言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

木目のお化け―ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』

小さな子供だった頃、真夜中のトイレで〈木目のお化け〉に遭遇した。

やつは大きな平べったい形をしていて、ねむたい私の目にゆらゆら揺れながら近づいたり遠ざかったりした。ムンクの叫びのような、細長い顔をいくつも持っていた。夏だったと思う。開けたままになっていた窓の外から、生い茂る木々の葉のおもたくゆれる音がきこえた。

 

子供の頃の真夜中のトイレとは、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。

大人になった今では、もうあのお化けに出会うことができないと思う。あの〈ファンタジア〉はもうすっかり遠くなってしまった。お化けは、本当はただの木製のドアなのだった。木目が点々と3つあれば人の顔に見える。木目に限らずなんでも点が3つあると、両目と口の配置を思うのか、人間はそこに同類の顔を見ることが多い。

 

ブルーノ・ムナーリ著、萱野有美 訳『ファンタジア』(みすず書房、2006年)

 

 

著者ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari,1907-1998)は、1907年にミラノに生まれたプロダクト・デザイナー、グラフィック・デザイナー、絵本作家、造形作家、映像作家、彫刻家、詩人、美術教育家。

 

ファンタジア:これまでに存在しないものすべて。実現不可能でもいい。

発明:これまでに存在しないものすべて。ただし、きわめて実用的で美的問題は含まない。

創造力:これまでに存在しないものすべて。ただし、本質的且つ世界共通の方法で実現可能なもの。

想像力:ファンタジア、発明、創造力は考えるもの。想像力は視るもの。

(前掲書より)

 

 

一つのアイディアがどのように「誕生する」のかを解明する。

本書ではファンタジア、発明、創造力が働く時の普遍の要素を、具体例とともにリストアップして分析している。こんなふうに書くとなんだか難しそうだけれど、図版が多く、著者が考え得る物と物の組み合わせ、そこから生じるファンタジアの実例を具体的にみていけるので、とても楽しかった。

たとえば「視覚的類似の関係、また他の性質との関係から生まれるファンタジア」の具体例として、アルチンボルド(1530-93)が描いた果物や魚、先分かれした根、葉、機械の部品などが組み合わせってできた頭部が挙げられている。

どんな事柄もいろいろな方法で観察できるものだと思う。「似ている」と思ったものがそのものに「成り変わろうとする」ような、こういう観察の方法を私はよくやりがちなのだ。風景も人間もそんなふうに観察していると、ある日ちょっと変なものが見えたりする。

それから「ディメンションの交換によって生まれるファンタジア」。

日常にある物の大きさを操作(巨大化/極小化)することで生まれる驚きがある。工業製品の新作を披露する見本市で、広告代理店は客の目を引くために巨大化というディメンションの交換の公式を利用している。直径三十メートルもあるタイヤだとか、本来のサイズよりずっと巨大化され展示される商品見本がその例だ。

極小化の例として著者は盆栽を挙げている。対象の性質をまったく変化させずにサイズだけ小さくしたもの。盆栽を写真に撮る時、フレームから鉢を外したら一本の巨木に見える。私が思いつくのはスタジオジブリの映画「借りぐらしのアリエッティ」だ。人間を小さくした「小人」という存在の目を介して私たちの日常を見ると、日用品が巨大なものとして聳え立つ。物の大小のスケール感が変わる驚きは面白さを生み出す。

 

その他にも本書では「色彩の交換」「素材の交換」「場所の交換」など様々な例が挙げられているので興味がある方はぜひ本書を手に取ってほしい。サルヴァドール・ダリ、メレット・オッペンハイム、マン・レイなどの有名な作品が取り上げられている。

 

本書の後半は子供の教育(ワークショップの実例)を通してクリエイティブな活動とはどんなものかを学ぶことができたし、たった一枚の葉から実に様々な図形ができることを視覚的に体験させてもらえた。一枚の葉についての自由なヴァリエーションを知ることは思考を広くしていくことだと思った。

どんなものでもじっと観察していると知らなかったこと、知らなかった関係性が次から次へと見つかっていく。小説を書く私が言葉の力によって世界が広がっていくと感じる面白さも、このあたりにあるのではないか。書きつけた言葉と言葉のあいだから、それまで知らなかった関係性が見えたりして、そうやって探るように作品内の時間を進めていく。

 

ファンタジアとは、既知のものとの関係性に基づいてはたらくので、たくさんのことを知っていればいるほど、人はそれらのあいだで様々な関係を築いていくことができるようになる。子供の発想についていけない大人たちは「子供だからこその豊かな想像力があるのだろう」と言うけれど、実は子供らの突飛な創造は既知の物を彼らなりに組み合わせているに過ぎないという。はじめに書いた木目が人の顔に見えるのは、子供だった私にとって(というか多くの人にとって)〈人の顔〉というものがよく知っているものだったからだ。自分の知っている範囲のものとの関係づけからファンタジアは生まれる。よろこび、かなしみ、おどろき、せつなさ、こういう感情への共感や反発は、人間としてその感情のゆらいを知っているからこそ可能だ。

大人になった私がもしもあの真夜中の冷たい便座に座ったら、〈木目のお化け〉なんかさっさと退治して、もっと違ったものに出会えるのかもしれない。度重なる引っ越しであの木目のドアの住居がどこにあったのか、もうわからないことをはじめて残念に思った。