言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

ムーミンがいる、ということ―トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』

今回でムーミンシリーズの原作小説についての感想は終わりにしようと思う。最後はシリーズ最終巻である『ムーミン谷の十一月』(1970年)を取り上げたい。今月はひとりで黙々とムーミンシリーズの小説を読んでいたが、本当に出会えてよかったと思う。とても満足しているし、9巻もあったはずなのにあっという間に全部読んでしまった。

 

 トーベ・ヤンソン 著、鈴木徹郎 訳『ムーミン谷の十一月』

 

「ぼくはね、ムーミンたちを、よく見てみたことがないんだ。あいつらは、ほら、いるにはいてもさ……」

ヘムレンさんは、なにか、うまいことばを見つけようとしました。口ごもりながら、あとをつづけました。

「つまりさ、なにかさ、いつだって、ちゃんといるにはいるんだけど、ってみたいなものさ。わかるかなあ、ぼくのいうこと……ほら、木みたいなものさ。どう……? でなければ、なにか……」

トーベ・ヤンソン著、鈴木徹郎 訳『ムーミン谷の十一月』第6章魔法の水晶玉より引用)

 

ムーミンシリーズを読んでいるうちに、読者の中にはたぶんそれぞれに「ムーミン」のイメージが形成されているのだと思う。そしてきっとこのシリーズを好きになってしまった人には自分だけの「理想のムーミン像」みたいなものがあると思う。それは決して悪い事ではないのだけれど、シリーズ最終巻で作者は読者を突き放す。

ムーミン谷の十一月、例年通りであればムーミン一家は松葉をたくさん食べて蓄え、ムーミンハウスで冬眠している頃だろう。『ムーミン谷の冬』や別の短篇作品で時々冬眠していたけれど目を覚ましてしまったムーミンが描かれてはいるが、ムーミンハウスに誰もいないなんていうことはなかった。あの家にはいつも誰かがいた。

しかし、この作品にはムーミン一家は登場しない。これよりひとつ前に発表された『ムーミンパパ海へ行く』において、ムーミン一家は灯台のある島へ旅立ってしまっていたのだ。秋の深まる寂しい谷にぽつんと、誰もいないムーミンハウスが残されている。

そんなムーミン谷に、いろいろな登場人物が訪ねてくる。主な登場人物は、スナフキン、フィリフヨンカ、ホムサ・トフト、ヘムレンさん、ミムラ姉さん、スクルッタおじさんだ。彼らはそれぞれに「理想のムーミン像」のようなものを抱えていて、そのイメージへの憧れを胸にムーミン谷へ集まってくる。しかし、ムーミン一家は留守で、がらんどうになったムーミンハウスが鍵もかけずに残されているだけだった。

当たり前に描かれているだろうと思った存在が描かれていない。この強烈な「不在」の印象に読者は登場人物と共に面食らうことになる。あのたのしいムーミン一家はどこへ行ってしまったのだろうと。

そんな中ではじめは他人同士でしかなかった登場人物たちは、ムーミンたちに関する話題を媒介にして関わり合いつつも(時に衝突もする)、ムーミンたちの存在を抜きにした新しい関係性を築き上げるというのが物語のだいたいのあらすじである。はじめのほうで引用したヘムレンさんの台詞はムーミンという存在をよく表している。自分の抱く理想を抜きにしてムーミンを語ろうとすれば、きっとあんなふうにつっかえつっかえしてしまうのだ。「いるような……いないような……」そういうあやふやな存在として読者はムーミンを再認識するのかもしれない。

 

エピソードとして面白いのは、お話を作るのが大好きなホムサ・トフトが、ムーミンハウスの中で見つけた分厚い本を読みながら(意味はよくわかっていない)「ちびちび虫」のことを知っていくというところ。彼が読んでいる本の内容が時々作中に出て来るのだが、ちょっとだけ引用しておこう。

 

この原生動物類の、めずらしいかわり種のことはいくら考えても、かんぜんに知りつくすことはできない。この虫がほかに例を見ない進化のしかたをした理由についても、もちろん、事実にもとづいての判断はできないものの、からだに電気をおびていたことが、このように、最後まで生きのこる条件となったのであろう、と推定することはできる。

(前掲書、第8章 電気を食べる、ちびちび虫 より引用)

 

こういう記述から、ホムサ・トフトはお話として「ちびちび虫」を作り出す(読者は電気やかみなり、という語からニョロニョロを連想するかもしれないが、この作品にニョロニョロは登場しない)。そしてやがて頭の中にあったイメージが外へとび出てきたような描写があって、一個の「動物」がムーミン谷に出現したように見える。はじめは小さく弱々しかった「ちびちび虫」はかみなりが鳴るたびにどんどん大きくなっていく。だけれどそんなことを知っているのはホムサだけ。やがてホムサでさえもこわくなってしまうほど、動物は大きくなっていく。

 

いま、そいつはとても大きくなったし、おこっているし、おまけに、大きくなったり、おこったりすることに、すこしもなれていないのです。

(前掲書、18章シーツの上を「冒険号」は走る より引用)

 

ふだんはおとなしいホムサ・トフトが怒って食卓をめちゃくちゃにしてしまう場面を思い出す。ホムサはちいさな存在として描かれているため、上に引用した文はまるでホムサ・トフトのことを言っているようにも読める。彼は自分がいきなり腹をたてて食卓をめちゃくちゃにしてしまったことに戸惑いを感じていたのだ。ホムサ・トフトとちびちび虫を二重写しにして読む事もできるだろう。空想が何かを存在させ、その何かが自分の中にあった別の自分を映している、というように。

ミムラ姉さんの台詞にこういうのがある。

 

「空想して、ねこがいるわ、と思えばいいのよ。そしたら、もう、あんたにも、ほんとにねこがいるのよ」

(前掲書、第17章 大パーティーの準備 より引用)

 

自分の内面にいる、自分が知らなかった自分に戸惑いを隠せないホムサ・トフト。彼は空想で「ちびちび虫」を存在させてしまったのだが、彼の中から出てきたこの存在は大きくなるにつれ、彼自身が受け入れがたいと思っている自分の一部分になっていくように思える。

 

「あんまり、おおげさに考えすぎないようにしろよ。なんでも、大きくしすぎちゃ、だめだぜ」

(前掲書 第15章ちびちび虫、うなる よりスナフキンの台詞引用)

 

 

ここまで考えてきてふと、私は自分の中の「理想のムーミン像」を思ってみる。

可愛いムーミングッズやイラストは見ていてとても楽しくなるし、時々さみしくなったりいじわるだったりする物語中のエピソードがどれもこれも懐かしく思える。

私の中に根付いているムーミンたちは「いる」と思えば「いる」のだろう。しかし、おそらくこのイメージと完全に重なるイメージは他者の中にはないはずだ。ということは、本当にムーミンたちは「いる」と言えるのだろうか? あなたの中にはたぶん、私とは違った「ムーミン」が「いる」のではないだろうか? 強烈な「不在」の印象で読者を突き放した後で、こんな「可能性」を残したこの作品はムーミンシリーズの小説の中でもっとも味わい深いものであった。

 

最後に印象に残った文章をひとつ。

 

一日じゅう、雪はひっきりなしにふりしきりました。ますます寒くなりました。まっ白になった地面、旅に出ていって、いなくなった人たち、見ちがえるようにきれいになった家――そんなもののために、その日は、なにもかも、うごかなくなったみたいで、もの思いにしずみたくなるような日でした。

(前掲書、第19章スクルッタおじさんはねむるのだ より引用)

 

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人が死んでしまった後に残された日常生活の痕がとても残酷に見えることがある。残された物が普通の、なんのことはない当たり前のものであればあるほど、深く冷たく胸に突き刺さってきて思い出をえぐってくる。そんな感覚に言葉を与えてくれる『ムーミン谷の十一月』、不在について心に深く沁みる。

 

誰も死んではいないけどね(作品の中で)。というか、そういう思い(不在の感覚)の端緒となりうる出来事が何も描かれてはいなくて、作品全体が非常に淡々としている。