Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

天井からながめるべきだよ―トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』

「わしは、よく思うんだがね。たまには、じぶんの家を、下のゆかからじゃなく、天井からながめるべきだよ」

ムーミン谷の夏まつり』より引用、ムーミンパパの台詞

 

今回は『ムーミン谷の夏まつり』についての感想を書いていく。この作品は、物語が面白いのは言うまでもなく、作品の構造もなかなか凝っていて、単に児童文学というカテゴリーに括るのはもったいないように思う(というか、そういうカテゴリー分けは人に説明する時便宜上使うけれど、あまり意味のあることだとは思わない。なんであれ、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらないのだ)。

 

 

冒頭に引用したムーミンパパの台詞は「視点」についてよく表現していると思う。つまり日常をどこから見るのか?ということ。パパがこう言った時ムーミン谷は大洪水に見舞われていて、全く日常とは違った光景に包まれていたのだけれど(なにせ火山の噴火→津波による大洪水によってムーミン谷が水没し、ムーミン屋敷の一階部分も完全に水中になってしまっているのだ)、それでもムーミンたちは日常生活を送ろうとしている。家屋の二階に避難したパパは二階の床の一部(つまり一階から見れば天井)に、手まわしドリルとのこぎりを使って穴をあける。そこからみんなで水底のだんろや流し台やくず入れを眺める。

いつもと違う視点で日常を眺める、こういった営みに非日常の面白さが立ち現われる。

水没した台所の様子を読むと、この場面より少し前の池の場面を思い出す。ムーミントロールが池の底に沈めてあるママの金のうで輪や、スノークのおじょうさんのくるぶしかざりを見ている場面、この時点ですでに水の底に沈む日常を見るという視点が用意されているのに気がついてはっとした。

このようないつもと違う視点によって非日常の面白さを立ち上げるのは、「舞台」や「劇場」というものにも当てはまるように私は思う。なんでもそうだけれど表現することには「視点の操作」が不可欠だ。操作するのは作者である。

私はこの作品が「劇場」というものに収斂していく様子を面白く読んだ。「劇場」という場そのものや、「劇場」のもつ意味に登場人物たちが見事に引き寄せられて物語はフィナーレを迎えるのである。

大洪水によって水位はどんどん上昇し、いよいよムーミン屋敷が完全に水に浸かってしまう。そこで第三章「ばけものやしきに住みつく」という物語が続く。家の屋根までよじ登って避難しているムーミンたちの視界に、何やら大きなものが流されてくるのが見えた。それが「ばけものやしき」だ。ムーミンたちはこの「ばけものやしき」を新しい家として移り住むのだが、この家にはへんてこなものがたくさんあった。

 

そのへやは、まっくらで、くもの巣だらけです。たしかに、洪水が、かべをもぎとってしまったのにちがいありません。ぽっかりと大口をひらいたあなの両側に赤いビロードのカーテンがかかっていましたが、それがみじめに、水の中へたれさがっていました。

(『ムーミン谷の夏まつり』より引用)

 

「ばけものやしき」を探索していってムーミンたちが見つけたものは、「木でできたりんご」「せっこう細工のジャムの瓶」だったり「紙の造花」や「ひらけない本」などなど、おおよそ日常生活に役立たない意味不明なものばかり。天井にはいっぱい絵があって、それは上へつりあげたり、下へつりおろしたりできるし、しまいには床がメリーゴーラウンドに乗っかっているみたいに回り出す。

 

「これからは、うんと気をつけることにしよう。この家は、なにがおこるかわからない、おそろしいばけものやしきなんだ」

(前掲書より、ムーミンパパの台詞引用)

 

ミムラねえさんが見つけたドアの標札に「レクビシータ」という言葉が書かれているのだけど、この意味がすぐにわかればこの「ばけものやしき」の正体にもっと早く気がつけたはず……(もちろん、ムーミンたちにはわかりませんでした、そして読者である私にもわかりませんでした。おかげでしばらくの間、ムーミンたちと「ばけものやしき」の化け物感に変な気持ちになりました、でもパッと見、人の名前にしか見えないよね、レクビシータ)。

 

ここまでこのブログを読んできた人にはわかってしまっていると思うけれど、この「ばけものやしき」実は劇場の舞台だった。それが判明してから読者はちょっとほっとできるのだけれど、「劇場」というものも「お芝居」というものも「舞台」というものも全くしらなかったムーミンたちの困惑はしばらくの間続く(ちなみにレクビシータというのは後のほうで書かれているのだけれど「小道具部屋」のこと)。

 

「劇場って、なんですの?」

(前掲書より、ムーミンママの台詞引用)

 

大洪水によって「劇場」というものへ物理的に接近したムーミンたちは、物語の後半で「劇場」の意味へと接近することになる。もちろん、彼らがお芝居をする場面もある(脚本は物書きさんであるムーミンパパが書いた)。このお芝居の題名が「ライオンの花よめたち――血のつながり」。劇場から遠ざかってしまったムーミントロールスノークのおじょうさん、ミイ、それからムーミン谷に例年通りやってきたスナフキンが、劇の本番に舞台の前に集い来る様は本当に面白かった。劇そのものは観客たちには何をやっているのかよくわからなかったようだが、ムーミントロールスノークのおじょうさんがボートに乗って上演中の舞台に戻って来たあたりから芝居(?)が面白くなっていく。もう脚本なんてそっちのけ、ムーミンたちは舞台の上で再会を喜び、コーヒーをいれようとするなど、日常を生きようとする(客席から舞台にあがってしまう面々も描かれている)。

そこで観客たちは「これは、洪水に流されて、いろんなおそろしいめにあったすえ、やっとじぶんの家を、もう一度、見つける人の話だった」(本文より引用)と芝居の内容を理解する。なんとも微笑ましい。お芝居の後にもドタバタは少し続くのだが、最後は水の引いたムーミン谷のムーミン屋敷にみんなが無事に帰りました、というハッピーエンド。無事に「舞台」という非日常から「ムーミン谷」という日常へ帰ってきましたとさ、めでたし。

 

 

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 メモ程度に。

第1章でスノークのおじょうさんが、ムーミントロールに向って「わたしがすごくきれいで、あんたがわたしをさらってしまうというあそびをしない?」(本文より引用)なんて言っている場面があるのが、「ごっこ遊び」というのはお芝居のはじめの一歩のような気がしてくる。それからスナフキンがいつもと違って全くクールではなく、公園の立札をすべて引っこ抜いてしまったというエピソードが読めるのもこの小説だ。スナフキンの妙な習性(?)は父親譲りであり、そんな父親のお話は『ムーミンパパの思い出』で語られている。