言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

歴史をのみ込む日常という沈黙―ル・クレジオ『オニチャ』

夏がくれば、というか夏至が近づけば……ということなのだろうか? どういうわけか毎年この時期になるとル・クレジオという作家の光にあふれた小説作品が読みたくなる。それで今年もル・クレジオの著作を手に取った。今回の記事で紹介するのはこの本。

 

ル・クレジオ 著、望月芳郎 訳『オニチャ』(新潮社、1993年)

オニチャ

オニチャ

 

 

訳者あとがきによれば、この作品はル・クレジオにとってアフリカを舞台とした2番目の作品になるようだ(1992年発表、ちなみに1作目は1980年『砂漠』)。ナイジェリアで過した著者自身の少年時代の思い出が芯になっている自伝的要素の多い作品で、ル・クレジオは『さまよえる星』(1992年)と『オニチャ』を「幼少年期に題材をとった二部作」と呼んでいる。

オニチャとは、ニジェール河東岸に拡がるナイジェリアの河港都市の名前だ。

主人公のフィンタンという少年は、母のマウとふたり、商船スラバヤ号に乗ってオニチャを目指す。それが一九四八年三月十四日、日曜日の終り。離れて暮らしていたフィンタンの父ジョフロワ・アレンが手紙でふたりをオニチャに呼び寄せたのだ。

 

商船スラバヤ号は、思い出を運ぶと同時に、貪りくらう、大きな鋼鉄箱だった。エンジン音は止まらなかった。船の腹の中で光り輝いているロッドやスクリュー軸、波を切りながらたがいに反対方向に回っている二台のスクリューを、フィンタンは想像した。あらゆる物が運ばれてゆく。世界のもう一つの果てに行く。アフリカに行くのだ。いつも聞いていたさまざまな名前があった。マウはそれらをゆっくりと発音した。親しみはあるが、不気味な名前、オニチャ、ニジェール。オニチャ。はるかかなた、世界のもう一つの果て。待っている男。ジョフロワ・アレン。

(前掲書、17頁より引用)

 

フィンタンははじめ、アフリカになんか行きたくないと思っていた。だから商船に乗った彼は自らの背後に多くの物を残してきている。思い出は船の航跡のように後ろに伸び、やがて消える。「船が深い海に出、地面のベルトから遠く離れ、フランスがうねりの濃い青の中に姿を消し、大地や街々、家並みや無数の顔が航跡の中で細断される」(9頁)一瞬をフィンタンは忘れたくないと思った。オニチャに着いた母子はイブスンという、河の住民の言葉で<眠る場所>を意味するジョフロワの家で暮らすことになる。

新しい生活はマウの夢想していた「アフリカの理想像」とは程遠いものだった。そこにひとつめの「挫折」があった。イギリスの植民地であるオニチャの風景、ユナイテッド・アフリカに勤める会社員の夫ジョフロワ・アレン。何もかもがマウの夢想の中にあったアフリカとは違っていた。

この小説に登場する人物たちはそれぞれに「挫折」を抱えている。上記のマウや、歴史や神話探索の中断を余儀なくされるジョフロワ、そしてオニチャを離れたあと、内戦に巻き込まれているオニチャを思いながらも何もできないフィンタンの現実への挫折。

ジョフロワの部屋の壁に鋲でとめられた大きな地図にはナイル河とニジェール河が書かれている。それから奇妙な名前と、河と河の間にはメロエの女王がそのすべての民と新しい世界を求めて旅立って以来辿った道が赤鉛筆で記されていた。ジョフロワが探求するメロエの女王の軌跡、それは結局神話のまま、現実に証明されることは決してない。メロエは今では動かない遺跡の姿で保存されているにすぎない。

※メロエは現在のスーダンの首都ハルツームの北東に繁栄した黒人による文明。

 

フィンタンは入口に居続けた。地図を前に行ったり来たりしている興奮した男を見つめ、その声を聞いていた。河の中のその都、時間が止った神秘的なその都を想い描こうとしてみた。だが彼が見るのは、河のほとりの動かないオニチャ、埃のつもった道、錆びたトタン屋根の家々、桟橋、ユナイテッド・アフリカの建物、サビーン・ローズの御殿、ジェラルド・シンプソンの住居の前に、大穴が口を開いた街だった。多分もう、時は遅すぎたのかもしれなかった。

(前掲書、114頁より引用)

 

メロエの幻想は、現在のオニチャのイギリス色に染められた風景の前に潰えてしまうのだ。かつて存在していたメロエの王国、そこに流れた時間は今はもう停止してしまっている。そしてこれから風化していくに過ぎないのかもしれない。たとえ世界遺産になったとしてもメロエの遺跡群にかつてあった精彩が甦ることはない。ジョフロワの歴史探求は潰え、謎は謎のままに残り、だれもがオニチャを離れ、ジョフロワも、誰も彼もがやがて死んでいなくなる。現在たしかに存在するものさえ静かに朽ちはじめている。かつてのイギリス帝国の繁栄を物語るジョージ・ショットン号は河の流れの中で残骸になっており、それもやがて沈む。フィンタンはそれでもいいと思った。日常の沈黙、日々の絶え間ない暮らしの流れは歴史を飲み込むのかもしれない。

 

ル・クレジオの作品は「過去」というものをよく引きずる。単なる出来事の回想ではなくて引きずられる過去には自分の経験の外、伝説や神話までもが含まれる。そしてその過去をまるで生き直そうとするかのように、綿密な描写が続く。たびたび私は述べてきたのだけれど、ル・クレジオの描く風景にはいつも懐かしさを感じてしまう。おかしな話なのだ、私はル・クレジオの描く光を経験してなどいないはずなのに。現在の風景とほとんど同じくらいの密度で描かれた過去の風景の描写は、それを手放したくないという思いと、それから手を離したことで失い、打ち砕かれてしまったという思いの両方に引っ張られ、現在に強烈な存在感を示す。その風景を私は見たいと思う。眩しい光がどんなにこの眼を貫こうとも、見たい風景や生き直したい風景があると思わせてくれる。それが私にとって、ル・クレジオ作品を、夏の光の中で読みたいと思わせるのだ。

失われていくもの、変わっていくものを、ル・クレジオは深く眼差す。

 

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こう、ふりかえってみると、いやはやずいぶんたくさん書いていたようで汗。

 

 

自分のTwitterよりメモ↓

ル・クレジオ『オニチャ』を読んだ。作者が幼い頃に経験したアフリカ(ナイジェリア)の思い出がもとになっているらしい。神話と現在が溶け合う小説の時空間。河や雨という水のイメージ、そして太陽(さすがル・クレジオ)。失われていくもの、変わっていくものへの作者のまなざしはやはり凄い

 

特に前半の「長い旅」の部分が好きだ。スラバヤ号の船旅。 「マウは夢想し、煙草は燃えつき、紙は書かれていった。記号はもつれ、大きな余白が残った。」(引用) 思い出すこと、夢見ること、それらを書いたり語ったりすることについて、読後しばらく考えてしまった。

 

ル・クレジオの小説を読むといつも、その作品に費やされた言葉の贅沢さに驚き、それを享受できることに幸せを感じる。