言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

「物語」は面白い―バルガス=リョサ『密林の語り部』

今も昔も、人間は絶えずフィクションを生み出し続け、語り続けている。物語る、ということに終わりはなさそうだ。今回ここで紹介する小説、バルガス=リョサ『密林の語り部』はズバリ、「物語」というものについて掘り下げた作品だ。

バルガス=リョサ西村英一郎 訳)『密林の語り部』(岩波書店、2011年)

 

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

 

 

文庫本の帯から引用させていただこう。

「1958年、バルガス=リョサはアマゾン奥地に暮らすインディオを調査し、そのときに聞いた、部族の伝説や歴史を語り伝える役目をもった<語り部>とよばれる存在につよく惹かれました。本書は、「物語る」という行為の最も始原的なかたちである<語り部>の姿を通して、われわれ個人あるいは社会にとって、「物語」とはどのような意味を持っているのかを問う傑作です。」

 

この小説は全8章から成っている。小説は著者が「ペルーとペルーの人々を忘れるために」やってきたフィレンツェで、ふと見かけた写真展によってペルーの密林(セルバ)の思い出を喚起されるところから始まる(1章)。最終章もこの1章と同じ地点からペルーとペルーの人々の思い出に憑りつかれ、回想する様が描かれている。その間にある6つの章では首都リマを舞台としたバルガス=リョサと思われる小説の語り手「私」と友人のサウル・スラータスの交流が描かれる2、4、6章と、アマゾンの密林の中で生きるマチゲンガ族の語り部が話す部族の暮らしや伝説・神話について書かれた3、5、7章が展開される。

マチゲンガ族の「語り部」という物語る存在が、小説の中に放つ物語には時間的な制約がない。思いつくままにあちこち話が飛び、思いついたから世界の始まりについて語ってみようか、というくらいに気儘に物語られていく。私はこの雰囲気がたまらなく好きだ。時空間意識しないで飛び回る語りの自由さに面白さを感じる。

また、小説のいたるところにカフカの『変身』が仕込まれている。それは「私」の友人サウル・スラータス(マスカリータというあだ名で呼ばれる)の愛読書であり、リマにいた時に飼っていたオウムの名前がそのものズバリ「グレゴール・ザムザ」だったり(しかもオウムという存在が「語り部」の章の後半で重要な役割を担っていたりする)、マスカリータの存在自体が「変身」(魂の「移住」<アリヤー>と書かれる)してしまったり……。

こんな部分もある。面白いので出だしだけ引用しておこう。

 

「私は人間だった。私には家族があった。私は眠っていた。そのとき、眼が覚めた。眼を開けたとたん、ああ、タスリンチ、私はわかった。私は昆虫に変わっていた。たぶん、蟬のマチャクイに。タスリンチ-グレゴリオだった私が。」

(7章、277頁より引用)

 

まさにカフカ『変身』の変奏が語られているのだ。

案外、この物語を語っているのはマチゲンガ族の語り部になったサウルであって、彼の中にあったカフカの物語をあらためてマチゲンガ族の神話として語り直しているのかもしれない。「語り」というものは語る人によって変わっていくものだ。「語り」は無数に存在する。それは話者の数だけ存在するもので、話者の経験や考え方が滲み出てくるものである。

 

サウル・スラータス(マスカリータ)の属性についてここで簡単に整理してみよう。「私」の大学時代の友人であった彼はユダヤ人である。また顔に大きな痣があることが印象的に書かれている。マチゲンガ族との接触から影響を受け、次第にその存在に狂気的に魅せられていった彼は、次第に密林に干渉する「言語学者」や「人類学者」に対して敵意を持ち始める。1963年の末に父親ユダヤ教徒)とイスラエルで暮らすために国(ペルー)を出て行ったらしいという噂を残して消息を絶った。しかし、後に「私」が調べたところによると、実際はイスラエルに行ったという記録はなく、どうやら密林の語り部になったらしいということが匂わされている。

マチゲンガ族という流浪の民と、サウル・スラータスの出自であるユダヤ人も歴史上ともに流浪の民であった。その共通点に加えて、エドウィン・シュネルという人物が顔に大きな痣のある語り部を目撃したことを話す。この痣から私は光を失った影のある存在、「月」(カシリ、マチゲンガ族の伝説で語られる)を連想してしまう。「語り部」という存在は外部の者には秘匿された存在で、いわば影の存在と言えるのだ。

 

「語り」というものの性質上、民族学者が人類学者、言語学者の学術調査が部族の文化を変質させ、破壊させてしまうという懸念は常に存在した。言葉は単に現象を説明するだけでなく、もともとはなかったものを新しく生み出してしまうこともある(マチゲンガ族の伝説として「言葉」が「存在」より先にあって、その言葉を使った最初の語り部があらゆる動物の存在を創り出したというものが書かれている、5章)。

意図的に語ることや保護することによって生じる問題として私たちの身の回りにあるのは「無形民俗文化財」と呼ばれるもので、これに指定された「芸能」なり「祭り」は形を変えずに繰り返されなければならなくなる。「文化」というものを常に変化し続けるものとしてとらえた場合、そのままの形で「保存」されることは不自然ではないか? という見方がある。形だけが保存されても、それを繰り返す人々からは「芸h」なり「祭り」に込められた精神性は失われてしまうのではないか? 意味を忘れた事柄を繰り返すことが「保存」と呼べるだろうか。

そのことに対しての善悪の判断はともかく、バルガス=リョサはこの小説で「語り部」という存在を描くことによって「言葉の力」またはそれを扱う者としての責任を浮かび上がらせる。小説中のエピソードで言えば、「新約聖書のマチゲンガ語翻訳」や、それによって生まれただろうキリスト教的に変化したマチゲンガ族の神話を無視することはできない。

と、なんだかんだ小難しいことを言うことよりも、とにかくこの小説で語られるマチゲンガ族の伝説にあるエピソードを素直に楽しんだほうがいいように思う。それだけ見ると結構しょうもない話が多い。意味付けが為される前の、ただ語られる神話というのはどうしてこんなにも面白いのだろうと思ってしまう。