言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

演じるということ―「ドン・キホーテ」に含まれる素朴な芝居観について/セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想③

ドン・キホーテ』後篇についての記事がこれで3本目になる。今回は基本的なことだけれど、『ドン・キホーテ』という作品全体に含まれるごく素朴な芝居観について書いてみたい。引用頁などは岩波文庫版の『ドン・キホーテ』後篇に拠る。

セルバンテス作、牛島信明 訳『ドン・キホーテ』後篇(岩波文庫、2001年)

 

ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)

 

 

「舞台の上と同じことが、この世の実生活においても起こっているのじゃ。現実の世界でも、ある者は皇帝を演じ、またある者は教皇になっている。要するに、舞台に登場させることのできるあらゆる役柄、あらゆる人物が、この世で演じられているのよ。そして終末が来ると、つまり人の命が終ると、それまで各人を区別していた衣装が死によって剝ぎ取られ、人はみな墓のなかで平等になるのよ。」

(前掲書、12章191頁、ドン・キホーテの台詞より引用)

 

 

そしてこう語る人物が、こんなに冷静に語る人物自身が、遍歴の騎士を演じていることに気がついていないという……たぶんこういう所にドン・キホーテの狂気がひそんでいる。

ドン・キホーテは旅の途中、『死の宮廷』という聖体神秘劇の上演をしている一座に巡り会った。その出来事と、そこから派生したドン・キホーテ主従の会話の部分において、ドン・キホーテは自身の素朴な演劇観念を吐露している。一座が通りかかった時、ドン・キホーテは「大冒険の到来」と思ったのだが、しかしそれがそれぞれの役柄に扮装した役者たちであることに気がついた。どうやらドン・キホーテは幼いころから仮面劇が大好きで、若い頃には役者稼業にも憧れた(11章、180頁)らしい。だけれど、自分が今遍歴の騎士(愁い顔の騎士、後篇の途中からライオンの騎士、とふたつ名を改めている)を「演じて」おり、それを読者が滑稽に思いながら読んでいるということには気がついていない。

思えば、嘘に嘘を塗り固めていくような物語の構造を持つこの作品では、多くの登場人物たちが、ありのままの自分とは全く異なる自分を演じている。たとえば、前篇に登場したミコミコーナ姫は「演じている」という自覚を持ってミコミコン王国(架空)の姫を演じ、ドン・キホーテを騙しているし、後篇に出てくるドン・キホーテと一騎打ちをすることになる騎士≪鏡の騎士≫や≪銀月の騎士≫(実はどちらも同一人物で、ドン・キホーテの暮らしていた村に住む学士サンソン・カラスコである)も、ドン・キホーテを村に連れ帰るための策略として、恋患いの遍歴の騎士を演じて見せている。

この長い物語にとって、出来事が事実であるかどうか、は実はあんまり重要ではない。後篇ではそのことを積極的に描いており、例えばモンテシーノスの洞窟の冒険が夢なのか現実なのか、冒険をした当の本人にもはっきりしていない。この冒険についてドン・キホーテは「信じてもらいたい」というような言い方しかできなくなっている。「信じる」という行為は価値判断の保留だ。それが正しいか正しくないか、または現実の出来事なのか妄想の産物でしかないのかといった価値判断はいったんわきへよけておかれる。

 

「でも、役者の皇帝たちがかぶっている王冠や持っている笏などは」と、サンチョ・パンサが言い返した、「決して純金じゃねえ、真鍮やブリキの安ぴか物と相場が決まってますよ。」

「なるほどそのとおりじゃ」と、ドン・キホーテが応じた。「それというのも、舞台の衣装や道具が本物であるのは決して望ましいことではなく、むしろ芝居そのものがそうであるように、まがい物であり模造品であるべきだからな。」

(前掲書、12章190頁より引用)

 

その「まがい物」であるはずの芝居が現実をよく映す、という素朴な芝居観念をドン・キホーテは持っている。『ドン・キホーテ』はフィクションであり、そこに描かれるものはすべてが「まがい物」である。ドン・キホーテという登場人物の造形にいたっては、彼が生きる「現実」に「自らが読んだ騎士道小説の世界」というフィクション(まがい物)を再現しようとするところに成り立っている。騎士道小説の「模造品」とも言える主人公が、上に引用したようなことをさらりと口に出してしまうことによって騎士道小説そのものを批評してみせる(つまり騎士道小説がまがい物であり、模造品であると認めているようにも読めてしまう、と、同時にそのまがい物が現実世界をよく映すこともありうるということになる)。

ドン・キホーテ』の物語の結末は、ドン・キホーテのごく平凡な臨終だ。死によって衣装を剝ぎとられた役者、ドン・キホーテは、善良な郷士アロンソ・キハーノに戻って騎士道小説を罵りながら、劇の終幕を告げている。

 

ちなみに、ドン・キホーテを村へ連れ戻そうと≪銀月の騎士≫を演じ、一騎打ちでドン・キホーテを打ち破った学士サンソン・カラスコにむかってこんな言葉が向けられる。

 

「ああ、学士さん」と、ドン・アントニオが言った、「この世に二人といないあんなに愉快な狂人を正気に戻そうとして、あなたが世間の人びとにかけた損害を神様がお赦しになりますように! ドン・キホーテが正気になって世にもたらすであろう利益なんぞ、彼の狂気沙汰がわれわれに与える喜びに比べたら物の数ではないってことが、あなたにはお分かりにならないんですか?」

(前掲書、65章287頁)

 

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本を読むこと、本で読まれること―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想②

今回の更新は前回に引き続き、『ドン・キホーテ』後篇の感想を書いていく。前回の更新で今後書いていくことについて箇条書きにしておいたが、今回はひとつめ、「本」というものをめぐる諸々の話について書いていきたい。我々にとって「本」というものはごく当たり前の存在になっているのだが、よくよく考えるとこう、いろんな本を手に取っているというのは不思議なことであるように思う。

 

ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)

 

 

 

「そのうえ、このような勇ましくもキリスト教徒にふさわしい数多くの武勲のおかげで、ついに拙者は本に描かれ、すでに世界のほとんどすべての、あるいは大半の国々で印刷されて出まわるまでになりました。さよう、拙者の伝記がすでに三万部印刷され、天意がそれを妨げぬかぎり、これから千部の三万倍も増刷りされようとしておりまする。」

(『ドン・キホーテ』後篇16章、254頁、ドン・キホーテの台詞抜粋)

 

 

「本」というものをめぐる原作者と翻訳者、そして登場人物たちの意見と行動

ここでいう原作者と翻訳者について、基本的なことだけれど、一応はっきり書いておこう。原作者は前篇に引き続き、アラビアの歴史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ、翻訳者はセルバンテスである。(そこに日本語への翻訳者として牛島信明が加わるという広がりは考えてみるととても楽しい。)歴史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリがラ・マンチャ地方で資料を集めて、編纂した伝記が『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』つまり、「ドン・キホーテ」前篇である。それをセルバンテスが翻訳して読者に提示しているのだ、という設定で語られる物語なのだ。原作者が「歴史家」ということの意味は大きい。こうすることで、ドン・キホーテ(または郷士アロンソ・キハーノ)について語る時この人物は実在していたのだ、ということを強調することができるからだ。特に前篇はこの意味合いが大きかったが後篇になって多少崩れている。後篇世界において「ドン・キホーテ」前篇は出版され、広く読まれているのだという。おかげで、後篇世界ではいろいろな人が前篇に対して評価をくだす。そしてそれらの評価は書かれた歴史に対して、というよりも一つの小説作品に対しての批評になっている(どちらかというと、歴史家による云々という設定は後篇になると薄れ、前作や贋作の存在が際立つにつれ、『ドン・キホーテ』の小説性が際立ってくるように思われる)。

ひとつ、引用してみよう。ドン・キホーテの住む村にいる学士サンソン・カラスコの発言だ。

 

「あの物語の欠点のひとつと見なされているのは」と、学士が言った、「作者がそこに『愚かな物好きの話』と題する小説を挿入していることです。別にこれが駄作だからとか、書き方がまずいからというわけじゃない。そうではなく、それがまったく場違いで、ドン・キホーテ殿の物語となんのつながりもないからなんです。」

(前掲書、3章67頁より引用)

 

ここまで書いてしまうともう立派な「小説論」になっている。実はこの脱線作品である「愚かな物好きの話」に対して以前「ドン・キホーテ」前篇について感想を書いた時には積極的に意味づけをしてみた。しかし、どうやら発表された当時からこういった物語の脱線は歓迎されていなかったらしい。

少し離れているのだが、第44章冒頭で翻訳者によって原作者シデ・ハメーテ・ベネンヘーリの愚痴のようなものが紹介されるのだが、そこにはこの批評への弁解が綴られている。一部分だけ抜粋しておこう。

 

かくして原作者は、もともと宇宙全体でさえ扱うことのできる理性と才能に恵まれながらも、たえず物語という狭隘な枠内に身を置き、そこからはみ出ないように気をつけているのだから、そうした苦心をないがしろにしないでもらいたい、」

(前掲書310頁-311頁、44章、抜粋)

 

小説を書いていて、なんだか本文が散らかってくるな、と感じることがあるが、それについて作者が一々弁解している。「たえず頭と手とペンを、ただひとつのテーマについて書くことに、そして、ごくわずかな人物の口を介して話すことにさし向けてゆくというのはひどく耐えがたい仕事」(同じく44章より引用)とまで書いてしまう。

 

後篇の第三巻に掲載されている訳者解説も参考のために一応引いておく。

 

「『ドン・キホーテ』は小説のなかで行われた批評である」(アルベール・ティボーデ)とか、「あらゆる散文のフィクションは『ドン・キホーテ』のテーマのヴァリエーションである」(ライオネル・トリリング)といった認識は、いまやわれわれの共有するところであろう。そして、こうした認識との関連において言えるのは、『ドン・キホーテ』は自己省察の小説reflexive novelであることである。セルバンテスにあっては書くこと、つまり小説を作るという営為が絶えず反省され意識化されて、その過程が読者の前にさらけ出される。」

(後篇第三巻430頁、訳者解説より引用)

 

「読む」「読まれる」という関係や、それによって生じる新たなテクスト(贋作の存在や批評)、そしてそれらがまた読まれ、語られ、書かれるということ。「ドン・キホーテ」に含まれる小説を作るという営為は世紀を越えて、なんと我々の読書生活にまで忍び寄ってくる。現に私は今、『ドン・キホーテ』(後篇)を読んで感想を書いているのだから。

 

作中には「ドン・キホーテ」前篇を読んだ者と読んでいない者がいる。未だ前篇の物語を読んでいない者がドン・キホーテに出会った場合、そのリアクションは前篇でドン・キホーテに出会った人々と同じようなものになる(つまり、なんか奇妙な恰好をした変な奴がいるぞ!くらいの)。そういう人に加えて後篇ではすでに「ドン・キホーテ」を読んで知っている人々が登場し、公爵夫妻をはじめとした彼ら「ドン・キホーテ」前篇の愛読者たちは、ドン・キホーテを見て驚くよりもいかに彼を愚弄して面白い物語を演じさせるかを考える。

ここまで主に読まれた「ドン・キホーテ」について書いてみたが、物語も後半になるとドン・キホーテも読んでいる。彼が目を通したのは偽物の自分について書かれている物語、つまり「贋作ドン・キホーテ」である。(本編では「ドン・キホーテ続篇」という言葉があてられているが、ブログではわかりやすくするために敢えて贋作と書くことにする。)

彼は、人々が読んでいた「贋作ドン・キホーテ」を目にしたり、通りを歩いていてふと見かけた印刷所で『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(つまり贋作)の校正が行われているのを目撃することになる(この印刷所へドン・キホーテが行ったというのは面白いと思う。それまで本の印刷がどのようになされているのか知らなかったドン・キホーテがここではじめて本づくりの現場を目撃するのだから)。

 

「贋作ドン・キホーテ」によると偽物のドン・キホーテは前篇の最後に予告されていた通りサラゴサで開催された馬上槍試合に出場している。それに出るように仕向けたのは、偽物のドン・キホーテのごく親しい友人であるドン・アルバロ・タルフェという人物なのだが、なんと第72章において、ドン・キホーテはこの人物に出会ってしまう。

 

「それにしても奇遇ですね。だって、正直に申しあげますと、わたしはあのドン・キホーテをトレードのヌンシオ精神病院に治療のために入れてきたんですよ、それなのに今こんなところで、もうひとりのドン・キホーテがわたしの知り合いの男とはまったく異なるドン・キホーテがひょっこり目の前に現れるのに出くわすとは。」

(72章、381頁-382頁、ドン・アルバロ・タルフェの台詞)

 

ちなみに「贋作ドン・キホーテ」を知ったドン・キホーテは、その物語が偽物であることを証明するためにあえて予定を変更してサラゴサには行かず、バルセローナに向うことになる。

 

「そういうことなら」と、ドン・キホーテがひきとった、「拙者はサラゴサには一歩たりとも足を踏み入れぬことにいたそう。そうすれば、その新しい物語の作者の嘘を天下にさらし、彼の描くドン・キホーテが拙者ではないことを、余の人びとに知らしめることになるはずじゃ。」

(59章、181頁-182頁)

 

そもそもドン・キホーテは本(騎士道小説)を読んでいる存在だった、それがいつしか本(「ドン・キホーテ」前篇)で読まれる存在になり、その中で再び本(「贋作ドン・キホーテ」)を読んでいる。そしてその姿が再び本(「ドン・キホーテ」後篇)で読まれ、広く翻訳されているのだ。なんという広がりをもった「本」なのだろう、とこの構造の成立がただただ不思議でならない、というのが私の正直な感想である。

 

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著者が約束した後篇―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇の感想①

近代小説のはじまりと言われているセルバンテスの『ドン・キホーテ』を今年に入ってから読んでいたのだが、つい先日後篇を読み終えた。長いような気がしていた物語も、読み始めればあっという間に終わってしまった。今回からしばらくの間『ドン・キホーテ』後篇についての感想を更新していきたいと思う(前篇については、過去記事参照。関連記事としてこの記事の一番下にリンクを貼っておく)。

 

セルバンテス 著、牛島信明 訳『ドン・キホーテ』(後篇)、岩波文庫2001年

引用頁番号などは、すべて岩波文庫版に拠っている。

 

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

 

 

「ひょっとして」と、ドン・キホーテが言った、「著者は後篇を約束しておりますかな?」

「ええ、約束しています」と、サンソンが答えた。「しかし作者は、まだその続きが見つかっていないし、それを誰が持っているのかも分からないと言っているので、本当に後篇が日の目を見るのかどうか、いまだはっきりとは言えない状況です。かてて加えて、「後篇がよかったためしがない」と言う者がいるかと思えば、「ドン・キホーテの行状なら、これまでに書かれたもので十分だ」と言う者もいたりで、後篇の出版を疑問視する向きもあります。」

(『ドン・キホーテ』後篇、4章、79頁より引用)

 

まず一番衝撃的なのは、『ドン・キホーテ』後篇の世界では、すでに前篇が広く出版され人々に読まれている!という設定になっていることだ。登場人物の中には『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(前篇)を愛読している者さえいるのだ。そういう人にとっては、向こうからやってくる痩せ馬に乗った時代錯誤の騎士は、本で読んだ「あの」人物だ、とわかってしまう。なんだかすっかり有名人になった≪愁い顔の騎士≫ドン・キホーテ。こんな設定になっているからこそ、上に引用した通り「後篇」の出版についてあれこれ意見を述べる人物もいるのだ(ちなみに上に引用した文章に出てくるサンソン・カラスコという人物はドン・キホーテと同じ村に住んでいる学士で前篇を読んだことのある人物である)。

いつの時代も同じようなことが言われるらしい。現代日本においてもなんとなくわかる感覚がスペインの小説(それも17世紀)に書かれている。その感覚とは「根拠はよくわからないが、小説でもドラマでもアニメでも、ヒット作の続編はつまらない」というもの。巷でよく聞くうわさ話のネタである(『ドン・キホーテ』後篇に関して言えば、前篇とは違った意味で面白い、と私は思う)。

 

作者であるスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』前篇が出版されたのが1605年、それから十年後の1615年に後篇が出版された。『ドン・キホーテ』前篇がそれ以前に刊行されていた騎士道小説を下敷きにしているのと同じように、後篇は前篇の物語を下敷きにしている。さらに複雑なことに、前篇と後篇の間には『ドン・キホーテ 続篇』という贋作が存在している。アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダなる人物によって書かれたこの贋作は実際に出版されているわけだが、セルバンテスは後篇を書くにあたり、贋作の存在までも取り込んでしまった。つまり、『ドン・キホーテ』後篇の作中世界では、前篇だけでなく、続篇(贋作)までもが出版されて人々に読まれている!ドン・キホーテが自らについて記述された物語の存在を耳にするし、贋作ドン・キホーテを手にとる場面もある。前篇の記述の矛盾をサンチョが印刷のミスだ、などと弁解する場面もある。

前篇も後篇も作者はアラビア人の歴史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリという設定になっており、セルバンテスはそのテキストを翻訳したのだ、という語りの特徴を持っている。ある行為が記述され、翻訳され、出版されるという流れを一作の中に書き込んだ『ドン・キホーテ』のメタフィクション構造は現代人が読んでも十分楽しめると思う。

後篇は、ドン・キホーテの三度目の遍歴が描かれている。もちろん、従者のサンチョ・パンサも一緒であるが、前篇とは旅の印象がかなり違う。前篇ではドン・キホーテの狂気に物語の原動力があったのに対して、後篇ではドン・キホーテ自身に物語を押し進める力はないのだ。彼によって、というよりは彼の周りにいる人々によってドン・キホーテは欺かれ、嘘に嘘を塗り固められて遍歴の旅を続ける(これがちょっと悲しいところかもしれない。自らの冒険を信じ切れない≪愁い顔の騎士≫はどこか不安そうに見える)。

 

今回の更新はざっくりこんな感じの感想にとどめておいて、次回から以下のことについてもう少し詳しく書いておきたいと思う。

 

①「本」というものをめぐる原作者と翻訳者、そして登場人物たちの意見と行動

→後篇世界の人物たちの中には『ドン・キホーテ』前篇や続篇(贋作)を読んでいる人物が登場する。前篇を読んだ人と読んでいない人では、ドン・キホーテその人を見た時のリアクションが全然違っている。贋作に登場する人物とドン・キホーテが後篇世界で出会ったりもする。それだけではなく、後篇は前篇に書かれた物語の矛盾を指摘してみせたり、小説論のようなものを展開するなど、メタフィクションの要素が強い。「原作者」や「翻訳者」が作品のいたるところに顔を出す。また、ドン・キホーテが印刷所を見学する場面もあり、それについても少し紹介したいと思う。

 

②演じるということ―ドン・キホーテに含まれる素朴な芝居観念について

→嘘に嘘を塗りこんでいく過程で、多くの登場人物たちが自分ではない何者かを演じる場面が多くある。そもそもアロンソ・キハーノというラ・マンチャ地方のある村の郷士が遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを演じている。

 

③名づける、ということで作り上げられる世界の枠組み

→遍歴の騎士は前篇において自らの名前をつけ、想い姫の名をつけ、愛馬の名をつけた。そこから「冒険」がはじまるのだが、後篇においても新たな冒険を示唆するような名づけが行われている(しかし、それは実現する前にドン・キホーテは臨終を迎えてしまう)。

 

④魔法のしくみ、その性質

→あらゆる出来事を「魔法」のせいにしていく『ドン・キホーテ』であるが、前篇と後篇では描かれる魔法の性質が違っている。上述したように、後篇にはドン・キホーテ自身に物語を押し進める力はないのだが、それは魔法の源泉が彼にはないからである。終始、周囲によって作り上げられた「魔法」の中をドン・キホーテは進まなければならなかった。なお、ドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアを醜い村娘の姿にするという「魔法」を使ったのはサンチョであり、彼が後篇の物語で一番はじめにドン・キホーテを欺いている。

 

 

以上、今後数回に分けてざっくりこんなことを今後書いていきたいと思う。

 

おお、令名赫赫たる作者よ! おお、幸運なドン・キホーテよ! おお、その名も高きドゥルシネーアよ! おお、機知に富んだ愛嬌者のサンチョ・パンサよ! そなたたちが一人ひとり、また皆いっしょになって、この世に生を受ける者たち共通の慰めとも喜びともなるために、無限の世紀を生きながらえますように!

(前掲書40章、247頁-248頁)

 

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ムーミンがいる、ということ―トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』

今回でムーミンシリーズの原作小説についての感想は終わりにしようと思う。最後はシリーズ最終巻である『ムーミン谷の十一月』(1970年)を取り上げたい。今月はひとりで黙々とムーミンシリーズの小説を読んでいたが、本当に出会えてよかったと思う。とても満足しているし、9巻もあったはずなのにあっという間に全部読んでしまった。

 

 トーベ・ヤンソン 著、鈴木徹郎 訳『ムーミン谷の十一月』

 

「ぼくはね、ムーミンたちを、よく見てみたことがないんだ。あいつらは、ほら、いるにはいてもさ……」

ヘムレンさんは、なにか、うまいことばを見つけようとしました。口ごもりながら、あとをつづけました。

「つまりさ、なにかさ、いつだって、ちゃんといるにはいるんだけど、ってみたいなものさ。わかるかなあ、ぼくのいうこと……ほら、木みたいなものさ。どう……? でなければ、なにか……」

トーベ・ヤンソン著、鈴木徹郎 訳『ムーミン谷の十一月』第6章魔法の水晶玉より引用)

 

ムーミンシリーズを読んでいるうちに、読者の中にはたぶんそれぞれに「ムーミン」のイメージが形成されているのだと思う。そしてきっとこのシリーズを好きになってしまった人には自分だけの「理想のムーミン像」みたいなものがあると思う。それは決して悪い事ではないのだけれど、シリーズ最終巻で作者は読者を突き放す。

ムーミン谷の十一月、例年通りであればムーミン一家は松葉をたくさん食べて蓄え、ムーミンハウスで冬眠している頃だろう。『ムーミン谷の冬』や別の短篇作品で時々冬眠していたけれど目を覚ましてしまったムーミンが描かれてはいるが、ムーミンハウスに誰もいないなんていうことはなかった。あの家にはいつも誰かがいた。

しかし、この作品にはムーミン一家は登場しない。これよりひとつ前に発表された『ムーミンパパ海へ行く』において、ムーミン一家は灯台のある島へ旅立ってしまっていたのだ。秋の深まる寂しい谷にぽつんと、誰もいないムーミンハウスが残されている。

そんなムーミン谷に、いろいろな登場人物が訪ねてくる。主な登場人物は、スナフキン、フィリフヨンカ、ホムサ・トフト、ヘムレンさん、ミムラ姉さん、スクルッタおじさんだ。彼らはそれぞれに「理想のムーミン像」のようなものを抱えていて、そのイメージへの憧れを胸にムーミン谷へ集まってくる。しかし、ムーミン一家は留守で、がらんどうになったムーミンハウスが鍵もかけずに残されているだけだった。

当たり前に描かれているだろうと思った存在が描かれていない。この強烈な「不在」の印象に読者は登場人物と共に面食らうことになる。あのたのしいムーミン一家はどこへ行ってしまったのだろうと。

そんな中ではじめは他人同士でしかなかった登場人物たちは、ムーミンたちに関する話題を媒介にして関わり合いつつも(時に衝突もする)、ムーミンたちの存在を抜きにした新しい関係性を築き上げるというのが物語のだいたいのあらすじである。はじめのほうで引用したヘムレンさんの台詞はムーミンという存在をよく表している。自分の抱く理想を抜きにしてムーミンを語ろうとすれば、きっとあんなふうにつっかえつっかえしてしまうのだ。「いるような……いないような……」そういうあやふやな存在として読者はムーミンを再認識するのかもしれない。

 

エピソードとして面白いのは、お話を作るのが大好きなホムサ・トフトが、ムーミンハウスの中で見つけた分厚い本を読みながら(意味はよくわかっていない)「ちびちび虫」のことを知っていくというところ。彼が読んでいる本の内容が時々作中に出て来るのだが、ちょっとだけ引用しておこう。

 

この原生動物類の、めずらしいかわり種のことはいくら考えても、かんぜんに知りつくすことはできない。この虫がほかに例を見ない進化のしかたをした理由についても、もちろん、事実にもとづいての判断はできないものの、からだに電気をおびていたことが、このように、最後まで生きのこる条件となったのであろう、と推定することはできる。

(前掲書、第8章 電気を食べる、ちびちび虫 より引用)

 

こういう記述から、ホムサ・トフトはお話として「ちびちび虫」を作り出す(読者は電気やかみなり、という語からニョロニョロを連想するかもしれないが、この作品にニョロニョロは登場しない)。そしてやがて頭の中にあったイメージが外へとび出てきたような描写があって、一個の「動物」がムーミン谷に出現したように見える。はじめは小さく弱々しかった「ちびちび虫」はかみなりが鳴るたびにどんどん大きくなっていく。だけれどそんなことを知っているのはホムサだけ。やがてホムサでさえもこわくなってしまうほど、動物は大きくなっていく。

 

いま、そいつはとても大きくなったし、おこっているし、おまけに、大きくなったり、おこったりすることに、すこしもなれていないのです。

(前掲書、18章シーツの上を「冒険号」は走る より引用)

 

ふだんはおとなしいホムサ・トフトが怒って食卓をめちゃくちゃにしてしまう場面を思い出す。ホムサはちいさな存在として描かれているため、上に引用した文はまるでホムサ・トフトのことを言っているようにも読める。彼は自分がいきなり腹をたてて食卓をめちゃくちゃにしてしまったことに戸惑いを感じていたのだ。ホムサ・トフトとちびちび虫を二重写しにして読む事もできるだろう。空想が何かを存在させ、その何かが自分の中にあった別の自分を映している、というように。

ミムラ姉さんの台詞にこういうのがある。

 

「空想して、ねこがいるわ、と思えばいいのよ。そしたら、もう、あんたにも、ほんとにねこがいるのよ」

(前掲書、第17章 大パーティーの準備 より引用)

 

自分の内面にいる、自分が知らなかった自分に戸惑いを隠せないホムサ・トフト。彼は空想で「ちびちび虫」を存在させてしまったのだが、彼の中から出てきたこの存在は大きくなるにつれ、彼自身が受け入れがたいと思っている自分の一部分になっていくように思える。

 

「あんまり、おおげさに考えすぎないようにしろよ。なんでも、大きくしすぎちゃ、だめだぜ」

(前掲書 第15章ちびちび虫、うなる よりスナフキンの台詞引用)

 

 

ここまで考えてきてふと、私は自分の中の「理想のムーミン像」を思ってみる。

可愛いムーミングッズやイラストは見ていてとても楽しくなるし、時々さみしくなったりいじわるだったりする物語中のエピソードがどれもこれも懐かしく思える。

私の中に根付いているムーミンたちは「いる」と思えば「いる」のだろう。しかし、おそらくこのイメージと完全に重なるイメージは他者の中にはないはずだ。ということは、本当にムーミンたちは「いる」と言えるのだろうか? あなたの中にはたぶん、私とは違った「ムーミン」が「いる」のではないだろうか? 強烈な「不在」の印象で読者を突き放した後で、こんな「可能性」を残したこの作品はムーミンシリーズの小説の中でもっとも味わい深いものであった。

 

最後に印象に残った文章をひとつ。

 

一日じゅう、雪はひっきりなしにふりしきりました。ますます寒くなりました。まっ白になった地面、旅に出ていって、いなくなった人たち、見ちがえるようにきれいになった家――そんなもののために、その日は、なにもかも、うごかなくなったみたいで、もの思いにしずみたくなるような日でした。

(前掲書、第19章スクルッタおじさんはねむるのだ より引用)

 

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Twitterに投稿したはじめて読んだ時の感想↓↓

人が死んでしまった後に残された日常生活の痕がとても残酷に見えることがある。残された物が普通の、なんのことはない当たり前のものであればあるほど、深く冷たく胸に突き刺さってきて思い出をえぐってくる。そんな感覚に言葉を与えてくれる『ムーミン谷の十一月』、不在について心に深く沁みる。

 

誰も死んではいないけどね(作品の中で)。というか、そういう思い(不在の感覚)の端緒となりうる出来事が何も描かれてはいなくて、作品全体が非常に淡々としている。

ままならないことを、ままならないままに―トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ海へ行く』

「だけど、それじゃ海は生きものにちがいないな。海は考えることができる。したいほうだいのことをする……。あいつを理解することは不可能だ……。もし森が海をおそれるのなら、それは海が生きているということになる。そうじゃないか」

「じゃあ、わしは理解する必要がないぞ! 海ってやつは、すこしたちがわるいよ」

(『ムーミンパパ海へ行く』第7章南西風 より引用、ムーミンパパの台詞)

 

日常生活には、ままならないことどもがあふれている。そのままならなさは地震や台風といった自然災害に翻弄されることだけではなく、本当に日常のささやかなところにさえ、どうしようもないことがたくさんある。たとえば別に会いたくもない人に毎日会わないといけなかったり、好きでやっているわけでもない家事だってたくさんあるし、そういう日常の労働には終わりがない。ここまで終わったら「完成」ということがない。作り上げた生活をは、どんなにつまらないルーティンワークになってしまっても維持していかなければならない。そしてそのためには実に多くの事柄に手間と時間を割かなければならない。こればっかりはどうしようもない、やるしかないのだ。

ムーミンパパ海へ行く』というムーミンシリーズ8巻目(1965年発表)の小説を読んでいるとそういうことを考えてしまう。と、同時にその「ままならなさ」の中で成長したり、新しい興味を見出したり、そんなことの繰り返しで人生は過ぎていくのだなと思う。

 

 

 

さて、この小説について少し詳しく感想を書いていこうと思う。

全8章からなるこの作品の舞台は、なんとお馴染みのムーミン谷ではない。タイトルの通りムーミンパパは一家(ミイは養女ということになっている)を引き連れて冒険号に乗って海に出る。そして辿り着いた灯台のある島であたらしい生活をはじめようと奮闘する、というのがおおまかなあらすじだ。パパが海へ出た動機はかわりばえのしない日常からの脱却なのだと思う。あたらしく生活をやりなおしたい、そうすればきっと刺激のある日常を生きられるに違いない。住み慣れて、すっかり日常生活が形作られたムーミン谷にはない生活を求めてムーミンたちは海へ出た。つまり、作品の大半は「いつもと違うムーミンたち」が描かれている。その姿はどこか作り物めいていて、怖さすら感じてしまう。第一章「水晶玉の中の家族」に、ムーミンたちの家の庭にある水晶玉の描写がある。ムーミンパパがのぞきこむ水晶玉にうつる世界はこんな感じだ。

 

水晶玉はいつでもひえびえとしていました。その青は海の青さよりももっと深く澄んでいましたし、全世界の色をかえて、冷たく遠くふしぎにしました。このガラスの世界の中心に、ムーミンパパは自分と、大きな鼻を見、そのまわりに姿をかえた夢のようなけしきがうつっているのを見ました。青い地面は、玉の深い深い内側にうつっていました。そしてムーミンパパは、自分のいくことのできないそんな奥に、家族のものがいやしないかとさがしはじめるのでしたが、いつでもすこし待っていると、家族のものは出てくるのでした。いつでもみんなは、この水晶玉の中にうつってくるのです。

 

水晶玉にうつると、みんなの姿はとほうもなく小さく見えましたし、みんなの動作も、とてもあわれっぽく、たよりなく見えましたっけ。

ムーミンパパはそれがすきだったのです。これを見るのが、ムーミンパパの夕がたの遊びだったのです。それお見ると、家族のみんなが、ムーミンパパだけの知っている深い海の底にいて、自分はみんなをまもってやる必要があるのだと、ムーミンパパは感じるのでした。

(前掲書、第一章「水晶玉の中の家族」より引用)

 

ムーミンパパのエゴとそれによって歪められた家族の風景がひえびえとした水晶玉にうつっている。こんなシーンがあるからなのか、私ははじめ読みながらこの後に続く展開をすべて「ムーミンパパの想像」だと思っていた。ムーミンパパは灯台の模型を作っていたりもするので、その模型を見ながらあれこれと想像しているのかと。でもどうやらムーミンたちは本当に「灯台のある島」に移住していた。

ちなみにムーミンの家にはムーミン谷の地図があり、それに「灯台のある島」が描かれている。それを見たミイは海の真ん中あたりにある小さな点として表現されるその島を「はえのふん」と表現している。パパのエゴやプライドをこう言って揶揄しているだろう。

移り住んだ島の灯台は、パパが作りかけのままにしてしまった模型にそっくり。灯台は明かりがつかなくなってしまっていた。さらに灯台の下には鳥の白骨死体がいくつもあるし、島自体は岩だらけでヒースの生える荒涼とした場所だった。灯台に住むことにした一家はそれぞれにあたらしい興味を見つけて自分の作業に没頭し、時々家族のことさえ忘れてしまう。「いつもと違う」ことに没頭していくムーミンたちの姿はパパだけでなく、それぞれのエゴが浮き上がっている。しかしそんな中、唯一「いつもと同じ」なのがミイの態度だ。

島には漁師がいるのだが、ミイはたいてい漁師のあとを追いまわしている。しかしこれといって話をすることもない。

 

おたがいにただ相手をそういう人間だとみとめて、好意をもちながら、しかもおたがいに無関係という関係だったのです。おたがいに相手を理解しようとか、相手に印象をきざみつけようとか、めんどうなことを考えなかったのですが、それも一つの生きかたですよね。

(前掲書、第四章「北東の風」より引用

 

これを冷たいと思うか、気楽でいいと思うかは人によってそれぞれなのだろうけれど、ミイのこういうべったりしていない態度に魅力を感じる人はきっと多いと思う。というのはブログ記事のはじめにかいたように私達は「ままならない日常」を生きなければならなくて、そのためにはある程度、自分と物事の間にちょうどいい距離感を見出さなければならないからだ。ミイは別の巻で自分自身は笑うか怒るかしかないというようなことを言っているのだが、この思い切りの良い「割り切り方」に共感する人が多いのだと思う。

 

島での生活をするうちに家族の成員それぞれが自分の興味関心に没頭してしまうので、少し家族間に距離が生まれてくるように見える。そんな中でムーミントロールは自分と物事(他者)の間にちょうど良い距離感を見出し成長していくのだ。

たとえば、モランというキャラクターが登場するが、この「おばさん」が座った地面は凍りつき、あんまり長く座っていると植物さえ育たなくなるという。モランはカンテラの明かりに誘われて島へやってくる(別の巻でも明るいものに惹かれてしばしばムーミン谷に訪れていた)。誰もがそう言いようにムーミントロールもこの「おばさん」とは関わり合いになりたくはなかった。だけれどカンテラの明かりをつけて浜辺にいると(実はうみうまを待っていたのだけれど)モランがやって来てしまう。そうしてモランはカンテラの明かりをみると喜びうたい、踊る。ムーミントロールはモランとは関わり合いになりたくない、だけれど黙って捨て置くのも気が引ける。「気が引ける」というのは捉え方によってはムーミントロール中心の考え方で彼もまたエゴイズムに陥っている。このことはムーミンパパが海を理解したいと思っているのと似ている。結局のところ、ムーミンパパは冒頭に引用した通り、海を理解する必要なんかなくて、「ままならない」ことを「ままならない」ままに好きでいるということを悟るし、ムーミントロールもモランとの間にちょうどいい距離を見出す。

「モラン」のことや「うみうま」のこと、「空き地」のことは第7章でママに打ち明けるまで、ムーミントロールの秘密だった。家族にさえ言えない秘密を抱えてままならない現実を相手に自分ひとりで世界との距離を作り上げる、いつもと違った生活の中でムーミントロールがささやかな成長を遂げる物語でもある。

 

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天井からながめるべきだよ―トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』

「わしは、よく思うんだがね。たまには、じぶんの家を、下のゆかからじゃなく、天井からながめるべきだよ」

ムーミン谷の夏まつり』より引用、ムーミンパパの台詞

 

今回は『ムーミン谷の夏まつり』についての感想を書いていく。この作品は、物語が面白いのは言うまでもなく、作品の構造もなかなか凝っていて、単に児童文学というカテゴリーに括るのはもったいないように思う(というか、そういうカテゴリー分けは人に説明する時便宜上使うけれど、あまり意味のあることだとは思わない。なんであれ、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらないのだ)。

 

 

冒頭に引用したムーミンパパの台詞は「視点」についてよく表現していると思う。つまり日常をどこから見るのか?ということ。パパがこう言った時ムーミン谷は大洪水に見舞われていて、全く日常とは違った光景に包まれていたのだけれど(なにせ火山の噴火→津波による大洪水によってムーミン谷が水没し、ムーミン屋敷の一階部分も完全に水中になってしまっているのだ)、それでもムーミンたちは日常生活を送ろうとしている。家屋の二階に避難したパパは二階の床の一部(つまり一階から見れば天井)に、手まわしドリルとのこぎりを使って穴をあける。そこからみんなで水底のだんろや流し台やくず入れを眺める。

いつもと違う視点で日常を眺める、こういった営みに非日常の面白さが立ち現われる。

水没した台所の様子を読むと、この場面より少し前の池の場面を思い出す。ムーミントロールが池の底に沈めてあるママの金のうで輪や、スノークのおじょうさんのくるぶしかざりを見ている場面、この時点ですでに水の底に沈む日常を見るという視点が用意されているのに気がついてはっとした。

このようないつもと違う視点によって非日常の面白さを立ち上げるのは、「舞台」や「劇場」というものにも当てはまるように私は思う。なんでもそうだけれど表現することには「視点の操作」が不可欠だ。操作するのは作者である。

私はこの作品が「劇場」というものに収斂していく様子を面白く読んだ。「劇場」という場そのものや、「劇場」のもつ意味に登場人物たちが見事に引き寄せられて物語はフィナーレを迎えるのである。

大洪水によって水位はどんどん上昇し、いよいよムーミン屋敷が完全に水に浸かってしまう。そこで第三章「ばけものやしきに住みつく」という物語が続く。家の屋根までよじ登って避難しているムーミンたちの視界に、何やら大きなものが流されてくるのが見えた。それが「ばけものやしき」だ。ムーミンたちはこの「ばけものやしき」を新しい家として移り住むのだが、この家にはへんてこなものがたくさんあった。

 

そのへやは、まっくらで、くもの巣だらけです。たしかに、洪水が、かべをもぎとってしまったのにちがいありません。ぽっかりと大口をひらいたあなの両側に赤いビロードのカーテンがかかっていましたが、それがみじめに、水の中へたれさがっていました。

(『ムーミン谷の夏まつり』より引用)

 

「ばけものやしき」を探索していってムーミンたちが見つけたものは、「木でできたりんご」「せっこう細工のジャムの瓶」だったり「紙の造花」や「ひらけない本」などなど、おおよそ日常生活に役立たない意味不明なものばかり。天井にはいっぱい絵があって、それは上へつりあげたり、下へつりおろしたりできるし、しまいには床がメリーゴーラウンドに乗っかっているみたいに回り出す。

 

「これからは、うんと気をつけることにしよう。この家は、なにがおこるかわからない、おそろしいばけものやしきなんだ」

(前掲書より、ムーミンパパの台詞引用)

 

ミムラねえさんが見つけたドアの標札に「レクビシータ」という言葉が書かれているのだけど、この意味がすぐにわかればこの「ばけものやしき」の正体にもっと早く気がつけたはず……(もちろん、ムーミンたちにはわかりませんでした、そして読者である私にもわかりませんでした。おかげでしばらくの間、ムーミンたちと「ばけものやしき」の化け物感に変な気持ちになりました、でもパッと見、人の名前にしか見えないよね、レクビシータ)。

 

ここまでこのブログを読んできた人にはわかってしまっていると思うけれど、この「ばけものやしき」実は劇場の舞台だった。それが判明してから読者はちょっとほっとできるのだけれど、「劇場」というものも「お芝居」というものも「舞台」というものも全くしらなかったムーミンたちの困惑はしばらくの間続く(ちなみにレクビシータというのは後のほうで書かれているのだけれど「小道具部屋」のこと)。

 

「劇場って、なんですの?」

(前掲書より、ムーミンママの台詞引用)

 

大洪水によって「劇場」というものへ物理的に接近したムーミンたちは、物語の後半で「劇場」の意味へと接近することになる。もちろん、彼らがお芝居をする場面もある(脚本は物書きさんであるムーミンパパが書いた)。このお芝居の題名が「ライオンの花よめたち――血のつながり」。劇場から遠ざかってしまったムーミントロールスノークのおじょうさん、ミイ、それからムーミン谷に例年通りやってきたスナフキンが、劇の本番に舞台の前に集い来る様は本当に面白かった。劇そのものは観客たちには何をやっているのかよくわからなかったようだが、ムーミントロールスノークのおじょうさんがボートに乗って上演中の舞台に戻って来たあたりから芝居(?)が面白くなっていく。もう脚本なんてそっちのけ、ムーミンたちは舞台の上で再会を喜び、コーヒーをいれようとするなど、日常を生きようとする(客席から舞台にあがってしまう面々も描かれている)。

そこで観客たちは「これは、洪水に流されて、いろんなおそろしいめにあったすえ、やっとじぶんの家を、もう一度、見つける人の話だった」(本文より引用)と芝居の内容を理解する。なんとも微笑ましい。お芝居の後にもドタバタは少し続くのだが、最後は水の引いたムーミン谷のムーミン屋敷にみんなが無事に帰りました、というハッピーエンド。無事に「舞台」という非日常から「ムーミン谷」という日常へ帰ってきましたとさ、めでたし。

 

 

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 メモ程度に。

第1章でスノークのおじょうさんが、ムーミントロールに向って「わたしがすごくきれいで、あんたがわたしをさらってしまうというあそびをしない?」(本文より引用)なんて言っている場面があるのが、「ごっこ遊び」というのはお芝居のはじめの一歩のような気がしてくる。それからスナフキンがいつもと違って全くクールではなく、公園の立札をすべて引っこ抜いてしまったというエピソードが読めるのもこの小説だ。スナフキンの妙な習性(?)は父親譲りであり、そんな父親のお話は『ムーミンパパの思い出』で語られている。

魔法をめぐる物語―トーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』

今回はムーミンシリーズの原作小説のひとつ、『たのしいムーミン一家』の感想を書いていこうと思う。過去記事にも書いたが、私はアプリゲームからムーミンの世界観を知り、原作が気になって読み始めたという経緯がある。そういう視点で読んでみると、この『たのしいムーミン一家』が最もアプリの世界観に近い作品だと感じた。所々にゲーム内で見かけた要素がちらほら……(おそらくこの作品をベースにアプリゲームの世界観は作られたのではないかな?と思う)。

 

トーベ・ヤンソン 著、山室静 訳『たのしいムーミン一家』

 

『たのしいムーミン一家』という作品は「魔法」というものを巡る物語である。「魔法」について印象に残るエピソードが多く、ファンタジー色が強い。まさに「たのしい」のだが、時々いじわるな気持ちや綺麗じゃない感情も描かれている。

物語のはじまりは、春になってムーミンが目覚めるところから(ムーミンは11月~4月頃は冬眠するらしい)。遊び仲間であるムーミントロールスナフキン、スニフの三人は山のてっぺんで「まっ黒いシルクハット」を見つける。このシルクハット、実は魔法のシルクハットで、その中に入ったものの姿をすっかり変えてしまうのだ。いろいろなものがシルクハットによって変身させられる。卵の殻はふわふわの雲になり、川の水は木いちごのジュースになるし、家がジャングルになるし、じゃこうねずみさんの入れ歯は……(おそろしい何かになった模様ごにょごにょ)。

中でもちょっとだけぞくっとするエピソードは、ムーミントロールの姿が変わってしまったお話。このエピソードをきっかけにムーミンたちは、どうやら「まっ黒いシルクハット」が魔法の帽子らしいことに気がつく。

雨の降っていたある日、ムーミントロールと遊び仲間たちは家の中でかくれんぼをすることになった。どこへ隠れようかと考えているうちに、ムーミントロールは例のシルクハットの下に隠れることに決めた。なかなか鬼に見つからずにいる間に帽子にすっぽりと包まれたムーミントロールの姿は「太っていた部分はみんなやせてしまい、やせていた部分は、のこらず太りました」という変身を遂げてしまう。しかも、遊び仲間の誰もがその姿をみてもムーミントロールだとわかってくれない……! 変身した姿をみせたムーミントロールに対して、スニフは「おまえなんか知らないよ」と言うし、スノークは「あいつは、だれだい」なんて言ってしまう。この時点で自分の姿が変わってしまっていることに気がついていなかったムーミントロールは、誰もが自分のことを「知らない」と言うことについて「新しい遊び」だと思う。それで「ぼくは、カリフォルニアの王さまなんだ!」なんて言ってみるけど、その嘘はそのままみんなに信じられてしまう……。自分とは一体何なのか、そんな疑問がふっとよぎる怖いエピソードだ。

結局きちんと元の姿に戻ることができたのだけど、その後、この「まっ黒いシルクハット」はちょっと危険だぞ? ということで「ほらあな」に隠されたり、ムーミン家の「かがみの下にあるたんすのひきだし」に保管されることになる。うっかりシルクハットの中に何かが入ってしまったら大変なことになってしまうから。

ある時スナフキンが「ルビーの王さま」を探しているという「飛行おに」の話をすることになるのだが、この「飛行おに」という存在はどんな姿にでも変身でき、いつでも黒いひょうに乗って空を飛び回っているらしい。今は「ルビーの王さま」を探すために月に言っているのだが、2、3ヶ月前に黒いシルクハットを失くしてしまったという。

最後はこの「飛行おに」がムーミン一家主催のパーティーに現れて「魔法」を使ってたくさんの願いをかなえてくれるハッピーエンドだ(この部分の賑やかな描写とそれぞれのキャラクターの願いが楽しい)。

自在に「変身」できるキャラクターが、あらゆるものを「変身」させてしまう「魔法」の帽子からはじまる物語の終りに引き寄せられ、「魔法」を使って願い事を叶えてくれる。一見、単なるムーミン一家とその仲間たちによるドタバタを描いた作品に見えるが、実は「魔法」という要素を主軸にして物語が構成されているのだ。

 

スナフキンが旅立つシーンはやはり印象的なので、そのあたりを少しだけ引用しておきたい。

 

「ぼくたち、この春にもこんなふうにして、ここにこしかけたねえ。きみ、おぼえてる?――長い冬のねむりからさめた、いちばんさいしょの日じゃなかった? ほかのものたちは、まだみんなねむってたっけ」

 こうムーミントロールがいうと、スナフキンもうなずきました――せっせと、あしの葉でささ舟をこしらえては、川に流してやりながら。

「あの舟たちは、どこへいくんだろうね」

 と、ムーミントロールはききました。

「ぼくのまだ、いったことのない国さ」

 と、スナフキンは答えました。そのあいだにも、小さな舟は、一そう、また一そうと、川の曲がりかどをくるっとまわって、見えなくなっていきました。

トーベ・ヤンソン 著、山室静 訳『たのしいムーミン一家』より引用)

 

こうしてスナフキンは旅だって行く。ささ舟の流れによって強調された空間の広がり、その広がりの中へと旅立つスナフキンの遠ざかるハーモニカの音色……。なんて味わい深いんだろう。このキャラクターが愛されている理由がほんの少しわかった気がする。

 

他にもスナフキンの名言として有名なものをいくつか。

「うん、計画はもってるさ。だけど、それは一人だけでやる、さびしいことなんだよ。わかるだろ」

「春のいちばんはじめの日には、ここへかえってきて、またきみの窓の下で口ぶえをふくよ。―― 一年なんか、たちまちすぎるさ」

(前掲書より引用)

 

この作品にはスナフキンの他にも有名なキャラクターがたくさん登場する。ざっくり書きだしてみよう(ムーミントロールとその両親であるムーミンパパ、ムーミンママも勿論登場する)。

 

スニフ、スナフキン、植物研究をしているヘムレン、スノークスノークのお嬢さん、じゃこうねずみ、トフスランとビフスラン、モラン、ニョロニョロ

 

なんだか、アプリゲームでお馴染みのキャラクターが出そろう感じのする原作小説だ。もしゲームの世界観が気に入ってムーミンシリーズにもっと触れようと思ったら、『たのしいムーミン一家』から読めばいいのかもしれない。

 

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あ、そうそう。じゃこうねずみさんの愛読書『すべてがむだであることについて』がちょっとした事故(?)によって、『すべてが役に立つことについて』に変身するなど、くすっとできるエピソードも満載だった。