言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

車窓を流れていく日々―プルースト『失われた時を求めて』第四篇「ソドムとゴモラ」

あっち、こっちで、みんなが手を振ってくれるのを眺めていた、過ぎていく色とりどりのものたちを目尻からすっと流してしまうように見送る別れはいつも未練がましく名残も惜しい。

列車の車窓から自分を見送ってくれる人々を眺めている風景。

鉄道を使った移動というものは、はじめは受動的なもので、車窓に浮かぶ風景をただ受け取るしかないのだけれど、その移動がいくらか続いたり繰り返されたりするうちに次第に能動的なものへと変わっていく。たとえば小さな停車駅のひとつでプラットホームに降りてみて、その駅舎やそこを行き交う人々、駅のある町と新しい関係を結ぶことや、反対に長く滞在しすぎた町や故郷に背を向けて、そこで結んだものを絶ち切って行ってしまうことも自由だ。

 

マルセル・プルースト著、鈴木道彦 訳

失われた時を求めて7 第四篇ソドムとゴモラⅠ』

失われた時を求めて8 第四編ソドムとゴモラⅡ』

集英社、1997年)

 

失われた時を求めて 7 第四篇 ソドムとゴモラ 1 (集英社文庫)
 

 

 

失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラ 2 (集英社文庫)

失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラ 2 (集英社文庫)

 

 

失われた時を求めて』第四篇「ソドムとゴモラ」は語り手「私」の二度目のバルベック滞在を描いている(と言っても物語のメインはヴェルデュラン夫妻の晩餐会が開かれるラ・ラスプリエール荘と「くねくね鉄道」とも呼ばれる軽便鉄道なのだが)。

かつて語り手は、祖母とふたりでバルベックのグランドホテルに滞在したことがあり(第二篇「花咲く乙女たちのかげに」)この地は亡き祖母との思い出の深い土地でもある。そうであるが故にホテルの部屋と部屋を仕切る壁――かつてそこを叩いて語り手は祖母に合図を送っていた――の向こう側に広がる沈黙と空白、祖母の不在が印象づけられる。祖母の埋葬から一年以上経ったこの時に語り手ははじめて祖母の死を理解するという経験をする(心の間歇)。

ちょっとした動作によって生々しく想起される過去、というのが『失われた時を求めて』にしばしば出て来る回想の手法である。祖母の死は語り手「私」が靴を脱ごうと手をかけた、というそれだけの動作がふいに深い悲しみをもたらすのである。

 

 さて「ソドムとゴモラ」はどちらも旧約聖書で神に滅ぼされた町の名前である。同性愛の隠語でもあり、ソドムは男性同士のゴモラは女性同士の恋愛をさす。シャルリュス男爵とジュピヤンの逢瀬を盗み見た語り手「私」はその愛の風景を、たまたまその中庭にやってきたマルハナバチと蘭の花という隠喩を用い、また花の受粉に性的なイメージを持たせて語る。

 

 冒頭の鉄道のこと。語り手はバルベックのホテルとヴェルデュラン夫妻のラ・ラスプリエール荘を軽便鉄道を使って移動するのであるが、その移動の中でやがて小さな停車駅さえもが社交生活のひとこまであったと悟る。停車駅に止まる度に人々の間で交わされる挨拶、育まれる友情、また途切れてしまう(あるいは単に中断する)関係など様々ある社交の風景が鉄道での移動と合わせて書かれている。「この軽便鉄道の鳴らす汽笛は、私たちをひとりの友人のそばから引き離すたびに、かならず別の友人を発見させてくれるのだ。」(8巻466頁)

 

暮らしの中で出会いまた別れていく多くのものがふと車窓に映ると、そういうものに満たされる思いがする。

 

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