言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

物語の「中断」への積極的意味づけ―セルバンテス『ドン・キホーテ』

前回に引き続き、今回もセルバンテスの『ドン・キホーテ』前篇(牛島信明 訳、岩波文庫、2001)について書いていこう。

前回はなんとなく全体像的な話を書いたので、今回は【語りの面白さ】にフォーカスしてみたい。前回記事はこちら↓↓

 

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人間はやはり「物語る」のが大好きらしい、と私なんかは思ってしまう。過去にバルガス=リョサの『密林の語り部』について書いた時も似たようなことを考えていたが、人類史において「物語る」という行為に終わりはないのかもしれない。かく言う私も語るのが大好きである(そんなわけでこんなブログを書いているのである)。

 

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ドン・キホーテ』の作者は実はセルバンテスではない!この書物の原作はラ・マンチャ生まれのアラビア人歴史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリが史料を集めて書いたドン・キホーテという人間の伝記なのだ……!と、いう設定が『ドン・キホーテ』の作中で展開されている。もちろん、ただの「設定」でその設定ごと作り上げたのはセルバンテスなのだが、作者と作品の物語の間に「シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ」なる第三者を置くことによって小説の地平が拡大し、面白味が増している。ドン・キホーテ』の作品中いたるところに「賢人シデ・ハメーテ・ベネンヘーリが書き記しているところによれば」(前掲書、前篇(一)第三部15章257頁)、「この物語の原作者の記述に従えば」(16章、282頁)という文がある。「アラビア人が書いたものを翻訳し編集したのが私ことセルバンテスです」、という語り方だ。

ちなみに「シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ」というネーミングの意味がまた滑稽なんだけれど、解説から引き写しておくとこんな感じ。遊び心があって微笑ましくなる。

 

 

「シデCideは男性の敬称、ハメーテHameteはアラビア人のあいだにありふれた名前のハミド(Hamid)であり、ベネンヘーリ(Benengeli)は「茄子のような、茄子色の」を意味する。ちなみに茄子はモーロ人の大好物であった。」(前掲書、前篇(一)の訳注424頁より引用)

 

少し逸れてしまったが、この語りの構造で面白いのは物語の「中断」に積極的な意味づけができることであろうか。私が読んでいて一番「やられた!」と思ったところは、第一部の終りである。ドン・キホーテビスカヤ人の戦闘の場面が描かれて『ドン・キホーテ』第一部は終わる。小説の読者も、その場に居合わせた物語の中の人物も今まさに行われようとしている二人の決闘を、固唾をのんで見守っている。あるいは手に汗握って見守っている。振り上げられた剣が下ろされる時にはどちらかが取り返しのつかないような重症を負うかもしれないし、最悪、死んでしまうかもしれない……!さぁ、どうなる!と、ここで語りはこう続く。

 

ところがここに来て、この決定的な瞬間に至って、たいそう厄介な問題がもちあがった。つまり、物語の作者がこの戦いの場面を中断してしまい、ドン・キホーテの武勲に関しては、すでに述べたところ以上の記録を見つけることができなかったので書くわけにはいかないという言いわけで終わらせているのである。」

(前掲書、前篇(一)8章159頁より引用)

 

なんと、アラビア人の歴史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリは「史料がなくてここまでしか書けなかった」ためにこれでおしまい! と物語ることを打ち切っているのである(なんてこった!!)。この若干イラっとくる中断ではあるがしかし、ここで「ドン・キホーテ」の本筋(冒険)をいったん脇へよけておいて、作者セルバンテスは違う物語を始めることができる。つまり「私」(セルバンテス)はこの戦いのゆくえが気になって気になってしょうがなかったので(これは読者も同じ心境だろう)、頑張って続きの物語を探したのだ、という物語の始まりだ。「ドン・キホーテ」その人の冒険物語(妄想)を中断して、別の物語を始めると言う素朴なしかけは、その後に登場する小説内小説「愚かな物好きの話」の挿入(作中人物である司祭が他の作中人物のために小説を朗読する。読者はその部分を文字で読むことになる。みんなで楽しめる構造をしている笑)や登場人物たちによる長い長い身の上話でも見られる。メルヴィルの『白鯨』は大脱線の物語として有名であるが、『ドン・キホーテ』は脱線しているのが普通の状態なのだ。ちなみに物語が脱線している間、作中人物たちは語り手によってかなり積極的に放置されているのである。まるで瞬間冷凍でもされたかのように固まっていることもあり、面白い。

 

「それではここらへんで、使いに出たサンチョ・パンサに起こったことを語るために、ドン・キホーテには山の中で詩作とため息にふけるがままにさせておこう。」

(前掲書、前篇(二)第三部、26章133頁)

 

こういう「語りの都合によってフリーズしてしまった人物」を積極的かつ印象的に語った他の作品として、私は「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」を挙げておきたい。まだ第二巻の途中までしか読んでいないが、この作品でも結構登場人物がフリーズしている。「トリストラム・シャンディ」という小説も物語が大きく逸脱していくのであるが、作者がこの脱線に自覚的であり、滑稽な描写として利用している。

 

この記事の最後に語りの面白さの一つとして、作品内に残された「セルバンテスの痕跡」というものについて触れておきたい。

ドン・キホーテ』作中には何度かセルバンテスの影がちらついている。読者が最初にそれを目撃するのは、ラ・マンチャ地方のある村の郷士の家の書庫においてである。なんとドン・キホーテの家の本棚には騎士道本に紛れてセルバンテスの著者がおさめられていた。第6章で、司祭と床屋がドン・キホーテの書庫を検分する場面が描かれ、そこで本棚の本を見ながら処分する本と残しておく本を選ぶのである(ドン・キホーテが狂気に陥った元凶が騎士道小説にあることを二人は早々に見切っているのである)。

ふたりは一冊ずつ本を取り出し、そのタイトルを見て話しあう。一冊の本を取り出して、こんな会話が繰り広げられる。

 

「ミゲル・デ・セルバンテスの『ラ・ガラテーア』です」と、床屋が言った。

「そのセルバンテスという男は、わたしの年来の親友なのでよく知っているのですが、彼は詩(ベルソ)よりも娑婆の苦労のほうに精通した(ベルサード)男です。彼の本には創意が欠けているわけではないし、また、何かちゃんとしたねらいもありますが、それが成就していないのです。(中略)それまでのあいだは、親方の家にでもしまっておいてもらえますかな。」

「それは喜んで」と、床屋が答えた。

(前掲書、第一部6章126頁より引用)

 

結局、処分が決定した本も、そうでない本もまとめて燃やされることになるのだが、よく見ると床屋に預けたおかげで(?)セルバンテスの著書だけは無事であった、ということになる(セルバンテスったら抜け目ない)。その他にもドン・キホーテ一行が立ち寄る宿屋に忘れられた鞄の中からセルバンテス著作『リンコネーテとコルタディーリョの小説』が出てきたりもする。セルバンテスはどうやらドン・キホーテ一行が立ち寄る前に宿屋に立ち寄っていたらしい。それだけでなく、その事実が「忘れ物」を通してアラビア人の歴史家によって記録され、さらにそれを翻訳しているセルバンテスが存在する……? という謎のタイムトラベルが発生している。こういうメタフィクション感覚が大好きな人は、この物語を何度も読むに違いない。

その他にもセルバンテス著作や彼の経験が作中には織り込まれているので、気になっている人がいれば実際に読んでみることをおススメする。