今回も前回までに引き続きカフカ短篇集についての更新です。
池内紀編訳『カフカ短篇集』(岩波文庫 1987)から「火夫」「橋」「人魚の沈黙」について書いていきます。
「火夫」
この短篇の面白い所は、主人公カール・ロスマンの関心の移り変わりと、風景の移り変わりだと思う。アメリカへ船旅をしていたカールは下船の時になって、船室に傘を置き忘れたことに気がついた。その傘をとりに戻るため、知り合いにトランクを預けて船に戻ったが、その船の中で迷い、偶然「火夫」に出会う。
「傘はむろんのこと、トランクもなくしたというわけか」
(前掲書121頁 火夫の台詞)
傘を取りに戻る際に知人に預けたトランクはおそらく、知人ごと何処かへ行ってしまっているだろう。傘も相変わらず見つからない。カールは立て続けに物を失くすのだが、火夫の身の上話と現在の不満について聞かされている間に、そんなことさえも忘れてしまう。
問題は火夫の権利について船長に意見をするという正義にすり替わり、まるで夢の中のように何の説明もなく、さらさらと滑らかにカールの目の前の風景が移り変わっていく。
カールの関心が移ると、場も移っていく。失せ物は見つからないし、そんなことなんて遥か後方に過ぎ去った景色のように頭の中からすっかり消えている。
火夫の部屋から船長のもとへ乗り込み、火夫の現状の不満について船長に直訴するくだりでは、カールは正義に酔っているようだ。
「すべての背後にニューヨークがあった。そそり立つ高層ビルの無数の窓を通して、町がじっとこちらをみつめていた。まったくのところ、この船室であれば、自分の居場所がわからなくなるなどのことはありえないというものだ。」
(132頁より引用)
カールにとってすべては火夫の権利のための正義の戦いにすり替わっている。その時船長室からみた景色が上に引用したもの。ニューヨークといえば、「自由の女神」だ。自由の女神像は移民にとっては新天地の象徴そのものだが、同時に人類の平等と抑圧からの解放を象徴したものでもある。この巨大なモニュメントと摩天楼建築群がカールの正義の後ろ盾になっているかのように描かれていて面白い。「自分の居場所がわからなくなるなどのことはありえない」という自信が沸いてくるのも頷ける。
しかし、カールの正義への意志は、意外にあっさりと終焉を迎える。
それは失せ物(傘、トランク)を一切発見できないでいるカールを叔父が発見したからだ。しかも叔父は上院議員であり、アメリカで地位を持つ人物である。それまでカールが抱いていた空想的な正義やその拠り所となっていた自信とは比べ物にならないほどの権威者である。その叔父が「正義の問題かもしれないが、同時に規律の問題でもある。この二つのうち、とりわけ後者が船長の判断によるのだからね。」と言ったことで、火夫の権利を巡る話題は全く力を失ってしまう。そして、カールは叔父につれられて船を離れるのだ。
この「火夫」という作品はカフカの長篇『失踪者』の第一章にあたる部分らしい。
「橋」
「私は橋だった。冷たく硬直して深い谷にかかっていた。」
(219頁より引用、この作品の冒頭)
こうして始まるこの作品。何故「橋」が意識を持って語っているのか、なんて疑問にしてはいけない。とにかく私は橋なのである。
「一度かけられたら最後、落下することなしには橋はどこまでも橋でしかない。」
(219頁より引用)
この橋を人間が渡ろうとしている。語り(橋)もそのことを自覚している。しかしこの人間は橋を渡り向こう側へ行くことはできなかった。橋は落下するのである。
「子供か、幻影か、追い剥ぎか、自殺者か、誘惑者か、破壊者か? 私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った――なんと、橋が寝返りを打つ! とたんに落下した。」
(220頁より引用)
「――なんと、橋が寝返りを打つ!」
この一文の面白さ! まず語りの統一を崩している。「私」という一人称から「橋が」という三人称に転移している。この視点の変更には驚かされる。「私」から「橋」へ転移することによって擬人化を解いたように見えるが、しかし続く文は「寝返りを打つ」なのである。普通、橋は寝返りなんか打たない。明らかに擬人化した表現なのだ。不思議な表現である。
語りの転移(三人称への移行)によって「私」という語り部としての「橋」は崩壊してしまうのかもしれない。カフカが作りだした「橋人間」的な小説世界が崩壊するように作品は終わっている(最後の一文でまた「私」の語りになっているが、それは単にバラバラになるだけなのだ)。
「人魚の沈黙」
ラテンアメリカ文学のフリオ・コルタサルの短篇小説作品を読み慣れると、どうもこういう騙され方には慣れてくるらしい。
ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」を基調にした作品で、人魚の歌声による誘惑から身を守ろうとするオデュッセウスの話。
大きく三つの部分に分けて読むことができる。
一つ目は、人魚の歌声に誘惑されて海の底に沈められないように耳に蝋を詰め(人魚の歌を聞かないように)、船の帆柱に自身を縛り付けて身を守ろうとするオデュッセウス。
二つ目は、そんなオデュッセウスの抵抗なんて全く無視して、実は人魚は歌っておらず、沈黙していた可能性。沈黙は人魚にとって歌よりも最大の武器なのだ。人魚の歌に一つ目のオデュッセウスのように対抗し、勝ち得る可能性もあるが、今度は人魚が絶対に勝つ。何故なら「人魚の歌声に誘惑されなかった、人魚に勝った」という自己の勝利の感情に勝てる人はいないからだ。
三つ目は、実はオデュッセウスは以上まで書いたことすべてを知った上で、「いわば護身用の楯として人魚や神々に対し、右に述べた一連の芝居をやってのけたというのである。」(229頁)というラストだ。
どうも我々読者は、オデュッセウスがやってのけた芝居に騙されているのかもしれない、というのだ。我々がよく知る場面(人魚への対抗)をわざわざ演じてくれているような書きぶりである。
そこで冒頭を読み返してみる。
「たわいもない子供だましの手段でも救いには役立つ――」 (227頁より引用)
たまには騙されるのもいいものさ。小説を読んでいて「騙された!」と気がついて失うものは時間だけで、我々読者はそんな風に時間を失いたくて本を開いていることだってあるのだから。
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