言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

ふたつの方向に引き裂かれながら―プルースト『失われた時を求めて』第三篇「ゲルマントの方」

日記によると、私がこの大著『失われた時を求めて』を読み始めたのは4月24日、振り向けば早くも二カ月の時が流れていたらしい。驚いた。はっとした。

 

そう、まさにこれ、この感じこそが『失われた時を求めて』の感触なのだと思う。

 

読みながら、読んでいる時そのものまでもが愛おしくなり、過ぎ去ってしまうことを惜しみたくなるような読書経験だ。

ひとつの作品にこれほど時間を割くのは久しぶりの経験でこの先どうなっていくのか楽しみなような、怖いような。時を失いながら、『失われた時を求めて』を読み、読みながら迷走する日常はもう少しだけ続くのだと思う。

今回は第三篇「ゲルマントの方」を読んだ感想を書いていきたい。

 

マルセル・プルースト著、鈴木道彦 訳

失われた時を求めて5 第三篇ゲルマントの方Ⅰ』(集英社、1998年)

失われた時を求めて6 第三篇ゲルマントの方Ⅱ』(集英社、1998年)

 

失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方 1 (集英社文庫)

失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方 1 (集英社文庫)

 

 

 

失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方 2 (集英社文庫)

失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方 2 (集英社文庫)

 

 

※当ブログで扱ったものは単行本(ハードカバーのほう)で文庫本ではありません。引用ページ番号などは単行本に依っています。

 

 

コンブレ―で過した幼少期の、ふたつの散歩道を覚えているだろうか。

すなわち、「スワン家の方」と「ゲルマントの方」である。

語り手「私」の前にはいつも決して交わることのないふたつのベクトルが用意されていて、それはこの散歩道であったり、その時々一回限りの「現在」を生きる中で思考を伸ばしていく「過去」や「未来」というものであったり、また第三篇になって色濃く現われはじめた「死」や「生」というものもまた、交わることのない反対方向を志向するラインであると思う。自分を起点にして別々の方向へ伸びるベクトルに沿って、ひとは思いを辿り、思考を流し、認識する世界を広げるのかもしれない。

 

話をもとに戻して、第三篇「ゲルマントの方」では、タイトルが示す通りゲルマント一族いう貴族の生活の方へと語り手は進んでいく。まず、語り手一家がゲルマントの館に付属するアパルトマンに引っ越したところからはじまり、オペラ座での観劇、ゲルマント公爵夫人への憧れなどが語られる。語り手「私」はゲルマント公爵夫人に紹介してもらおうと友人のサン=ルー(彼はゲルマント一族)を訪ねてドンシエールの駐屯地に出向いたり、そこで友人の愛人(この愛人、実はかつて語り手が20フランで買った売春婦だった汗)に会ったり、ヴィルパリジ夫人のサロンでゲルマント公爵夫人やシャルリュス男爵に出会ったり……と、ゲルマント一族を中心とした華やかな社交界の描写が続く。この時代の貴族やブルジョワのサロンで話題になっていた出来事にドレーフュス事件というものがあり、この事件で反逆罪の容疑をかけられたユダヤ人大尉アルフレッド・ドレーフュスが無罪か有罪か、すなわちドレーフュス派か反ドレーフュス派か、という立場の表明(または保留)がひとつのステータスを作り出している。このあたりの事情は、第一次世界大戦前のフランスを覆っていたユダヤ人を取り巻く空気をよく描き出しているようだ(断定できないのは、私に世界史の知識がないからだ)。フランス社交界に上手く溶け込むことができたユダヤ人としてスワンが描かれ、逆に溶け込めず滑稽さを際立たせてしまっている人物としてブロック(語り手の友人)が登場する。貴族たちのいつ終わるともしれない長い長い会話の中に含まれる微妙なニュアンスが理解できればよりこの本を楽しめるだろう。

私はこの貴族たちの会話を、いくつかの大きな塊をやり過ごすように読み流してしまったようなところがあって少しもったいなかったかもしれないと思う。けれどもそういう読み方をしてしまったがために、次のような一文に出会ってぞっとするのである。

 

 

会話にとりまかれているときには、過ぎゆく時間を測ることも見ることも、もうできなくなるもので、時は消え去ってしまう。そして俊敏な時、姿を隠していた時が不意にまたあらわれて、ふたたび私たちの注意を惹くのは、さっき私たちの手をすりぬけていった地点からはるか遠くに来てしまったからだ。

(前掲書『失われた時を求めて6』、78-79頁より引用)

 

 

この社交界の会話について書かれた部分ではないけれど、なるほど、と思えてしまう。

確かに喧噪の中にいれば時の立つのも忘れてしまうし、長い長い会話を延々と読んでいたら(ある意味脳内では話声に取り囲まれているのである)100頁くらい読み進めてしまっていたりするのだ。時と頁は消え去ってしまった。

 

第三篇の後半(6巻)の多くは煌びやかで賑やかな社交界の様子が描かれるがそんな中、語り手の祖母の死や余命数か月しかないのだと語るスワンの登場を見落とすことはできないだろう。そもそも語り手一家が引っ越したのは祖母の病気療養のためでもあり、そう考えるとはじめから「ゲルマントの方」には病や死の影が存在していたのかもしれない。

 

以下は少し長いのだが、ゲルマント公爵夫人に夢中だった語り手「私」がゲルマント家の一員である友人のサン=ルーを訪ねてドンシエールで過していた時の出来事だ。「私」と祖母は電話で話をしていたのだけれど、その電話はやがて切れてしまう。まるで祖母の死を予告するかのような描写に切ない気持ちになる。

 

「お祖母さん、お祖母さん」と私は叫んだ。できれば彼女にキスをしたい。でも私のそばにはこの声しかないのだ。たぶん祖母の死後に私を訪ねてやってくるあの亡霊と同じように、手にふれることもできない幻影の声だ。「さあ、なにか言っておくれ」だがそのときに、その声は急に聞こえなくなって、いっそう私をひとりぼっちにしてしまう。祖母にはもう、こちらの声が聞こえていないのだ。通話は切れてしまった。私たちはもう、互いに相手の声を聞きながら、向きあっている存在ではなくなった。それでも私は闇のなかを手探りで、祖母の名を呼びつづけ、私を呼ぶ祖母の声もきっとどこかにさ迷っているにちがいない、と感じた。かつて遠い昔に、幼い子供だった私は、ある日、群衆のなかで祖母とはぐれたことがあったが、そのときと同じ不安に私はゆり動かされた。祖母が見つからない不安というよりは、祖母の方でも私を探しているだろうし、私が彼女を探していると考えているだろう、と感じる不安である。

(前掲書『失われた時を求めて5』、229頁より引用)

 

けれど「死」などという、「暗い」ものは「ゲルマントの才気」(特にゲルマント公爵夫人ことオリヤーヌの才気)によって意図的に明るい色で塗り込められ隠されようとしているように感じた。語り手がゲルマント公爵邸を訪ねた時、夫妻はある夜会に、それから仮装パーティーに出掛けようと準備をしているところだった。そこで交わされた会話に耳を澄ませていると(実際には活字を目で追っていると)、どうやらゲルマント公爵(バザン)のいとこであるアマニヤン・オスモン侯爵が死の床についているらしいと知れる。けれども仮装パーティーに出掛けたいバザンは何としてでもこの夜出掛けるまでは、いとこの容体は問題ないと思いたいのだ。なぜならもしも今亡くなれば、パーティーのたのしみが台無しになってしまうし、喪に服するのであればパーティーの後にしたいとバザンは考えているのだ。オスモン侯爵の死に背を向けてまで、煌びやかな社交界のほうを向いていたいゲルマント公爵。さらに出掛ける間際になってそこへ来訪していたスワンがゲルマント公爵夫人(オリヤーヌ)に、自分の余命がせいぜい残り数か月しかないことを語る場面があるのだが、それを聞いたオリヤーヌもまた一瞬の戸惑いのあとで死に背を向けるのである。

 

「何をおっしゃいますの」と公爵夫人は、場所の方に向かってゆくその歩みを一瞬のあいだ止めると、青いメランコリックな美しい目、ただし途方にくれたその目を上げて叫んだ。晩餐会に行くために馬車に乗るべきか、それとも死んでいくひとりの男に同情を示すべきか、生まれてはじめてこのように異なる二つの義務の板ばさみになった彼女は、礼儀作法の掟を探っても、従うべき判例を示すものを何ひとつ見出すことができなかった。そして、どちらの義務を選んだらよいか分からなかった彼女は、さしあたって努力の必要の少ない第一の選択肢に従うために、第二の選択肢などあってはならないことであると信じている振りをすべきだと思い、この葛藤を解決する最良の手段は葛藤の存在を否定することだと考えた。「ご冗談でしょう?」と彼女はスワンに言った。

(前掲書『失われた時を求めて6』、507-508頁より引用)

 

 

こんなふうに、「ゲルマントの方」には煌びやかな生を謳歌する方向(社交界)とその逆の、苦痛に満ちた死へと向かう方向(祖母の死、スワンやオスモン侯爵の死の予告)という二つのベクトルが存在する。このブログ記事のはじめのほうで書いたけれど、語り手「私」の前にはいつも決して交わることのないふたつのベクトルが用意されていて、そのうちのひと組が「生」と「死」なのだ。いや、語り手にとってだけではないのかもしれない。存在している者はすべて、数多の出来事を経験する中で、このふたつの方向に引き裂かれそうになりながら「現在」という点に己の座(存在する場所)を作り出しているのかもしれない。そうしてつくり出される「時」はいつも一回限りの、失ってしまえば二度と取り戻すことのできない風景であるのかもしれない。

 

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