Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

読書とは生活の中断である―セルバンテス『ドン・キホーテ』

おひまな読者よ。

 

さてさてお待たせしました!(え、なになに? 待ってないって言った? そんなの聞えなぁい!)今回の記事からしばらくの間、セルバンテスの『ドン・キホーテ』について書いていこうと思う。今回私が読んだものは岩波文庫版のこちら↓↓

セルバンテス作、牛島信明訳『ドン・キホーテ』(岩波文庫、2001)

今回扱う「前篇」は岩波文庫の1~3巻にあたる。

 

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

 

 

一体自分がどこで聞いたものやら、ゆえんははっきり思い出せないが「ドン・キホーテ」という作品は「世界で最も悲しい物語」らしい。もうちょっとはっきりさせたかったので調べてみたところ、こういう作品の印象は19世紀ロマン主義による解釈らしく、最も有名な評はドフトエフスキーが『作家の日記』の中に書いたもの。ここに「最も悲しい」と書かれたことがどうやら私の中で漠然とした『ドン・キホーテ』のイメージになっていたようだ(19世紀ロシアの影響力が怖い)。

でも自分で実際に読んでみないと作品については何もわからないままだ、と思い今回ひとり寂しく『ドン・キホーテ』を読んでみたのだが……読み始めていきなりびっくり。全然「悲しい」雰囲気になりそうもない。あれ?おかしいな、ということでさらに読み進めると終始笑いっ放しだったのだ(ドフトエフスキーの嘘つき!!)。

実はこのブログの冒頭においた言葉「おひまな読者よ。」という言葉は『ドン・キホーテ』の序文冒頭だ。とにかく「騎士道小説」や読者をおちょくる(からかう)ような作品なので、ブログの冒頭でイラッときた人には不向きな作品と言えるかもしれない。なんだか「狐につままれたような感覚」、「変な感じ」が好きな人はとても気に入ると思う。

 

17世紀に成立した作品で、「最初の近代小説」とまで呼ばれ、文学史的にも重要な意味を持つ作品であるから、敢えて書く必要もなさそうだけど念のためにあらすじを簡単に書いておこう。

正確には『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャというこの作品は前篇と後篇が存在する。前篇は全部で4部からなっている(ちなみに前篇と後篇の間には贋作の存在があり、後篇はこの贋作をも踏まえて書かれている)。

その名は思い出せないが、ラ・マンチャ地方のある村に住んでいた郷士、キハーナが愛読していた騎士道小説にすっかりはまってしまい、日常生活そっちのけで、自ら遍歴の騎士「ドン・キホーテ」を名乗って騎士になりきり旅に出る、という話。彼の冒険(?)は始終「騎士道小説」の設定に依拠していて、そのせいで風車を巨人(敵)だと思いこんで攻撃をしかけてみたり、羊だか山羊だかの群を戦の軍勢だと思い込み、加勢のつもりで突撃したりと波乱万丈。挙句「宿屋」を「城」だと思い込み、そこでも様々な「物語」が語られる。実際、ドン・キホーテはほぼ何もしていない。寝ているだけのこともある。が、それが「冒険」になってしまうのである。従者のサンチョ・パンサとの機知に富んだ会話や、愛馬ロシナンテにうち跨っての遍歴、ドン・キホーテが思い姫ドゥルシネーア・デル・トボーソへ向ける嘆きの溜め息の数々……。そんな「冒険」を読者に楽しませるセルバンテスの語りはすごい。

 

参考までに風車の話の挿絵をちらっと。こういう挿絵がちょこちょこ入ってます。

やれやれ、なんてこった!

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私はドン・キホーテにはちょっとした二次創作への欲望を感じる。というのも、こういう描写があるのだ。ドン・キホーテ郷士)による騎士道小説の感想が述べられている部分だ。

 

それにもかかわらず郷士は、その物語の作者が果てしなく続く冒険の続きを約束して本をしめくくっている点を大いに称賛していた。そして彼は、実際にみずからペンを執り、その本が約束しているような続篇を書いて物語を完結させたいという気持ちに何度もかられた。

(前掲書、前篇(一)第1章45頁より引用)

 

しかし、ドン・キホーテは実際にペンを執りはしなかった。かわりに家の中に眠っていた古い甲冑を引っ張り出し、可能な限り磨き上げて自らそれを身に纏い、遍歴の騎士になりきる、つまりコスプレをすることになるのだ。彼は前半、大好きな騎士道小説の騎士たちと自らを同化させようと努力する。そしてその果てに「ドン・キホーテ」という彼に固有の≪愁い顔の騎士≫という異名をもった騎士像を作り上げてしまう。たとえそれが妄想の産物であっても、一瞬一瞬が全力で≪愁い顔の騎士≫であるドン・キホーテを読者は素直に笑って受け止めてもよいのではないだろうか? そしてちょっと生活を中断してみるのもたまにはよいのではないだろうか(ドン・キホーテにならない程度に笑)?

(ちなみに先に引用した部分にある「冒険の続きを約束して本をしめくくっている」というのは『ドン・キホーテ』前篇の終わり方でもある)。

 

豪胆きわまりない騎士、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを世に送り出した時代は、なんと幸福な喜ばしい時代であったことか。すでに衰退し、ほとんど死滅していた遍歴の騎士道を蘇生させ、この世に再建しようという、実に殊勝な決意を彼が抱いたおかげで、今日われわれは、心をなごませるような楽しみの少ないこの時代に、ドン・キホーテの伝記の得もいわれぬ面白さのみならず、その伝記のなかに収められた数々の短い物語や挿話をも楽しむことができるからである。

(前掲書、前篇(二)、第四部28章181頁より引用)

 

今回の更新はざっくりこんなところにしておいて、次回以降はこんなことを書いてみようと思っている(と続きを匂わせてブログをしめくくって……ごにょごにょ)。

 

語りの特徴(面白さ)にフォーカス

たとえばこの作品の大きな特徴である二重の語り手のこと、セルバンテスとアラビアの歴史家の話。「小説内小説」の挿入や登場人物のおしゃべり(長い長い語り)による物語の中断について。また、物語られていない時の登場人物たちについてや、作品内に存在の痕跡を残したセルバンテスについて。

 

・絶対に本物の騎士になれないドン・キホーテ

騎士叙任式のくだりや、「恋と騎士道」に関してドン・キホーテが暴露した事柄について。

 

・重要な舞台装置、「魔法にかかっている宿屋」について。

 繰り返されることによって「魔法」という認識が強化されていく……!

 

ざっくりこのようなことを今後書いていきたいと思う。

読書とは実に生活の中断だな、と今回『ドン・キホーテ』を読んで改めて思った。

 

 

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追記

こちらの記事で何故かちらっと取り上げられてます笑。ありがとうございました。でも私のことは見習わなくてよいよ!ただの「おひまな読者」だから。

 

誰もが「表現したい」この時代に「本が売れない理由」について言及されています。↓

目に見える情報だけを価値と呼ぶなら、読書するのはGoogleだけでいい。 - カプリスのかたちをしたアラベスク