言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

それは夢のようでない夢―村上春樹『ねむり』

今回から2回に分けてこの本について。

村上春樹、カット・メンシック(イラストレーション)『ねむり』(新潮社 2010年)

ねむり

ねむり

 

 

はじめに断っておくと、私は普段から「本は読みたいようにしか読めない」と公言している。今回取り扱う小説があまりにも有名な村上春樹の作品であるから、すでに読んで自分なりによく解釈した人もたくさんいるだろう。「正解なんてない、読みたいように読んで自分で辿り着いた解釈があるということが読書の醍醐味だ」、と思える人だけ先を読んで欲しい。このブログに定期的に足を運んでくださる方々にとっては無用な忠告かもしれないが、以下は私が勝手に辿り着いた「ねむり」という作品の感想である。

 

(長くなってしまったので、更新を二回に分けることにした。第一回目のこの記事は『ねむり』の概要と、「夢のようでない夢」という視点、それから「繰り返し記述される容姿のこと」と題して、主人公が見た奇妙な老人の夢と、小説における人物描写の過程について考えたことをざっくりと書いた)。

 

作品の概要だが、この『ねむり』という本はそもそも1989年に発表された「眠り」という短篇小説がもとになっている。「眠り」に、1968年東ドイツ、ルッケンヴァルデ生まれのイラストレーターであるカット・メンシックのイラストをつけて再編集したものがこの『ねむり』という一冊の本だ。私は、独特な絵の印象が村上春樹の短篇小説作品に漂う奇妙さを加速させているように思えるこのシリーズが大好きだ。このシリーズでは新潮社から3冊出ている。

 

「ねむり」の簡単なあらすじを整理して書いてしまうとこんな感じになる(なんてつまらない書き方!)。

奇妙な夢をみた「私」はその後全く眠れなくなってしまった。しかしその不眠は以前経験したような単なる不眠ではない。以前経験した不眠では夜になると意識が冴えわたるが、昼間はぼんやりしてしまって生活どころではなかった(こういう昼夜逆転的な不眠なら我々にとっても身近に感じられるのでないだろうか?)。しかし、今回の「不眠」はそれとは全く異質なものなのだ。全く眠れないにも関わらず「私」の意識はどこまでも明晰である。「私」には結婚して夫がおり、子供も一人いる。彼らに気づかれることなく、「私」は眠らなくなったことで余計にできた時間を「自分の時間」とし、トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」を読みふける。家事もきちんとこなす、習慣だった水泳も続ける。誰にも気づかれることなく得た自分の時間を使って、「私」は「人生を拡張しているのだ」と思う。生活というものに追われ、昨日と一昨日が入れ替わっても何の不都合もないような漫然とした暮らしをしていた「私」が眠れなくなったことによって自分の人生を取り戻していくかに見える。私は覚醒し続ける中で暗闇を見続けているうちに、ふと「死」について思う。「死ぬということが、永遠に覚醒して、こうして底のない暗闇をただじっと見つめていることだとしたら?」(村上春樹『ねむり』80頁より引用)

その不吉な予感が(また不眠になり始めた時に「私」がみた奇妙な夢が)ラストに不吉さを感じさせる。真夜中に車に乗って出かけた「私」。そして停車した駐車場で、正体不明の影に車がひっくり返りそうなほど揺さぶられる。車という密閉空間に閉じ込められたまま、「私」はどうすることもできずただ泣くことしかできないでいる。

ここから先はちょっと具体的に解釈してみようと思う。

 

■「夢のようでない夢」

夢の中でもう目覚めた、と思うことはよくある。「もう目覚めた」と思ってからしばらく続く光景も夢なのだから、それは「夢のようでない夢」と言える。夢らしくない、と一瞬でも思ってしまった夢と言い換えてもいい。『ねむり』で描かれる奇妙な夢はまさにそれだ。まず「不吉な感触」の夢から目覚めたと思った主人公を待ち受ける光景がこんな感じだ。

 

「私が眼を凝らすと、それを待ちかねていたように影ははっきりとした形を取っていった。輪郭がまず明確になり、その中にどろりとした液体のように実体が注がれ、細部が描き加えられた。それはぴたりとした黒い服を着た、痩せた老人だった。髪は灰色で、短く、頬はこけていた。その老人が私の足元に立ち、何も言わずに私を凝視していた。とても大きな目で、白目に浮き上がっている赤い血管の筋までくっきり見えた。でもその顔には表情というものがなかった。目と鼻と口はある。しかしそれらは何も示さず、何を意味してもいない。」(村上春樹『ねむり』26頁より引用)

 

この「老人」は水差しを持っており、その中にある水を「私」の足元にかけ続ける。「私」には水がかかっているのは見えるが、水の感触を感じることはできない。

気がつくと「老人」の姿はなく、ベッドは乾いている。水をかけられた形跡は何もない。

これを私は「夢のようでない夢」と呼ぶことにする。作中でもそう位置づけられている。金縛りにあった知人の話まで持ち出して。そして作品の終わりまで主人公の「私」はこの「夢のようでない夢」から一度も目覚めてはいないのではないか? と私は思う。つまりこれは「不眠小説」に見せかけているだけで、実はすべてが「夢」なのだ。そもそも「眠れなくなって十七日めになる。」という冒頭は明らかにリアリティを追求した文ではない。眠れないのではない、目覚めていないのだ。ただ普段通りに生活しているらしい描写が重ねられることで、単なる日常としてリアリティを持ち始め、いつの間にか読者にとっても「不眠」が本当のことに思えてくる。描かれる日常感覚が「夢のようでない」から読者はいつの間にか「私」の生活が「夢の延長」とは考えられなくなって行く。「私」が考える「人生を拡大しているのだ」という考えがまた魅力的で、大人になって生活上での雑事が自分の時間を奪っていくものだが、そういった雑事から解放された「時間」があるというのは素晴らしいことに思えるし憧れる。

しかし描かれる「日常」のすべてが「夢」だとしたら……? 当然ラストに目覚めがある。こう考えるのが私にとって一番ラストシーンを解釈しやすい。眠っている人を起こすとき、人は人を揺さぶるのが普通だ。最後に車ごと揺すられているというのは、やはり「夢」から「覚醒」への移行ではないだろうか。あのラストの怖いシーンが実は目覚めへの導きになっているという読み方。だがどういう状況に目覚めるのかはまったく謎だ(もしかしたらこの先にあるのは「死」かもしれないし、繰り返し描かれた「日常」なのかもしれないし、そもそも読者に一切与えられていない人物の人生かもしれない)。

 

 

■繰り返し記述される「容姿」のこと

この作品には、「容姿」に関する描写が多い。例えば夫が醜くなっていく、とか主人公の「私」は自分の体を気に入っているだとか。そこで思い出すのが先に書いた「夢」における「老人」の造形の浮かび上がり方だ。改めて書き出すとこうだ。

 

「輪郭がまず明確になり、その中にどろりとした液体のように実体が注がれ、細部が描き加えられた。」(26頁)

 

こうして描き出された「老人」は「私」に水を注ぐ。そしてこの「夢」が「不眠の私」の起点になる。つまり、影だった老人が浮かび上がるのと同じ方法で、この小説の大部分で描かれる「私」の造形も作られているのではないだろうか。徐々に老人が「実体」を持ち始めた「夢のようでない夢の中」と同じ原理で「私」が徐々に小説の中で実体をもち始める。「私」の肉体について、あるいは「私」の外側にいる人物の造形について繰り返し描くことで、人物が徐々に厚みを持った存在になっていく。それは空っぽの容器に水を満たしていくようなことのように私には思えるのだ。少なくとも、小説を書いている時に私が持っている感覚はこんな感じなのだ。

そう考えてみると、「老人」が水を注ぐという支離滅裂な夢が象徴的に見えてくる。深読みかもしれないが、今の私の実感にぴったりと合う読み方を見つけられて、だから小説って面白いんだよ、と思えるのだ。

 

 

(次回は、「作中のアンナ・カレーニナ」、「主人公<私>の分離」について書いていく予定)

 

参考↓↓

 

パン屋を襲う

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図書館奇譚

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