言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

ここもそこも―高原英理『日々のきのこ』

「やあ、かぜよくて幸い」という挨拶に「これもそれも」と応える世界があった。なんでも森や山の中で出会う相手にはとにかく言葉をかけ合うのが決まりらしい。でも「綴じ者」はそうしたやりとりはしない。おっと、「綴じ者」という言い方は差別的で望ましくないのだったか。罵倒のさいに「この綴じ者が」と言ったりするようだから、今では「菌人」と呼ぶことが一般的だ。そう言われてみれば、確かにそうだったような気がしてくるほど、この本の言葉の世界には奇妙な説得力がある。それで感想を書くという名目でいつまでも遊んでいたくなるから、ちょっと困る。

 

高原英理『日々のきのこ』(河出書房新社、2021年)

 

装丁が素敵な本だな、と思っていたのだけど奥付をみたら装画はヒグチユウコさんでした!

 

きのこの子実体の神出鬼没ぶりにはいつも驚かされる。

ある年の夏に朝顔を育てていたのだけど、その長方形のプランターの角に、ある朝かなり大きくて肉厚で立派な白いきのこが生えていたことがあった。朝顔の花よりも大きな傘だった。でも夕方には消えてなくなってしまっていた。秋になれば山に行って〈ぼりぼり〉だの〈むきたけ〉だのを採ってくる。きのこにくっついた虫もまるごととってくることになるから、土ときのこの匂いにまぎれて黒い糸状の名前の知れないくねっくねっ動く虫とか、てらてらに背の光る甲虫とか、きのこを広げた新聞紙の上でまぁ、豊かだこと。

ちなみに〈しいたけ〉を自家栽培しようと思って、湿度が高い方がいいらしいと浴室に原木を置いてみたことがあったけれど、これはうまくいかなかった。やはり人間の思惑通りにはいかないものなのか。だとすると、しいたけ農家はいかにして栽培に成功しているのか? しいたけ農家の空間は菌類と人間の利害が一致した結果生じた場なのだろうか? となると、しいたけ農家ってかなりすごい「世界」なんじゃないか。

 

本書を読んでいると、きのこの生える場がどんどん面白くなってくる。「きのこの意思」なんて言いたくなることもあるが、きのこが人間と同じように思考しているわけもなくて、人間の頭のはたらきをきのこにかぶせて理解しようとしているだけだ。

ちなみに、私が通う町の図書館の書棚に生える〈きのこ本〉もかなり神出鬼没で、きのこ(菌類)を題材とした本書のような文芸書も「自然科学コーナー」のきのこ図鑑の隣にぽっと傘をさしていたりするから注意が必要だ。

 

面白い本に出合うと、その言葉があんまり魅力的だからついつい「きのこ心が湧くね」なんて、本書に出てくる言葉を端っこから味わうように言ってみたくなる。

読み始め、書かれた世界についてまだよくわからない読者の私は、それでも自分はもしかしたら良い「ばふ屋」になれるかもしれないと思った。「ばふ屋」というのは正しくは「地胞子拡散業」といって一応は行政機関にも登録のある職業らしい。季節労働者で毎年秋になると森へやって来て、ホコリタケのたぐいを踏んで回るんだそう。

ばふばふ。

子供の頃に、公園の芝生の日陰になったようなところでやたらと存在感のあるきのこを見つけてしまい、どうしてそうしようと思ったのかはわからないけれど踏みつけて潰したら、ばっばっと煙みたいなのが出た。それからは無性に楽しくなって、きのこの量塊を見つけるたびに踏んでいた。あの煙が胞子だなんて、子供の私は当然知らなかったのに、思い返せばなんたる「胞子活動」をしてしまっていたことかと笑える。

 

「きのこを踏むことがどうしてこんなに楽しいのだろう。なぜこんなに踏みたいのだろう。それはきのこたちが望んでいるからだ。人が、ではなく。」(前掲書11頁より引用)

 

 

 

この本でぞっとするのは、菌にとりつかれた世界の中にも、人間の欲望がしっかり生き延びていることだ。体表からきのこを生やし、もはや人間のようには見えない姿になりながらも、人間の三大欲求と言われているものから、きのこを踏みたい欲望や空を飛びたいという欲望まで、きのこ(菌類)に都合よく利用されながらも残っている。こんなになっても人間は人間で、植物は植物で、動物は動物で、菌類は菌類なのである。そして菌類だけが、動物や植物という存在の中に入り込めて、時には入れ替わってしまうこともあるというのだから怖い。怖いけど、「きのこ心が湧くね」。

 

菌類は強制しない。人が人にやるような無理強いや陰謀めいた操作はしない。ただ、身体的な反応をもたらすかも知れない何かを発している。

(前掲書11頁より引用)

 

菌類はただあるだけで、おそらく人間のような思考や感情で動いてはいない。ただあって、増殖する。人間の有り様のほうがそれに菌類に合わせて変わって行く。それが「菌標準(ファンジャイ・スタンダード)」という菌と共生するための新たな人間観であり、行動様式・生活様式である。「所々のきのこ」「思い思いのきのこ」「時々のきのこ」の三つの章からなる本書を読み進めていくと、もしかしてどんどん菌率が上がっていやしないかこの世界、と気がつく瞬間が来る……。

終わりのほうで盈眩菌の感染によって人格を無化される人の増加が語られる。それによって個別でない安全な生命量を地球に維持させるという何者かの目論見がちらっと見える。「地上が茸に覆われ、個というものが僅かにしかなくなった地球は、さぞ静かで安らかだろう。」(163頁)

怖い、けれどやっぱり「きのこ心が湧くね」と言っているほうがたぶん安心で、それはすでに自身の何割かは菌化していて、つまり世界に上手く馴染んでいるつもりでいられるからなんだろう。

 

本当はきのこだけじゃなくて、今現在のコロナ禍というやつだって人間の有り様をゆるやかに、ゆるやかに変えていっているのかな、なんて思いながら、思いながら思いながら。