言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

詩的現実を思い出す言葉―マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第五篇「囚われの女」

今回は『失われた時を求めて』第五篇「囚われの女」の感想を書いていきます。

 

マルセル・プルースト 著、鈴木道彦 訳

失われた時を求めて9 第五篇 囚われの女Ⅰ(ソドムとゴモラⅢ第一部』、

失われた時を求めて10 第五篇 囚われの女Ⅱ(ソドムとゴモラⅢ第一部』、

集英社、1999年

 

失われた時を求めて 9 第五篇 囚われの女 1 (集英社文庫)

失われた時を求めて 9 第五篇 囚われの女 1 (集英社文庫)

 

 

 

失われた時を求めて 10 第五篇 囚われの女 2 (集英社文庫)

失われた時を求めて 10 第五篇 囚われの女 2 (集英社文庫)

 

 

自らにとって印象深い出来事を思い出す時、そこにいる人はどんな格好をしているだろうか。

思い出そうとすれば、あなたはまるでその出来事を経験した時の季節や天候を思い出そうとするのと同じような思考の道筋を辿ることになるかもしれない。回想の人はその時に取り巻かれていた環境やそこから誘発された感情を、衣装として纏う。あなたにとって、そういう衣装を纏ったその人は場の雰囲気にぴったりであり、だからこそあるひとつの印象が強く刻まれるのかもしれない。その時、実際にその人が何を纏っていたかはさして重要ではないのかもしれない。ただあなたの記憶の中にしっくり収まっている姿があるだけなのだ。

 

たとえば語り手「私」は公爵夫人が「靄のようなグレーのクレープ・デシンのドレスにふんわりと包まれているのを見ると」、「パール・グレーの霧でぼんやりかすんだ午後の終わりのような雰囲気にひたる」のであり、「赤や黄の炎の模様がついたシナふうの部屋着」の時は「燃え上がる落日を眺めるように私はじっとそれを見つめた」という風に語る。ここで公爵夫人の衣装はまるでその日の天候や時間帯とリンクしたもので、語り手の言葉を借りれば衣装もまた一個の「詩的現実」なのである。

 もうひとつ、衣装について引いておくと「囚われの女」後半でアルベルチーヌが着ているフォルトゥニーの部屋着の描写が印象的だ。この衣装は語り手の目にヴェネツィアを彷彿とさせるものに映っており、部屋着につけられた様々な装飾を語るのに用いられる言葉の数々は異国を印象づける。布地の濃い青色が金色に変わって見えるのをゴンドラの前方に広がる大運河の色の変化と重ね合わせる語り手の視線は、当時ぜひとも行ってみたいと思っていたヴェネツィアという見知らぬ土地への憧憬さえにじませる。またフォルトゥニーの部屋着の描写で用いられる比喩がくるくると変わる面白さは、アルベルチーヌの性格のうつりかわり、一定不変ではない彼女の姿をよく表しているようにも思える。

 

 『失われた時を求めて』もいよいよ後半の第五篇「囚われの女」からは作者の死後刊行されたものとなる。これまで繰り返し語られてきた登場人物たちの立ち位置が大きく変化することになる(たとえばここでヴェルデュラン夫妻と仲違いしたシャルリュスが社交界での立場を失う)。ヴァントゥイユという不遇の音楽家の七重奏曲が初めて披露されるのもここである。彼の音楽に語り手が感じずにはいられない光、色彩、香、手触りといった濃厚な認識こそが時間さえ止めてしまうほどの感動を語り手に与えるのだ。その感動は紅茶とマドレーヌ、マルタンヴィルの鐘塔に対して語り手が抱いた感動と同質のものである。

 

 二度目のバルベック滞在を終えパリに戻ってきた語り手はアルベルチーヌとの同棲生活を始めるけれど、「囚われの女」となった彼女には以前ほどの魅力が感じられなくなってしまう。そのくせアルベルチーヌに纏わりついている同性愛の疑惑が濃くなれば、語り手「私」は大きな嫉妬を抱えなければならなくなる。バルベックで初めて出会った時から、海の印象が重ねられていたアルベルチーヌ。彼女を巡る語り手の嫉妬はこんなふうに表現されている。「かくて嫉妬は灯台の灯のように回り回る。」ちょうど海原をくるくる照らす灯台の灯のように語り手の嫉妬は海たるアルベルチーヌの上を探っていくけれど、その語り手の言葉はただ表面をなぞるに過ぎなかったのかもしれない。

 

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