Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

視線の中の夢が始まる―ル・クレジオ『メキシコの夢』

今回紹介するのは、ル・クレジオ『メキシコの夢』という本。この本は著者のインディオ諸文化研究の成果を〈夢〉というキーワードのもとにまとめあげたもので、原著は1988年8月に刊行された。ル・クレジオには1967年に義務兵役代替としてメキシコ市のラテン・アメリカ学院大学で教授職を務めたという経歴があり、そこから彼のインディオ研究が始まっている。『悪魔祓い』なんかもこのあたりの経験から生まれた思索であり、都市文明に批判を浴びせていた著者にとって、インディオ文化の研究はよほど重要なものだったのだろうか。

 

ル・クレジオ 著、望月芳郎 訳『メキシコの夢』(新潮社、1991年)

メキシコの夢

メキシコの夢

 

 

著者は本書で、ベルナール・ディーアス・デル・カスティーリョ『ヌエバ・エスパーニャ征服の真実の歴史』(邦訳『メキシコ征服記』)、ベルナルディーノ・デ・サアグン『ヌエバ・エスパーニャ事物全史』、『チラム・バラムの予言』、『ミチョアカン報告書』を軸に多くの文献を駆使しながら、メキシコ古代文明の姿を浮かび上がらせる。著者の、文化人類学者に近い冷静な学問的態度と、初期の作品から他界との接触を試みてきた小説家としての情熱が入り混じった著作だ。この混淆がまた、本書の記述を<夢>のように見せ、ことばの魔術のような力を発揮して読者を眩惑する。二つの異なった文明(征服者と先住民)の〈夢〉に著者の<夢>が介入することで、読者の前に情熱的なメキシコの夢が出現するのだ。それは滅ぼされた民族の<沈黙>でもある。この本は小説ではないけれど、学術研究書というわけでもない。どちらというわけでもないところがまた〈夢〉のようなエクリチュールを可能にしているのかもしれない。

 

メキシコ。このブログでもたびたび扱っているラテンアメリカ文学の作家が何人かいるけれど、ル・クレジオフアン・ルルフォに言及しているし、ラテンアメリカ文学でたびたび登場する「花の戦い」の思想的背景なんかも書かれていて興味深い。またカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』の第二部新世界で描かれていた「ケツァルコアトルの再来」に関する錯覚についても書かれている。

円環する時間、破局を基盤とする創造の思想、物事は非連続、混沌が真実の姿であるという思想についても詳しく書かれていた。少し長くなるが引用しておきたい。

 

破壊の神話と洪水の神話の異なるところは、メキシコの民の思考においては、破壊は歴然と世界の創造と結ばれていることである。神々はつくったものすべてを破壊すると約束した。この世の生命とは最初の混沌と最後の混沌のわずかな時にすぎない。この神話の意味は何よりもまず宗教的である。破壊を逃れるため、人間たちは祈り、血なまぐさい生贄を捧げなければならない。だが破壊の神話は他方、アメリカンインディアンの哲学に霊感を与える。ヨーロッパ・ルネサンスの理想主義者が着想し得たような調和と黄金時代に成立する世界という思想とは反対に、インディオの世界は(特にアステカ、プレペチャ、マヤ族は)創造を破局の連続、つまりは非連続、混沌と考えた。この概念はキリスト教の概念の全く対立している。

(前掲書、273頁より引用)

 

参考までに『テラ・ノストラ』第二部新世界より、円環の思想についての部分を少しだけ引用しておこう。

 

老人は頭を振り、たしかに矢のごとき生命が存在すると答えた。矢は射られて、飛んでゆき、落下する。わが友の生命はそうしたものであった。しかし円環のごとき生命も存在するのだ。終わったと思われても実際には新たに始まっている。再生可能な生命があるのだ。

(カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』第二部新世界、552頁より引用)

 

黄金というものに対する両文化(征服者と先住民)の価値観の違い、インディオの破滅に向かう暗い情念(そしてこういう思想がたぶん彼らの「戦い」の源泉になっているのではないか? と私は思ったのだけれど)が、ル・クレジオの文体で書かれる魅力的な一冊であった。

結局のところ、大西洋を隔てて、それぞれ干渉することなく発展してきた二つの文化圏があって、一方が他方を、わずかな時間のうちに消し去ってしまったという世界史上の悲劇がある。それは事実であるが、私はそもそもこの「二つの文化圏」が出会ってしまったということに注目したい。様々なレベルの「信仰」がたぶん世界を形作っていて、別のもの同士が遭遇してしまった時に、大きなインパクトが発生する。世界は平面であり、海の彼方は巨大な滝になって世界の涯に落ち込んでいる……こういうヨーロッパのキリスト教信仰による世界観が「新大陸の発見」を遅らせたという側面もあり得る。

この本の冒頭は征服者の(ベルナール・ディーアスの)純粋な驚きから書き出されている。その驚きの感情は「いかなる恐怖、いかなる憎悪とも無関係」のものだった。その驚きの視線で読者はこの本を読み始めることになる。征服者の驚きの視線と、この書物を読み進める興味を重ね合わせて書いてしまうところにル・クレジオの巧みさがある。「こうして、ベルナール・ディーアスの視線の中の夢が始まる。」(13頁)と、同時にこの本を読む者の読書体験は始まる。

世界史上の巨大なインパクト、全然ちがう二つのものが出会ってしまった時の驚きを、もう一度生き直すことさえ、ル・クレジオの文章は目論んでいるような気がしてしまう。

 

こうして二つの夢が出会い、一つの歴史が始まる。スペイン人にとっては黄金の夢、貪欲で、時には残酷の極にまで達する夢。まるで富や権力を所有することよりも、あらゆるものが永遠に新たになる黄金郷(エル・ドラド)神話の世界に到達するため、暴力と血の中で生れ変ることのほうが重要な、絶対的な夢。

一方、メシーカ族(アステカ族)にとっては、東の方、海のかなたから、新たに彼らを支配すべくケツァルコアトル(羽毛ある蛇)に導かれ、髭をはやした男たちがやってくるといういにしえから待ちわびられた夢。

二つの夢、二つの民族が出会った。

(前掲書、6頁-7頁より引用)

 

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