言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

人は語り、そして生きる―奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」

今朝、午前六時二分、気象庁は東北地方太平洋沿岸に津波警報・注意報を発表した。同5時59分頃福島県沖で発生したマグニチュード7.3、最大震度5弱地震の影響だ。

ちょうどこの時私は月刊新潮に三回にわたって掲載された奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」というルポルタージュを読み返していたところだった。雑誌から顔をあげて、息抜きするくらいのつもりでスマホのニュースをみると、津波警報・注意報の文字。本当に偶然だったのだが、そんな偶然にさえ物語を与えたくなるのが人間なのだろうと思う。

この「死者と生きる―被災地の霊体験」というルポには、著者が東日本大震災の被災地に実際に出向き、津波で大切な存在を失くした人々に取材した貴重な証言が記録されている。著者は「人は物語を生きる動物である」ということを強調していた。

 

人は物語を生きる動物である。そのことはこの旅を終えてあらためて確信した。最愛の人を失ったとき、遺された人の悲しみを癒すのは、その人にとって「納得できる物語」である。納得できる物語が創れたときに、遺された人ははじめて生きる力を得る。不思議な物語はそのきっかけにすぎない。亡くなったあの人と再会することで、断ち切られた物語は、生者によってあらたな物語として紡ぎ直される。その物語は他者に語ることで初めて完璧なものになるのだろう。

(連載第1回、新潮4月号掲載、195頁より引用)

 

タイトルにあるように著者は津波によって大切な存在を失った人々が感じた「霊体験」を集めて紹介している。取材を始めた当初は「霊体験」というよりは「幽霊体験」といったほうが良く、不思議な体験というよりは恐怖体験と言った方が適切だと思われるような話が多かったそうだ。それが、取材を重ねていくうちに恐怖よりももっと近しい感覚を纏った「霊体験」が集まってくるようになったらしい。

それぞれ個別の体験については全三回に分けて掲載された「死者と生きる―被災地の霊体験」をご覧いただければと思うが、証言の大まかな筋を要約すれば(本当は要約なんかしては意味がないのだが。何せ、人々が個別にそれぞれもつ「物語」こそ、被災者それぞれの生きる力になったのだから。)こんな具合になる。

津波によって大切な人を失くした人々は落ち込んだり、途方にくれたり、あの時どうして助けてあげられなかったのか? と言った堂々巡りの自責の念に駆られてしまったりしていた。そんな時、ふと不思議な体験をするのである。亡くなった人が夢に現れたり、亡くなった人が、あたかも目の前の風景、そこに「いる」かのような現象が起こったり……。届くはずのない死者からのメール、そして電話……。このような不思議な出来事は、しかし恐怖体験ではなかった。証言をする生き残った人々は不思議な体験をしたその時に「死者と再会」していたのだ。生と死の境界が消え去るように、日常の中に死者の存在が滲む。そうしてその再会から、死というものが決して遠くに隔たった別個の存在ではないと確信した時、人は生きる力を得る。

 

著者がこのルポを書いた意図を第三回(新潮10月号掲載)で明確に書き記している。「津波で逝った大切なあの人と、共に生きようとしている人の物語を記録することだった。」(引用)と。不思議な体験のひとつひとつが丁寧に拾いあげられ書き記されている。もし、筆者が聞かず、書かなかったとしたら、被災者の死とともに消え去ってしまっていただろういくつもの「物語」が大切におさめられていて、このルポルタージュは私にとって、一読した時から忘れられないものになっていた。

被災者の中には自身の不思議な体験を東北地方に残る山岳信仰(葉山信仰)と重ねた人がいた。また、オガミサマという沖縄のユタや恐山のイタコに似た「口寄せ」や「仏降ろし」を職業とする霊媒師の存在についても触れられている。いにしえの日本人が死を「逝く」と表現したことや、「ご先祖様に申し訳ない」という倫理観についても触れられており、それらの記述から、日本人の集合的無意識としてある「あの世」とのつながりというものに焦点があてられる。「あの世」がどこか「お隣さん」のような存在として実感される経験というものは確かに存在すると思う。

 

かつて日本には生者と死者は共に生きるという感覚があったように思う。いわば死者と生者の共同体である。それがまだ東北に残っているのかもしれない。亡くなった人との再会は、大切な人を死なせて後悔している生者が、あの世の死者と和解する場であり、死者とともに生きていることの証でもある。だからそれがどんなかたちであっても、大切な人との再会を祝福してあげたいと思う。そのとき生者は、死者と共に自ら新たな物語を紡ぎだせるはずだから。

(第1回、新潮4月号掲載194頁より引用)

 

亡くなった人に「再会する」なんて、そんな話はそう簡単にしゃべれなかった、そんな風に証言した人もいた。自分のかけがえのない「再会」についていくら熱を込めて他人に話しても「作り話」だと言われてしまう。そのことが悔しく、またそのせいで傷つくこともあるだろう。現代日本においては「あの世」という非科学的な存在自体が「うさんくさい」と片付けられてしまいかねない。だがこういった合理主義を越えた話を聞いてもらうことが、遺された人々にとって重要なグリーフケアになり得るのだ。物語にとって信憑性などどうでもいい、ただそれを経験したひとがいて、それを語ってくれるひとがいて、その物語を記録したひとがいた。そんなことに目頭があつくなる連載だった。

 

人間は本来、合理性と非合理性のバランスの中で生きてきたはずである。無理に合理的に解釈しようとするから、不思議な体験をした人たちは幻覚かせん妄を見たことにされてしまうのだ。僕は、オガミサマを信じる文化が残っていることをうらやましく思う。

(第1回、185頁より引用)

 

筆者は不思議な体験をした方とは最低でも三回は会うことにしていたそうだ。この理由として筆者は「人は物語を生きる動物であると書いたが、その物語がどう変化するかを確かめたかったからだ」と書いている。実際に半数の方の話に微妙な変化があった。話し始めた時は漠然と「にこっと笑った顔」が見えたような気がするという言い方をしていたものが、三回目に会ったときは「見た瞬間に(亡くなった)お父さんだとわかった」という言い方に変わっていた。変化したからと言ってはじめの話も、後の話もどちらも事実であることには変わりない。

 

「人は物語を生きる動物だが、その物語はけっして不変ではない。常に自分が納得できる物語に創り直されているのだ。創り直すことで、遺された者は大切なあの人と今を生き直しているのである。」

(第2回、新潮9月号掲載200頁より引用)

 

さて、このブログの管理人である私の携帯電話にも悲しい番号がいくつも残されている。震災以後、繋がらなくなってしまった電話番号や繋がらないことがわかってしまって確かめることさえしなかった電話番号、そんな「今はもう使われていない数字の羅列」がいくつもある。この番号たちをアドレス帳から削除せずに、そのまま残しておく私は意味のない数字の羅列に何か意味(物語)を与えようとしているのかもしれず、それは墓碑のような「死の印」であると同時に、かつてその番号の背後に確かにいたあの人たちの顔「生の印」を忘れないように刻み付けておくためのもののようである。

今朝、奥野さんの文章を読み直している最中に地震津波が起こったという偶然にもひそかに何か、意味を与えたいのかもしれない。

最後に、「死者と生きる―被災地の霊体験」の第3回(新潮10月号掲載)で紹介されていた東北大学災害科学国際研究所の川島秀一教授の言葉を引用しておこうと思う。

 

気仙沼駅を降りて、海側へ少し歩くと市役所が見えてきます。江戸期に入るとそのあたりから埋立てられていき、町が形成されました。おそらく今回の津波でやられたところは埋立てられた土地だったと思います。もともとこのあたりはリアス式の土地ですから、平地なんてなかったはずです。自然を改造しても、海は必ず取り戻しに来るということを覚悟したほうがいいですね」

(第3回新潮10月号掲載176頁より引用)

 

奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」

(第1回新潮2016年4月号、第2回新潮2016年9月号、第3回新潮2016年10月号、掲載)

 

2017年9月30日追記。

単行本化されていたようです。

 

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─