言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

たとえ新しい感情がわきあがっても―スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』

 

今回はスーザン・ソンタグの『ハノイで考えたこと』という本を取り上げたい。

スーザン・ソンタグ 著、邦高忠二 訳『ハノイで考えたこと』(晶文社、1969年)

 

ハノイで考えたこと (晶文選書)

ハノイで考えたこと (晶文選書)

 

 

ソンタグは1968年5月にベトナム戦争真っただ中のハノイ(北ヴェトナム)を訪れている。本書はその時の直接体験をもとにソンタグが考えた事柄(文化や彼女自身の意識について)をまとめた記録である。知識の上ではよく知っているはずの異文化に実際に触れてみた時の著者の純粋な驚きや戸惑いが、なぜそういう感情として表出するのかというところまで含む深い洞察である。

 

ここでベトナム戦争ハノイについて簡単にまとめておこうと思う。

私達がよく聞くベトナム戦争は、1955年11月から1975年4月30日まで続いた「第二次ベトナム戦争」をさすことが多い。この戦争はインドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争の総称だ。細かな事例を挙げればきりが無いのでここでは割愛する。簡単に書いてしまえば、ベトナム共和国(南ヴェトナム/背後にアメリカ)VSベトナム民主共和国(北ヴェトナム/背後にソ連)という構図で説明することのできるいわゆる冷戦を背景とした代理戦争でもあった。ハノイ北ベトナムの都市で戦争中にはアメリカ軍による空爆にもさらされている。南北ベトナム統一後、現在ベトナム社会主義共和国の首都である。経済の中心と言われるホーチミン市に対してハノイは政治・文化の中心地と言われることが多い。

北ベトナム政府の招聘によって、本書の著者でアメリカ人のスーザン・ソンタグが戦時下のハノイを訪れたのだ。

 

歴史の理解は、私が当然のものとみなしているその目的、つまり、客観性とか完璧性という目的とはちがった目的をもつこともありうるのだ、と。それは実用のための歴史である――正確にいうなら、生き残るための歴史だ。だから、それは、まるごと実感された歴史であり、距離を保った知的関心事のジャムみたいなものではないのだ。過去は、現在という形態のなかに継続し、また、現在はうしろの時間にむかい、のびひろがってゆく。

(前掲書、37頁より引用)

 

ソンタグは自分が持っていた歴史観ベトナム人が持っている歴史観にどうやら違いがあるらしいことを感じる。ソンタグから見たベトナム人たちは「歴史の世界に生きて」おり、しかもその歴史は「目的の一貫した歴史」である。そういう歴史観という思想的背景によって形作られた現在のベトナム人の思考の枠組みが当初ソンタグには見えなかったらしい。アメリカはベトナム空爆している、しかし当のベトナムではアメリカに一種畏敬の念のようなものさえ持っており、ソンタグを歓待してくれる。そういう価値観がまったく理解できなかった戸惑いが著者の思考の契機になっているように思える。

また、考えれば考えるほどにスーザン・ソンタグは自分の中にあるアメリカ的な価値観(思考の枠組み)が浮かび上がってくることに気が付く。著者はアメリカによるベトナム空爆を痛烈に批判していたわけだが、それでもなお自分はアメリカ人であることを捨てきれないというディレンマを抱えなければならない。実際にベトナムの地を踏んだからこそ、知識にとどまらない感覚にまで踏み込んで自身の価値観を検討する必要に迫られたのだ。

 

ハノイに旅立つまえ、私が想像世界のなかで勝手に関連づけていたヴェトナム像は、現地にのぞんだとき、なんら現実性をもっていないことが立証されたのである、過去数年間、ヴェトナムは私の意識の内側で、“弱者”の苦難と英雄行為を示す、ひとつの典型的な像として腰を据えていたのだ。しかし、私の心にとりついていたのは、じつは“強者”アメリカ像のほうであった――アメリカ的権力、アメリカ的残忍性、アメリカ的独善の形姿であった。

(前掲書、131頁より引用)

 

同じページで、スーザン・ソンタグは「歴史の課題とは、つまり意識の課題である」という言葉を引き、ハノイの滞在によってこの警句のもつ真理が自分自身にとって鮮明かつ具体的になったと書いている。単なる知識であったベトナムが、著者自身の「思考作用の限界をやぶるための能動的対決に転化された」という。

ソンタグの語る言葉をすべて鵜呑みにすることはできないが(著者の言葉はオリエンタリズム的な枠組みから逃れてはいないと思う)、ある特定の国における歴史のとらえ方や、そういう思考体系からくる文化観について考え抜いた著作であるとは思う。特に私がこの本を読んで面白いと思ったのは、ソンタグの異文化観察の眼差しがやがて自身の内側の「アメリカ的な部分」にはねかえっていったことだ。他の文化を理解するのにどれほど自分の中にあった思考の枠組みが邪魔になるかということ、しかしそうでありながら、その既存の枠組みを捨てきれはしないこと、アメリカ人であることをどこまでもつきつけられること。

異文化に対する寛容や異文化交流は世界がずっと模索してきたことだし、今でも模索し続けていることだろう。非常に難しい問題で、それこそ教科書的に語ってしまうのは簡単なことなのだが、実際に異文化に接した時に自分が表明する態度が教科書的な模範解答になるとは限らない。歴史観や文化観の違いというものについて、そこからどういう感情が表明され得るのかについて、アメリカ人であるスーザン・ソンタグは実際にハノイを訪れ、考え、書いた。

 

彼女(スーザン・ソンタグ)には、人間は絶えず変化してゆく弁証的な存在であり、それを教導する契機は“新しい感情”である、という認識がある。彼女がハノイの現実に触れて喚起された新しい感情を、どのように処理し、どのように進展させるかが、この日録を彼女に書かせた動因だといえるだろう。そして、新しい感性、感覚の新しさこそ人間を変革させ、人間活動に変更をくわえる発条になるのだ、と彼女はいいたいようである。

(前掲書、149頁、訳者あとがき「スーザン・ソンタグについて」から引用)

 

経験を拒絶せず、できる限りしなやかに対応することができれば、それだけ世界は広がっていくのかもしれない。その広がりの中で自分のもつ捨てきれない感覚にも自覚的になっていくのかもしれない。たとえ新しい感情がわきあがってきても、それを怖れることなく向き合っていくことを忘れないでいたい。