Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

自分で自分をなげるように―エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』

この社会に生きていると、嫌な思いをすることが多々ある。困難が降りかかってくることもしょっちゅうだ。そういう諸々の面倒事を、こんなふうにさらっとかわして生きていけたら、どんなに幸せなことだろう、と思ってしまう。

 

彼らと争ってみても全然歯が立たないことは火をみるより明らかだったので、わたしは三十六計逃げるにしかずとばかりに、命からがら一目散に逃げ出した。だが、ものの三百ヤードもいかないうちに、わたしは、彼らにとっ捕まってしまい、まわりをグルッととりかこまれ、袋のネズミ同然だった。そこで彼らがわたしに何か手を出す前に、わたしは自分を、さっさと、平たい小石に姿を変えてしまい、自分で自分を投げながら、故郷への道を急いだ。

エイモス・チュツオーラ作、土屋哲 訳『やし酒飲み』岩波文庫2012、160頁-161頁より引用)

 

と、こんなふうに書き出したブログの記事であるが、別に「生き方」について自分の考えをとやかく言うつもりはない。

今回はわたしがはじめて読んだアフリカ文学の小説作品、エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』の感想を書きたいと思う。

 

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

 

エイモス・チュツオーラ(1920-1997)はナイジェリアの小説家。今回読んだ『やし酒飲み』が代表作で、wikipediaによれば「ヨルバ人の伝承に基づいた、アフリカ的マジックリアリズムと言われる著作で知られ」ているそうだ。岩波文庫版にも収録されている訳者の解説によると鍛冶屋をしていたこともあるという。同解説にハロルド・R・コリンズの指摘が引用されていた。それによると、「チュツオーラは、鉄を鍛える仕事が大いに気に入り、金属を曲げたり、型どったりすることに、一種の芸術的喜びを感じていた」とのこと。訳者は「農業中心のアフリカ社会では、鍛冶屋は、生活と芸術が一体化した職業であり、同時にヨーロッパの錬金術的な魅力をもった職業だといえる」と書いている。

先に引用した『やし酒飲み』の一節は私がとても気に入った部分なのだが、「自分で自分を投げながら」逃げるなんて、日本にいるとなかなかできない表現だと思う。とても楽しい。外国文学を読んでいると日本の、日本人の道徳観やら倫理観から自由になれると感じる瞬間がある(逆に、今回はじめて読んだこの作品に現れるアフリカ的な感覚は、解説を読むまでまったくわからなかった。たとえば森林(ブッシュ)への恐怖とそこからの価値基準の転換、アフリカ人の行動倫理の主体性についてや、縄張りの意識など。詳しくはこの本の解説に書かれている)。

『やし酒飲み』には対人関係のしがらみのようなものがほとんどない(語り手「わたし」とその妻の間に少し見られるが、物語のメインではない)。主人公が旅に出るのは自分の死んだ父親に会いに行くためではなく、父が生前主人公のために雇ってくれたやし酒造りの名人を「死の町」から連れ戻すためなのだ。しかも、連れ戻したい理由はあくまで主人公の側にあり(欲望)、やし酒造りの名人が死んでかわいそうだ、といった他者への眼差し(同情)は皆無である。やし酒造りの名人が死んでいるのを知った主人公はこんな感じだ。

 

彼(やし酒造りの名人)がそこに死んでいるのを見てまずわたしが最初にしたことは、もよりのやしの木に登り、自分でやし酒を採集し、現場に戻るまえにやし酒を心ゆくまで飲む事だった。それから、やし園までついてきてくれた友だちの助けをかりて、やし酒造りが倒れていたやしの木の根っこに穴を掘って、彼を埋めてお墓をつくり、それからわたしたちは町へ帰った。

(前掲書、8頁-9ページ)

 

主人公である「わたし」は物語の冒頭によると、「十になった子供の頃から、やし酒飲みだった」らしい。「やし酒飲み」として一貫した態度で事件に臨む。多和田葉子はこのことについて解説「異質な言語の面白さ――飢餓と陶酔の狭間で」において、「『わたしは、やし酒を飲む人間である』というのは随分ラディカルなアイデンティティーの提示だと思う。」(前掲書227頁)と述べている。

この小説の登場人物たちの多くは自分自身に忠実で、やりたいことをやりたいままにやっている、と感じた。旅人を助ける白い木の「誠実な母」は親切であるが、それに対してくどくどした感情は書かれない。ただ親切にしてくれた、という事実だけが残されている。他者との関係性というものに対して、とてもドライな作品だ。この関係性のしがらみのなさ(=自由さ)に、私は日本の社会生活にはない気楽さを感じた。

しかし、一切の関係性が存在しないというわけではない。この作品の登場人物同士には奇妙な貸借関係が成立することがある。たとえば「完全な紳士」の物語。この紳士は身体のあちこちのパーツを方々から借りることで完全な紳士となっている(本当は一個の頭蓋骨でしかない)。借りたということは当然返す描写がある。「左足を借りた所へやってきた時、彼は左足を引っこ抜いて、所有主に渡し、借り賃を払い」という具合だ。

それから「死の町」を目指す「わたし」とその妻は旅の途中で「死を売り渡し(お値段七十ポンド十八シリング六ペニー)」たり、一ヵ月三ポンド十シリングの金利で「わたしたちの恐怖を貸与」したりする。「死」や「恐怖」というものさえ売ったり、貸したりすることができてしまうらしい……(しかも金額の設定がやけに具体的である。作品冒頭ではタカラ貝だけが貨幣として通用していた時代もあったことがうかがえるのだが……)。

ちなみに「恐怖」は借主から取り戻すことができたのだが、売り払った「死」は結局買い戻すことができないまま物語は進行する(つまりここから先の部分は恐怖を感じても死ぬことはない、ということになる)。

この「死なない」ということが主人公の自信の根拠になっている。

前半部分では「わたし」は自分が「この世のことはなんでもできる神々の<父>」であると語っている。そしてそのことが自信や勇気の源泉・行動の原動力になっていた。さらに後半では、「わたし」は「不死身」の属性を手にし、それ故に直面する危機に真正面から臨んでいくことになる。解説で説明されるアフリカ人の「モラル」、言い換えると「恐怖」に対する人間の主体性の誇示というのはこのあたりに見られるアフリカの自信、気概のことなのだろう。

「ですます調」と「である調」が入り混じった奇妙な訳文に読み始めたばかりの頃は違和感ばかり抱いていたが、それにも次第に慣れてきて、しまいにはすっかり語り手たちの旅路に寄り添いたい気持ちになっていた。文化も歴史も違う国、感覚も私達とはずれている国の小説は、時に読み手を現実社会のしがらみから解放してくれる。

私は自分で自分をなげるような自由を感じつつ、『やし酒飲み』の文字の上をわたっていた。