世界や自然との調和を保ったインディオ社会は理想的なものに見えたのかもしれない。

「調和」

二文字で済ませてしまえば簡単ではあるが、しかしこれは一体どういうことなのだろう?そのことを言葉で表現するのは難しい。それはたぶん、インディオ社会が「言葉」というものを忌避し、自己表現や芸術というものを拒否していることに関係がありそうだ。

 

この体験については、たとえば海について語るように語らねばなるまい。海はそこにあった。人々は、日々それと隣り合わせ、眺め、それについて考えていた。しかし海がなにを意味するかは知らなかった。しかし海のほうでは知っていた。都市をとり囲み、人間の思想を組織し、音楽と絵画と詩を律していたのは海だったので、その逆ではなかった。どうしてそんなことが想像できよう。人々が言葉を使用し、それを白い紙の上に並べたとき、人々はそのことに気づかなかったが、じつは紙の上に並べていたものは貝だった。そこである日のこと、ただ海のほとりの岩の上に坐っているだけで、人々が発見するのは、人間の体験は宇宙の体験のなかに含まれているということだ。おわかりいただけるだろうか? これはほんとうに恐ろしいことだ。と同時に悦ばしいことだ。というのは、そのとき、多くの言葉が現われ、多くの言葉が崩壊するからだ。つまり、言葉は人間の口によって変形された宇宙の表現であり、いわば翻訳された言葉であって、もとの言葉そのものは永遠に翻訳されないままなのである。

(前掲書、16頁-17頁より引用)

 

インディオにとっての「言葉」は暮らすということ、生きるということに直結していて、単なる伝達の道具ではない。「言葉」の持つ表徴の力の危険や「言葉」によって自分を暴露すること、危険にさらすことがどういうことであるのか、インディオは知っている。「言葉」は単なる記号ではなくて、呪術的なものだ。だからこそインディオは「言葉」のほかに「沈黙」を重んじる。「沈黙」は単に黙っていることでも、無活動の瞑想でもない。それはいくつもの言語を解し、いくつもの声を聞きわけるものだ。じっと暮らす、その沈黙から編み出される模様、それはインディオにとっての「絵画」に結びつく。西洋の絵画はキャンバスの上に固定されたもの、確定した形式の展示である。それに対してインディオの「絵画」は暮らしの中で生きているものである。芸術家でも天才でもない、不特定の人々の手によってくりかえし浮かび上がる模様だ。インディオはそういう絵を「展示」することはない。それはまた表徴するということの危険を知っているからだとル・クレジオは語る。

 

身体そのもの、「肌」。唯一の真の画布、なにも書いていない唯一の真の表面、失われることがなく、生命によってつくられ、生命《である》画布。インディオたちは、芸術を展示しない。自分たちの肌に描くことによって、自分たちの肉体を芸術作品とすることによって、彼らは、総合的意味作用の領域に達した。インディオは芸術のなかに生き、絵画と一体となっている。ようやく生命(いのち)を得た芸術、呪術。

(前掲書、131頁より引用)

 

この本の目次は大きく三部に分けられている。すなわち「タフ・サ―すべてを見る目―」「ベカ―歌の祭り―」「カクワハイ―悪魔を祓われた肉体―」

 

タフ・サ、ベカ、カクワハイ、インディオを病気と死から奪い返すためのこれら三つの段階は、あらゆる想像の小径の道しるべそのもの、すなわち、秘法伝授、歌、悪魔祓いなのであろう。芸術というものはなくて、あるのはただ《医術》だけだということを、いつの日か人々は悟るにちがいない。

(この本のカバーにあるル・クレジオの肉筆、訳文、本文10頁)

 

ル・クレジオはこの本が完成しかかった時に、この本が偶然にも(作者の知らぬうちに)タフ・サ、ベカ、カクワハイという呪術的治癒の儀式を追ってしまっていたことに気がつく。

タフ・サ、まずは示される。そうして示されたものを見ることで、すべてが名づけられる。ベカ、名前と形の祭り。インディオの沈黙と歌で形作られる世界観を読者はル・クレジオの文章によって感じとる、それは暮らし(生きること)と一体となっていて、気晴らしのための《芸術》など存在しない。カクワハイ、名づけたものの変容によって怪異なもの、理解不能なものがなにもなくなった状態、悪魔祓いの祭りの感性、インディオが自らの肌に絵を描くということがどういうことなのか、読者の前に示される時。

 

しかしだれかがある民族について語り、自分が属していない社会の情念や意図をおしはかってみたいなどと思うといつもそうなるのだが、その個人がかならずしも自分の知識を信用していない場合でも、大きな危険をおかすことになる。こういう次第で、人を近づけないこと、および沈黙することをもって偉大な徳としているような人々について書かれた以下の文章は、残念なことに、著者自身についてしか語り得ていない。

(前掲書、9頁-10頁より引用)

 

 

どんなに言葉を尽くしても、これはインディオを書いた書物ではない。そのことをル・クレジオは了承している。あくまでも、インディオ文化に触れた著者自身のことしか書かれていないし、読者はそのエクリチュールを通してしかインディオ文化に触れることができない。そのことは、言葉というものが作り出す溝の存在を浮き彫りにする。

 

 

本書のあちこちに写真が掲載されているのだが、巻末にその目録がついている。博物館のカタログではないこれらの写真の被写体は、生きているものであり、老いたり、滅びたりもする。大きくふたつに分類できる写真群の表題はそれぞれ〈インディオたち〉と〈わたしたち〉だ。ヨーロッパ文明とインディオ社会のヴィジョンの対立をストレートに描いた書物である。

 

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いろいろと予定を変更して急遽、ル・クレジオの『悪魔祓い』を再読した。とても良かった。自分が保つべき言葉と暮らしと社会の距離感みたいなものを再認識できたような気がする。さすがにおれはインディオではないけどね笑。(この本の冒頭でル・クレジオは自身をインディオであるとしたのが有名)