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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

写真ってなんだ?―スーザン・ソンタグ『写真論』

読書日記 外国文学

今回はスーザン・ソンタグの『写真論』を読んで考えたことを書いてみようと思う。この本を読むまで、そもそも写真とは何か? どういう性質のものであるか? などと考えたことはなかった。考える暇もなく、現代の我々はスマホで気軽に写真を撮るのである。この本が書かれた頃に比べて、現代の我々はより写真に囲まれて生きているだろう。写真、大半の写真は物体として印刷されることもなく、画像データとして端末に保存されている。情報としての大量の写真に我々は囲まれているのだろう。このブログもそうだけれど、今の私たちの物の見方や考え方から画像を抜きにすることはできないと思う。

 

スーザン・ソンタグ著、近藤耕人 訳、『写真論』(晶文社、1979年)

写真論

写真論

 

 

正直、はじめて「写真」というものを考えることになった私にはこの本をしっかり読み込めた自信はない。なので、今回はこの本については断片的に取り上げることしかできそうもない。『写真論』の内容は巻末の訳者あとがきから引用しておこうと思う。

 

『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌にこれらの評論を書いていくうちに、彼女(著者、スーザン・ソンタグ)は写真というものがじつに大きな主題であることに気がついてくる。写真について書いているというよりも、近代性(モダニティ)について、私たちの現在のありようについて書いているのだと悟るようになる。写真の問題は現代のものの感じ方、考え方へのひとつのアプローチであり、写真について書くことは世界について書くことだと彼女は話している。

(中略)

この評論集は「写真論」と題されてはいるが、実際は写真を鏡として裏側から照らし出したアメリカの社会と文化を論じたものであり、さらに広く、民主主義社会と写真の関係を解明しているものであって、アーバスの作品群はまさにその象徴なのである。

(前掲書、訳者あとがき219頁より引用)

 

1930年代のアメリカ・リアリズム文学と写真的リアリズムとの関係にとどまらず、それ以後のアメリカ文学全般と、この<写真的見方>との関係は、アメリカ文化をその特徴的な鍵で解き明かすために、興味あるテーマであり、この本はその手がかりを与えている。

(前掲書、訳者あとがき220頁より引用)

 

 

■写真ってなんだ?

 

ひと言で「写真」と言っても様々な種類がある。アルバムに綴じられていくような家族の思い出写真や、証明写真、メディアの報道写真……。最近驚いたのはプリクラの性能だ。最近のプリクラの顔面補正力にはほんとうにびっくりした。あそこに映し出された自分の姿は確実に自分ではない。

 

写真はただ現実を記録する代りに、事物の私たちへの現われ方の基準となって、それによって現実の観念、レアリスムの観念そのものを変えてしまったのである。

(前掲書、94頁より引用)

 

写真は我々人間の眼(視力)の限界を超えている。たとえば、「ミルククラウン」という現象をぴたりと静止したものとして捉えることは人間の眼には不可能である。顕微鏡写真も我々人間の眼では見ることのできない微細なものを写しだす。X線写真もそうかもしれない。これら人間の視力を超えたものを写真として見慣れてしまうことで、我々の観念はいくらか変えられてしまったのかもしれない。もう少し身近なところでは風景写真。誰もが美しい景色をみたら、ポケットの中のスマホを取り出して写真を撮りたくなるものだが、たった一枚の風景写真を撮るということを考えただけでも、そこには信じられないほど多くの選択が絡んでいる。まず、何を写すかという被写体の選択、それからどういう風にフレームに収めるか、どういう風に風景写真として切り取るかといった技術的な選択。アマチュアカメラマンでさえ(いや、もっと現代的に言えばカメラマンという意識を持つことさえなく写真を撮る我々ひとりひとりでさえ)、自らの欲求に技術力、はたまたシャッターを切った瞬間の偶然に左右されながら風景写真を撮る。撮影者の意図が明確であればあるほど、その写真は観光パンフレットのような見易さや美しさを持った写真になるのかもしれないし、そうだからこそ、実際にその場所を訪れた場合、がっかりすることが多いのだ。つまり、写真の風景は現実の(ふつう我々が見慣れている)風景とは異なったものである。そういう物に晒され続ければ自ずと観念にも影響を及ぼすだろう。

 

個々の写真は断片にすぎないから、その道徳的、情緒的な重みはそれがどこに挿入されるかにかかっている。一枚の写真はそれが見られる文脈によって変るものである。それでスミスの水俣の写真はコンタクト、ギャラリー、政治的デモンストレーション、警察のファイル、写真雑誌、一般ニュース、雑誌、本、居間の壁、で見た場合はちがって見えるだろう。これらの状況はそれぞれ写真のちがった用途を暗示しているが、どれも写真の意味を確実にすることはできない。

(前掲書、112頁より引用)

 

写真は撮影して終わり、というものではない。撮影された写真を見る者という他者の存在によって意味づけがなされるものだ(勿論、撮影した時に撮影者は撮影者なりの意味や意図を持っているだろうが)。写真を資料として見る歴史家の視線と、同じ写真であってもそれを芸術作品としてみる視線は大きく異なっている。この本の最後の章「引用の小冊子」でグスタフ・ヤヌーク『カフカとの対話』が引用されているのだが、そこでカフカはこんなことを言っている。

 

「写真は表面的なものに眼を集中させる。そのために、それは光と陰の戯れのように物の輪郭を通してほの見える隠れたいのちをあいまいにしてしまう。それは最高のレンズを使っても捉えることができないのだ。それは感覚で手探りしなければならないものなのだ。(……)この自動カメラは人間の眼を何倍にもふやすのではなく、とんでもなく単純化したはえの視覚にしてしまうのだ」

(前掲書213-214頁より引用)

 

カフカは写真についてこんな風に思っていたらしい。それは人間の眼をひどく単純化したものだと。

 

写真はいくつかの形での獲得である。一番単純な形では、私たちは写真の中で大事なひとやものを代用所有する。その所有のお蔭で、写真はどことなく独特の物体の性格を帯びてくる。私たちはまた写真を通じて、出来事に対して消費者の関係を持つようになる。私たちの経験の一部である出来事とそうでないのとの両方に対してで、それはこのような習慣形成の消費者であることがぼやかすさまざまな経験のタイプのひとつの区別である。三番目の形の獲得は、映像作りと複写機を通して私たちはなにかを(経験というよりも)情報として獲得できるということである。実際、ますます多くの出来事が私たちの経験に入ってくる媒体としての写真映像の重要性は、結局それが経験から切り離されて独立した知識を有効に供給できることの副産物にすぎない。

(前掲書、158頁)

 

写真は所有である、という感覚。プリントアウトをせず、物体としての厚みをなくしたデジタル写真であっても、この感覚は無効にはなっていないと思う。「思い出を残したい」という願望が我々に次々とシャッターボタンを押させる。後で見返すかは別として「残したい」という願望は確かにあるのかもしれない。それはある特定の瞬間の所有である。七五三や成人式の写真を撮るというのもよく考えればその時にしかできない「自分」を保存して所有する行為である。ふと思ったが[盗撮]という行為と所有願望は結びつくものなのだろうか? どちらかというと「盗撮」の場合は所有よりもスリルを求める心情と結び付けられて論じられている印象があるが……?

 

さて、長くなってしまったが、今回この本を読んで写真というものについて色々と考えることができて本当に良かった。はじめに書いた通り私は写真が嫌いである。写るのも嫌いだが、実は撮るのも嫌いである。特に人間を被写体にすることにはある種の恐怖さえ感じている。他人を被写体にしてシャッターを切ることが何か暴力的なことに思えるのだ。被写体の生命活動を写真の中で凍結すること、そのことへの怖さだったり、そうすることで被写体に何か当初意図していなかった意味を押し付けることになりはしないかと不安になるのである。

カメラという装置が現実を侵食している。

それが良いとか悪いとか、そういうことを言うつもりはない。ポケモンGOですっかり有名になったAR(Augumented Reality、拡張現実)技術は写真が人間の視力を超えたものであるという事実をさらに延長して、積極的に推し進めたものであるように感じる。また、SNSの浸透によって我々の意識にはフォトジェニックという言葉が浮かびやすくなっているのかもしれない。昔ならそういうことを考える場面は非常に限られていたはずだが(例えば見合い写真や生前に撮って用意する遺影、芸能人のブロマイド)、今では日常的な思考になっている。