はじめて、ポルトガルの小説を読んだ。これまでスペイン語圏の小説はずいぶんと楽しんできたけれど、どうしてなのか、ポルトガル語圏の小説にはなかなか縁がなかったのだ。実際読んでみると、やはり雰囲気が違うなぁというのが素朴な印象で、例えばリスボンやブラジル、ギニア(ギニアビサウ共和国)など、普段の読書ではあまり見かけたことのない固有名詞なんかが出て来るたびに「ああ、今ポルトガルの小説を読んでいるんだなぁ」とじんわり思った。
前置きが長くなってしまったけど、今回ご紹介する本はこちら。
ジョゼ・ルイス・ペイショット 著、木下眞穂 訳『ガルヴェイアスの犬』(新潮社、2018年)
- 作者: ジョゼ・ルイスペイショット,Jos´e Lu´is Peixoto,木下眞穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/07/31
- メディア: 単行本
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「何かを思い出せばまた別の何かが思い出され、連なる記憶が人々のあいだを渡って、いくつもの過去が重なり合い、広がって行く。〈中略〉何かを思い出すことはきっとそれだけで希望なのだ。」 (本の裏表紙掲載 / 滝口悠生さんの書評より引用)
この評を読んで、いつか必ず手に取ろうと思っていた本に、私はようやくありついたひとりの読者なのだった。
作者のジョゼ・ルイス・ペイショットは1974年生まれの現代ポルトガル文学を代表する作家のひとり。2000年に作家としてデビューし、長編第一作“Nenhum Olhar”(「無のまなざし」)で若手作家の登竜門とされるジョゼ・サラマーゴ文芸賞を獲得。長編第五作『ガルヴェイアスの犬』(原題“Galveias”)はポルトガル語圏のマン・ブッカ―賞を称される「オセアノス賞」(2016年度)を受賞している。「ガルヴェイアス」とは、ポルトガルのアレンテージョ地方の内陸部に実在する人口千人あまりの村であり、作者の故郷である(以上の情報は『ガルヴェイアスの犬』巻末の訳者あとがきより)。「複雑な親子関係、閉鎖的な田舎の村、そして死が、ほとんどの作品においてモチーフとなっている。」(前掲書283頁)
『ガルヴェイアスの犬』のあらすじを簡単に書いてみよう。
作品全体が「一九八四年一月」と「一九八四年九月」のふたつのパートから成っており、この年、ガルヴェイアスというポルトガルの小さな村に宇宙から謎の巨大物体が落ちてくるところから物語ははじまる。作中その巨大物体は「名のない物」と表現される。一月の真夜中に響き渡った爆音のために、寒さの中、目を覚ました人々、そして犬たちの混乱ぶり、七日七晩降り続いた豪雨。それから村中が硫黄くさくなり、パンがまずくなってしまった日常、やがて「村は名のない物のことは忘れてしまった。犬たちを除いては。」(20頁)
シコ・フランシスコのカフェと砕け散った窓ガラス、バイクに関しては右にでるものなしだったジョアン・パウロ、酒浸りのダニエル神父、ジュスティノ爺さんとセニョール・ジョゼ・コルダト、姪のマリア・ルイーザとその娘アナ・ラケルの手に渡った金のネックレス。村に赴任してきた女教師マリア・テレザに部屋を貸すマヌエル・カミロ、郵便配達ジョアキン・ジャネイロの隠されたもう一つの生活や代々「先生」であるマタ・フィゲイラ一家の悲喜こもごも、風俗店の女イザベラと思い出の中のファティマかあさん……。
傍から見れば何の変哲もなく流れ去った時間であっても、それを生きたひとにとっては唯一のかけがえのない「人生」の時間、出来事のひとつひとつは重大で、本当は何一つ素通りすることなんかできないものなのだ。そんな村人と犬たちの具体的なエピソードを取り上げて行って語ることで作者は「ガルヴェイアス」という土地を描いてみせる。個別のエピソードでありながらも、うっすらと互いにつながることもある出来事を線で結べばガルヴェイアスの輪郭が浮かび上がりそうだ。
村のどこかにいる犬が、そしてまたほかの犬が、また違う犬が、つぎつぎ、またつぎつぎと吠える声をたどればガルヴェイアスの地図が描けそうなほどであったが、それはまた日常がこのまま続いていくという確かな証でもあったので、眠りそこねた村人たちを安心させてもいた。
(前掲書、7-8頁より引用)
村人たちはだれひとり似てさえおらず、その行動は各人各様にてんでばらばら(その様が丁寧に描写されていてとても面白かった)。
誰もが、それぞれの一歩を踏み出した。完璧な同時性を持つ世界のようにみんなが一斉にというわけではない。決意を固めた瞬間はそれぞれ違い、それからそれぞれが一歩を出して通りの小石を踏み、そえからまた次の一歩を出し、左足を出し、右足を出し、必要な行動を順繰りに取ったのだ。どの足も大きさは違ったが、どの足も大事な足だった。そしてみんな、二歩、三歩、四歩、その次、それからその次、やがて何歩目だったか数えきれなくなった。
(前掲書、277頁-278頁より引用)
宇宙から「名のない物」が落ちてきた事件の夜に食べたものも違えば思考の程度も違うし、すっかり忘れていた「名のない物」のことを思い出してからとった行動も一斉に、ではなかった。けれど、どれも大事な足なのだ。
ばらばらの者たちがそれぞれの足で手で作り出す日常のガルヴェイアスは、まだ死ぬわけにはいかないのだと物語は幕を閉じる。このばらばらであることはまた、猥雑な暮らしの肯定であるようにも読めると思った。一見何もない村であっても、ひとりひとりの人生をつぶさに見れば何もないなんてことはなくて、そういう個を点として、その点と点を結んで行くことで土地の形を書く。どんなにいびつになっても、そこはだれかの故郷なのだ。
「名前」というものの性質についても考えてしまった。
何かを名づけるということは、その何かを固定することだ。まるでガルヴェイアスに縛り付けられたように人々はこの土地に生きねばならない(後半ガルヴェイアスを離れる人物も描かれるが、起点はいつもガルヴェイアスにある)。いや、生きねばというよりもむしろ「名前がある」ということ自体が生きているということではないだろうか?
この作品にはとにかく「名前」がたくさん出てくる。ガルヴェイアスという地名はもちろん、人物の名前や通りの名前、時には犬の名前も繰り返し表記される。それに対して、ある時宇宙から落ちてきたものは「名のない物」と呼ばれる。ガルヴェイアスに鎮座するこの「名のない物」は死の表象ではあるまいか。硫黄のにおいは聖書的に考えれば亡びのにおいだ。人々は誰しも死に対して、歩いて行くことしかできない。死んでいくしかないのは生き物の定めだ。けれども、それを知っていてなお決して悲観することなく、その道程は自分のタイミングで、自分の足によってつくられた唯一のもの、名づけられた「我が人生」なのだから、という強い「生の意志」が個々の悲惨なエピソードを乗り越えるからこそ、この本の読後感は暗くはないのかもしれない。
死に対して、死に対して、死に対して、人びとはあの道を歩いていた。
動きを止めたまま、宇宙はガルヴェイアスを見つめていた。
(前掲書、278頁より引用)
最後に誕生のエピソードがあるが、この赤ん坊はこれから名づけられる存在であり、「名のない物」と対置されることで生と死という二項の強烈なコントラストを生み出している。
誰にだって、運命の場所ってもんがあるのさ。誰の世界にも中心がある。あたしの場所はあんたのよりましだとか、そんなことは関係ないの。自分の場所ってのは、他人のそれと比べるようなものじゃない。自分だけの大事なもんだからね。どこにあるかなんて、自分にしかわからないの。みんなの目に見える物にはその形の上に見えない層がいくつも重なっているんだ。自分の場所をだれにかに説明しようったって無駄だよ、わかっちゃもらえないからね。言葉はその真実の重みには耐えられない。そこははるか遠い昔からの肥えた土地、死のない未来へと続く小川の源流なのさ。
(前掲書、199頁-200頁より引用)
記憶もまた場所だというのだから。
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