昨年末から年始にかけて、しばらくスーザン・ソンタグの著作を読んできたわけだが、今回の更新で一旦終わりにしたいと思う。今回は『隠喩としての病い』を読んで考えたことをまとめておきたい。
スーザン・ソンタグ 著、富山太佳夫 訳『隠喩としての病い』(みすず書房、1982年)
私の書いてみたいのは、病者の王国に移住するとはどういうことかという体験談ではなく、人間がそれに耐えようとして織りなす空想についてである。実際の地誌ではなくて、そこに住む人々の性格類型についてである。肉体の病気そのものではなくて言葉のあやとか隠喩(メタファ)として使われた病気の方が話の中心である。私の言いたいのは、病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには――最も健康に病気になるには――隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだが、それにしても、病者の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能に近い。そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために、私は以下の研究を捧げたいと考えている。
(前掲書、5頁-6頁より引用)
この本は著者が自分自身の癌体験から着想を得て書いたものらしい。しかしこれは単なる闘病記ではなく、著者自身の体験が書かれているわけではない。病気そのものというよりは病気に付された隠喩(メタファ)について、主に結核と癌を素材に考えた事柄が綴られている。これまでの文学作品や思想において、結核や癌がどのように書かれてきたか、具体例を交えながらその病に付された隠喩や変遷を辿っている。
たとえば私達がよく知っているいわゆる「サナトリウム小説」。サナトリウムとは、空気の綺麗な高原などに作られた結核療養所をさすことが多いが、そこで繰り広げられる男女の儚くも美しい恋愛物語……。この物語が可能なのは、ロマン主義者たちが結核という病にある隠喩を与えたからだ。つまり「つまり、下卑た肉体を解体し、人格を霊化し、意識を拡げる結核による死を利用したのである。結核をめぐる空想を通して死を美化することができた。」(前掲書、28頁より引用)肉体の病というよりは、精神または魂の病という隠喩を与えられた結核は文学の題材として好まれることになるようだ。逆に徹底して肉体の病とされた癌のほうに霊性が付与されることはなく、素材として忌み嫌われるようになる、つまり美化され得ない(患者にしてみれば、そんな隠喩などいい迷惑であるが)。
著者が引いた詳しい事例は本書を読んでいただければわかるので割愛するが、確かに時代がある特定の病に対して与える隠喩というものは存在しそうである。
少し考えてみよう。
たとえば「社会の癌」という言葉(最近はあまり使われなくなったか?社会に限定せず○○の癌という言い方は一時期よく見かけていた気がするのだが。)は、社会に巣食う悪であるが、まるで癌の腫瘍を摘出するように排除し得るもの、という意味合いを帯びている。癌に対する私たちの感覚はスーザン・ソンタグが癌について考えていたころよりもずっと「容易に摘出し得るもの」になっているはずだ。一昔前よりもはるかに癌の治療はしやすくなった。「乗り越え可能な悪」という隠喩が現代では与えられているのではないだろうか。
(摘出できないタイプの癌、たとえば悪性リンパ腫さえ最近では放射線治療等で対処し得る。ほんの10年ほど前、私の親戚はこの病で亡くなったが当時は治療不可能と言われ、痛みをやわらげる程度の治療しか行わなかったはずだ。)
ちなみにスーザン・ソンタグはこんな風に書いている。
或る現象を癌と名付けるのは、暴力の行使を誘うにも等しい。政治の議論に癌を持ちだすのは宿命論を助長し、「強硬」手段の採択を促すようなものである――それに、この病気は必ず死に到るとの俗説をさらに根強くしたりもする。病気の概念がまったく無害ということはありえないのだ。それどころか、癌の隠喩そのものがどことなく集団虐殺を思わせるとの議論も成り立つように思われる。
(前掲書、125頁)
他にも考えてみよう。
「うつ病は心の風邪」という表現について。これも一昔前によく言われた言葉だ。この言葉のおかげで精神科や心療内科への敷居が下がり、救われた人もたくさんいただろう。だが、「風邪」という言葉の気軽さは人を救うのとは逆の方向に隠喩を働かせもした。多くの人がうつ病を始めとした精神疾患に対して過度に敏感になっているように思えてならない(と書いている私も実はうつ病と適応障害の間をここ15年ほど行ったり来たりしているわけなんだけれど……笑)。ほんのちょっとの気分の落ち込みさえ「病」とされてしまうかもしれないという心配。
いわゆる「難病モノ」「闘病モノ」といわれる物語(テレビドラマや映画、小説など)や、「24時間テレビ」で繰り返し提示される「障がい者像」に対して嫌悪感を抱いている人をよく見かけるが、その嫌悪というのは病や障害という対象そのものに対してではなくて、他人の日常や苦悩に美しく装った意味(愛とか感動という隠喩の付与)への嫌悪だろう。実は私も一時期本当に「難病モノ」「闘病モノ」が苦手であり、それはたとえフィクションであっても、何か不純な意味を物語にとって都合よく他者に押し付けている印象があったからなのだろう。病は隠喩になり得る、というのは『隠喩としての病い』を読んで新しく得た視点かもしれない。何かに意味を与えるということには常に慎重にならなければならない(それでも人は意味を与えたくなる、だから難しさを感じる)。
人工透析患者に対して、最近、暴力的な言葉がインターネット上に掲載されて物議をかもした。人工透析は「自己責任」という例のアレだ。こういう考え方がどうして出て来るのか、病が隠喩として機能してしまうということから少し考えてみた。
まず「生活習慣病=糖尿病→人工透析」という安易な図式が存在する。そして「生活習慣病」という言葉(表現)には無意識のうちに仕込まれた隠喩がある。「生活習慣」は自分の意思で決められるもの、それで病が引き起こされたならやはり悪いのはお前自身だ、という考え方。上記の生活習慣病と人工透析を結びつける図式の存在と、生活習慣病という言葉が隠喩として機能した結果、人工透析患者=自己責任論という荒唐無稽な暴力的言説に結びついたのかもしれない。(言う間でもないが、人工透析の理由は何も生活習慣に起因する糖尿病だけではないし、そもそも生活習慣自体が個人の努力ですべて良い方向へどうにか転換できるというものでもないし、さらに言えば、そもそも生活習慣がすべて病の原因というわけでもないはずだ)。
他に著者は「癌のことを記述するさいの中心的な隠喩は、実は経済学からではなく、戦争用語から借用されたものである。」(97頁-98頁)と興味深い言葉の使用について述べている。それによると癌細胞は単に増殖するだけではなく「侵す」と言われるし、小転移は「植民地を作る、小さな前哨点をつくる」、「徹底的な」外科手術、体の地形を「走査」、「腫瘍の侵略」……などと言われることに注目している。
治療法にも軍事的なものがつきまとう。放射線療法には空中戦の隠喩がつきもので、たとえば患者は有毒の抗戦によって「空爆される」。化学療法は毒物を使う化学戦争となる。治療の目的は癌細胞を「殺す」ことになる。
(前掲書、98頁-99頁より引用)
このあたりを読んでいてふと思い出したので自分のメモ程度に残しておくけれど、松波太郎『ホモサピエンスの瞬間』において、登場人物の過去なのか、それに語り手である「わたし」の空想を付加した話なのか判断はつかないが「戦争」の様子が描かれている。体の不調と言葉の閊えを「戦争」の描写に近接させて描く書き方のことをなんとなく思い出した。言葉の閊え=コミュニケーション不全を「梗塞」(血栓の詰まり)と合わせて書くこと。癌の他にも最近では心筋梗塞や脳梗塞に知らず知らずのうちにかぶせられる隠喩があるのかもしれないと思った。私にはまだ、言葉にすることができないけれども。
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