言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

騎士も城も恋人も、信じることが大事なのだ―セルバンテス『ドン・キホーテ』

今回の更新で『ドン・キホーテ』前篇に関する一連の更新は終わりにしようと思う。第一回目の更新で触れていた通り、今回は【絶対に本物の騎士になれないドン・キホーテ】、【重要な舞台装置、「魔法にかかっている宿屋」について】の二本立てで書いていく。引用元は前回と同じく岩波文庫版『ドン・キホーテ』前篇だ。

 

ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)

 

 

【絶対に本物の騎士になれないドン・キホーテ

ドン・キホーテが読んだという騎士道小説について何度も言及される『ドン・キホーテ』。架空の騎士たちの華々しい活躍や勇猛な戦いや冷静な立ち居振る舞い、思い姫への重苦しい恋愛……こういったフィクションに憧れて、時を越え、遍歴の騎士道を実践してしまったドン・キホーテ氏(50歳間近)は本物の騎士たりえるのか?

結論から言えば、ドン・キホーテはどう足掻いても本物の騎士になれない、そう作者に可愛そうなくらい徹底的に設定されてしまった存在である。根拠はふたつある。一つ目は訳注でも言及されていたが、ドン・キホーテの騎士叙任式の描写と騎士道で定められた騎士になれない者の定義の一致、二つ目はドン・キホーテの定める騎士の恋愛観と本人の恋愛観の不一致である。

まずは一つ目から。『ドン・キホーテ』前篇第3章でドン・キホーテは騎士として任命されることになるのだが、この描写を引用したい。最初の冒険で辿り着いた「宿屋」を「城」と認識したドン・キホーテはそこの亭主(=城主)に自分を騎士として任じてもらうように依頼する。ドン・キホーテの様子が明らかに尋常ではないので、穏便に引き受けた亭主によって叙任式は執り行われるが、そのいい加減さたるや……笑。

 

それから、(まるで、何やらありがたい祈祷でも唱えるかのように)件の台帳(馬方連に売り渡した大麦やわらの代金を記した台帳)を読みはじめ、その読経のさなかに片手をふりあげて相手の頸筋にしたたかな平手打ちをくらわせたかと思うと、次いで、ドン・キホーテ自身の剣でもってその肩に激しい峰打ちを加えたりしたが、そうこうするあいだ、絶えず祈っているかのように、ぶつぶつつぶやき続けていた。

(前掲書第3章、80頁より引用)

 

「式」というからには一定の所作に対して決まりというものがあるのだろう。その決まりをどうにかごく表面的になぞることでドン・キホーテの騎士叙任式は終わる。祈祷書の代りに読まれるのは商売上の台帳であり、本来主君によって執り行われる厳粛な儀式であるはずの任命の儀式「跪いて頭を垂れる騎士の肩を長剣の平で叩く」という行為は「激しい峰打ち」にとって代わられる。さらに、訳注で『七部法典』という13世紀に編纂された書物が引用される。それによれば「狂人、貧しき者、一度でも愚弄によって騎士の位を得た者は騎士になれない」らしい。ドン・キホーテは狂人であり、しかもこの郷士は本を読むくらいの時間はあったが、どちらかといえば貧しかったという説明が前半になされている。その上、こうして叙任される場面が「愚弄」によって成り立っているとくれば、いよいよ彼はどう足掻いても騎士になることはできないということになってしまう。

 

二つ目のドン・キホーテの定める騎士の恋愛観と本人の恋愛観の不一致はますます滑稽である。ドン・キホーテには思い姫「ドゥルシネーア・デル・トボーソ」という存在が設定されている。しかしこれは決して恋ではない。あくまで彼の妄想なのである。というか、彼は実際のドゥルシネーアを見たことさえない。それにも関わらずドゥルシネーアに対して「美しい」と繰り返すことにドン・キホーテ前篇の面白さがあると言ってもいい。見て判断することではない、信じることが大事なのだ。そんな恋をしていないドン・キホーテであるが、遍歴の騎士たるもの必ず恋をしているはずだ、と自説を開陳している。引用しよう。

 

「恋をしないなどということはありえない」と、ドン・キホーテが答えた。「いや、思い姫をもたない遍歴の騎士など存在するはずがないと言うべきであろう。なんとなれば、そうした騎士たちが恋をしていることは、ちょうど空に星があるのと同じように、当然でもあれば似つかわしくもあるからで、まったくの話、恋をしていない遍歴の騎士が登場するような物語などあったためしがござらぬ。そして、もし恋をしていないような場合には、それは嫡出にして正統なる騎士とはみなされず、庶出のあやしげな騎士ということになりましょう。すなわち、遍歴の騎士道という城塞に堂々と大手門から入ったのではなく、まるで盗っ人か追いはぎのように塀を乗り越えて侵入した徒輩(やから)とみなされますのじゃ。」

(前掲書、第2部13章224頁より引用)

 

あきらかに自らが正統な騎士ではないことを声高々に宣言しているようで、笑いが止まらなくなった。さらにドン・キホーテは自ら恋をしていないことをもっとはっきりと暴露している場面がある。彼にとって実際の恋よりも、フィクションとしての恋のほうがより重要なのである。以下に引用するのはドン・キホーテの台詞であるが、女性の美しさを礼賛するような詩人を例に出して、彼らとて必ずしも恋をしていたわけではない、と説明する。そしてこう続ける。

 

「彼女たち(詩人の恋人たち)は大半は詩に題材を提供するために、また詩人たちが恋する男であり、恋をするに値する男であると世間の人に認めてもらわんがために創り出されたのである。

(前掲書、第3部25章115頁より引用)

 

ドン・キホーテにとって、思い姫ドゥルシネーアの存在、そして恋というものは自らのフィクション(妄想)を強化するための存在にすぎないのだった……これではやっぱり本物の騎士にはなれない笑。

 

 

【重要な舞台装置、「魔法にかかっている宿屋」について】

最後に、この小説にとってとても重要な「場」になっていると思われる宿屋について書いておきたい。ここで話題にする宿屋は作中何度か登場し、特にドン・キホーテの二度目の冒険において重要な意味を持っている。前半17章でドン・キホーテサンチョ・パンサが辿り着いた宿屋は、中盤ドン・キホーテを探しに来た司祭や床屋も立ち寄ることになるし、後半は主にこの宿屋に滞在している時に語られる物語や事件がメインになる。何度も登場することも相まって「経験が妄想を強化する」ように見えてならない。

(ちなみに騎士叙任式の「宿屋」はここで話題にしている場所とは別。)

 

ここでひとつ確認しておかなければならないのは、ドン・キホーテは自らの冒険において、打ちのめされたり、途方にくれたり、とにかく何か困った事態に陥るとすべて「魔法」のせいにしているということである。何か自分にとって不利な「魔法」の力が働いているから上手くいかない、という身勝手な言い訳でドン・キホーテは現実と妄想のギャップを埋めている。

彼らがここで話題にしている「宿屋」に初めて滞在した時も実に様々な魔法の力が働いている。しかしその時はドン・キホーテ自身、まだ「魔法」のせいなのかどうか判然としない感覚を持っていた。「きっと悪い魔法のせいだろう」というくらいの認識の仕方であったのだ。それが後半、司祭たちとこの宿屋に滞在する頃には「この宿屋は魔法にかけられている」という認識が完全にできあがってしまっており、おかげで何が起きてもおかしくないし、驚きもしなくなる。この宿屋での「度重なった不幸な経験」が彼の妄想を強化することになってしまったのだ。経験に対してはやがて周囲の人々までもが「嘘」によって意味づけをし始め、嘘に嘘を重ねていくことで物語は進んでいく。そしてこの「嘘」を見抜くことなく純粋に「経験」として認識したドン・キホーテはどんどんフィクションに嵌め込まれていくのである。

最後に、ドン・キホーテの言葉を引用しておこう。何度読んでも面白い作品であった。

 

「いや、わしはそのようなことには少しも驚かぬぞ」と、ドン・キホーテが答えた。「その証拠に、この前われわれがここに投宿した折、ここで起こることはすべて魔法のなせる業(わざ)であると、わしはお前に言ったであろう、お前は覚えておるかな。だとするなら、今回もまた同じことが起こっても、別に驚くにはあたらぬわ。」

(前掲書、第4部37章52頁より引用)

 

 

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