言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

日本語の時空間をめぐる旅―池澤夏樹=個人編集日本文学全集30『日本語のために』

かつてこの国では、文学全集という形式が流行った。そしてやがて廃れた。今、かつて出版された文学全集たちは、多くの町の図書館にある閉架書庫で埃をかぶって眠っている。時々その中の1冊、2冊がマニアックな読書家に発見されて借りられていくのだろう。1冊1冊が分厚く、時には細かい文字で二段組みになっている数十巻セットの文学全集。日本の名作を集めたものもあれば、世界の名作を集めたものも、一体どういう選択からそうなったのか、非常にマニアックな作品が収録されていることもある。かつてこの国には、多くの作品をまとめて残したいという思いがあったのかもしれない。

文学全集という形式が廃れた現在、しかしまだ新しく出版されている文学全集がある。それが今回紹介する「池澤夏樹=個人編集」の文学全集シリーズ(河出書房新社)だ。私はこのシリーズがとても好きで、ラインナップを見ているだけで実はけっこう楽しくなってしまう。池澤夏樹=個人編集の文学全集には「世界文学」を集めたものと「日本文学」を集めたものがある。日本文学全集のほうは今続々と新しい巻が出ている。作家である池澤夏樹の独自な視点で編まれた全集になっており、本当に面白い。

 

詳しくはこちらをどうぞ↓

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

 

 

今回はそのうちの1冊、『日本語のために』(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集30、河出書房新社、2016年)について書いていきたい。

 

  

この本はまるで「日本語の時空間をめぐる旅のような本」だった。

古代から現代まで、そして琉球アイヌの言葉、キリスト教、仏教の文体、さらに政治の言葉まで、時間も空間もかなり広くとられた1冊だ。読みながら多くのことを考えた。今、この時この場所で私が当たり前のようにブログの記事を書いているということ、ここに至るまでの驚くほど長い時間を日本語は生きてきた。時と場合に合わせて日本語を使ってきた人々は器用に言葉を変形させ、多くの外来語を取り込み、表現を広げてきた。言葉というものは、時々歪みを生じる。それまで使われてきた文脈から少しずれた所に置かれたりもする。歪みというより私にとってそれは「たわみ」に近い。そのことがプラスにはたらくこともあれば、マイナスにはたらくこともあるだろう。プラスにはたらけば、表現をより豊かにするだろうし、マイナスにはたらけば単なる誤魔化しの言葉になって人々を騙すことがあるかもしれない。不適切な訳語が人々を混乱させることもしばしばある。

 

日本語の表記も幾度となく変わっていった。変わるたびに失われた世界観があった。

たとえば現代を生きる私達は歴史的仮名遣いというものをほとんど知らない。「ゐ」や「ゑ」の感覚がわからない。この感覚は表記が改められた結果、日本語から失われてしまった世界観だ、と私は思う。今となっては旧くなってしまった文体について、その言葉の表記方法や言葉の背景にある時間(言葉に込められ歴史の中を生き延びてきた価値観)について検討することも大切なことだ。しかし失われたものがある一方で、これからも新しく生み出され表現されていく世界観もあるだろう

今私は純文学というものが「現代人の世界観を書き残すという責任を担う営み」だと考えている。それはとても重く、一朝一夕でできるものではないだろう。そして純文学に限らない。言葉と生活は密接につながっている、というか重なっている。言葉の営みはまさに生活の表現だ。私達が撰んできた言葉とそれによって作られてきた世界観、そしてこれから私達が作っていく世界観、そのどれもが小さな生活の只中ではじまる。

 

こういう言い方をするとだいたい変な顔をされるのだが、私は文字を単なる記号として捉えることがずっとできないでいる。それはきっと、文字に込められた多くの時間や生活を重ねてしまうからかもしれない。

 

ひとつだけ引用して、この記事を終わりにしたい。『日本語のために』の「はじめに――全体の方針」という所で書かれた池澤夏樹の言葉である。

 

先に我々は日本語によって文学を作ってきた、と書いた。それはそうなのだが、文学が日本語を作ったということもできる。誰かが考案した気の利いた言い回しは文学となって通用する範囲を広げ、時代を超える。そういうものの蓄積が日本語の表現を育ててきた。

 書かれた言葉は話し言葉よりも論理的であり、サイズの大きな思考や思想を構築できる。

 その一方で、文学にとっては声が大事だという思いもこの全集の編集作業の中から湧いてきた。言葉の基礎はやはり声であり、文字はその後にある。自分で文章を書いている時でも、また推敲している時は特に、頭の中で自分の声が聞えている。それもまた忘れてはならないことだし、だから時には自分と他人の区別なく文学作品を朗読することにも意味がある。

 そういうことのぜんたいをざっと見渡すための雑纂がこの一冊である。

(前掲書、10頁より引用)

 

以下自分のtwitterから読みながらつぶやいていたことをメモ程度に。

↓↓

池澤夏樹個人編集の日本文学全集、『日本語のために』を読んでいる。この編集の大胆さが面白い!文体にみる様々な時代の様々な価値観(宗教、方言など生活の言葉も含める)。かなり独特な1冊だと思います。今も昔も、言葉というものは生活の側面を映す鏡なのかもしれないと思いました。

 

【最後の晩餐→最後のお膳】、【「とって食べなさい。これは私のからだです。」→「取って食いなれ。これァ、俺ァ体(かばね)だ。」】 マタイによる福音書ケセン語(気仙地方の言葉)がすごく面白い。これは是非、音声で聴きたい。

 

日本人の言葉に対する感覚を、言葉によって改めて辿り直してみることは、とても意味のあることだと思う。明治大正の「国語改良」政策を巡る議論がかつてこの国、この言葉に巻き起こったということが生々しく伝わってくる論文を読んだ。言葉の表記に対しておれはあまりに無自覚だったかもしれない。

 

なんか深く考えさせられ心揺さぶられる有意義な読書だった。ちょっと元気出た。また1000枚くらい書いてみようと思った。おれは「伝統的」な歴史的仮名遣いを改めた今の日本語に不満はなくて、変えたことによって失われた感覚よりもこれから新しく生み出され表現されていくだろう世界観に興味がある

 

もちろん、現代の表記によって失われた世界観もたくさんある。今となっては旧い文体について、その言葉の表記方法だったり言葉の背景にある時間(歴史のなかを生き延びてきた価値観)について検討することもまた大切なことだと思う。

 

そこから我々が選んできた言葉と、それによって作られた世界観も大切にしたい。言葉の営みとは……いえ、非常に感動したので思わず呟いてしまいました汗。

 

『日本語のために』を読み終えた。稀有な読書体験になった。普段は絶対読まないような文章が集められていた。これから気になるところを再読して、ブログか読書メモにも残そうと思う。