言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

化かされて、愉快いな―泉鏡花「化鳥」

化ける、というのはどういうことなのだろうとふと考えた。辞書的な意味を引いておくと「本来の姿・形を変えて別のものになる」ということ。私達は「化ける」ことよりも、たぶん「化かされる」ことのほうが身近に感じられるのではないだろうか? 自分が化けても、たぶん自分はその変化に気がつかない。

泉鏡花の「化鳥」という作品は、鏡花初の口語体小説なのだそう。文語体にはない語りのやわらかさは童話のようにも感じられる。過去と現在が口語体のやわらかな語りによって自然と曲線で繋がったような作品、それが「化鳥」だ。この作品以前の鏡花作品は過去と現在が舞台の場面転換のようにくっきりしていたが、口語の地の文と台詞が自然に繋がる「化鳥」では時間の境界線がぼかされ、淡い印象の作品になっている。はじめて読んだ時の印象は「鏡花が化けた」だった。

 

化鳥

化鳥

 

 

あらすじを簡単に書くと、語り手「私」(廉という名前の少年)とその母親(母様)は橋を渡る人からとる通行料(橋銭)で暮らしを立てている。描写から考えて裕福ではないだろう。苦しいことのほうがずっと多いだろう。そんな生活の中の、ある雨の日に「私」は窓から顔を出して橋を通る人を見ている。景色を見ている語り手の目線が作品世界そのものになっていくのだが、ここが本当に面白い。「化ける」「化かされる」という視点でこの作品を見てみると作品の構造と内容が一致していることの気がつく。つまり、独断的な一人称の語りで進行していく作品なのだが、その「独断」こそが作品の世界観を立ち上げる大切な要素なのだ。

 

愉快(おもしろ)いな、愉快いな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくなっても可いや、笠を着て、蓑を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡れながら、橋の上を渡って行くのは猪だ。

(「化鳥」冒頭より引用)

 

語り手の目線で、人間は様々な物に化ける(ちなみに語り手にそういう物の見方、認識を与えたのは母様である)。冒頭の橋を渡る人は猪に、釣りをする人は蕈(きのこ)に、洋服を着た男は鮟鱇(あんこう)に化ける。

鮟鱇のくだりはちょっと面白いので引用しておこう。橋を渡ってくるでっぷり太った洋服を着た男に対して母様は「あれは博士ぶりというのである」とおっしゃった。それに対して語り手は地の文でこう切り返している。

「けれども鰤(ぶり)ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といったら、まるで鮟鱇に肖(に)ているので、私は蔭じゃあ鮟鱇博士といいますワ。」

 

川に落ちてしまった鮟鱇博士の蝙蝠傘は、連なる会話や、言葉のイメージもあってかどこか「蝙蝠」のような気もしてくるし、あくびをした「私」の赤い口がふと獣を思わせたりもする。「人があるいて行く時、片足をあげた処は一本脚の鳥のようでおもしろい。人の笑うのを見ると獣が大きな赤い口をあけたよと思っておもしろい。」(6章より引用)が、後半の「私」のあくびというなんのことはない動作に「獣」のイメージを上塗りする。そしてそのすぐ後で、「私」は自分自身の姿が鳥のように見えて驚いた、と続く(こういう描写の仕掛けは細かい所も含めてかなりたくさんあると思う)。

とにかく読んでいくと、読書はいろいろなものに化かされているらしいことに気がつく。作品世界の雰囲気を生み出す多くのものは語りの力によって化けたもので、読者はうっかり作品世界に化かされている。所々出てくる「赤」や「朱」という華やかな色調にすら化かされている。親子の生活は貧しく辛いものなのかもしれないが、そんな雰囲気はほとんど滲んでこない。あでやかに化けた世界が作品として立ち現われる。

 

かつて川に落ちた日の「私」は何者かによって助けられた。

 

もういかんとあきらめるとトタンに胸が痛かった、それから悠々と水を吸った、するとうっとりして何だか分からなくなったと思うと、ばっと糸のような真赤な光線がさして、一幅あかるくなったなかにこの身体が包まれたので、ほっといきをつくと、山の端が遠く見えて、私のからだは地(つち)を放れて、その頂より上の処に冷たいものに抱えられていたようで、大きなうつくしい目が、濡髪をかぶって私の頬ん処へくっついたから、ただ縋り着いてじっとして眼を眠った覚がある。夢ではない。

(溺れた「私」が助けられたらしい場面より引用)

 

「私」を助けた者、それが一体誰だったのか、「私」が尋ねると母様は「廉や、それはね、大きな五色の翼があって天上に遊んでいるうつくしい姉さんだよ。」と答える。「鳥じゃあないよ、翼の生えた美しい姉さんだよ」

「私」はもう一度その「うつくしい姉さん」に会いたいと思うが果たせない。もしかしたらそれは母様のことなのかもしれないし(化けた母様)、全然違う人かもしれない。

どんな存在であれ、夢のような風景描写(真赤な光線、なんて鮮やか)が「五色の翼があって天上に遊んでいるうつくしい姉さん」という存在に、神秘的でよりあでやかでうつくしい印象を与えているのに変わりはない。

 

小説を読むことの豊かさとは、語を継いでいく時に喚起されるイメージの豊かさなんじゃないかと思った。化かされて、愉快いな、愉快いな。

日本語の時空間をめぐる旅―池澤夏樹=個人編集日本文学全集30『日本語のために』

かつてこの国では、文学全集という形式が流行った。そしてやがて廃れた。今、かつて出版された文学全集たちは、多くの町の図書館にある閉架書庫で埃をかぶって眠っている。時々その中の1冊、2冊がマニアックな読書家に発見されて借りられていくのだろう。1冊1冊が分厚く、時には細かい文字で二段組みになっている数十巻セットの文学全集。日本の名作を集めたものもあれば、世界の名作を集めたものも、一体どういう選択からそうなったのか、非常にマニアックな作品が収録されていることもある。かつてこの国には、多くの作品をまとめて残したいという思いがあったのかもしれない。

文学全集という形式が廃れた現在、しかしまだ新しく出版されている文学全集がある。それが今回紹介する「池澤夏樹=個人編集」の文学全集シリーズ(河出書房新社)だ。私はこのシリーズがとても好きで、ラインナップを見ているだけで実はけっこう楽しくなってしまう。池澤夏樹=個人編集の文学全集には「世界文学」を集めたものと「日本文学」を集めたものがある。日本文学全集のほうは今続々と新しい巻が出ている。作家である池澤夏樹の独自な視点で編まれた全集になっており、本当に面白い。

 

詳しくはこちらをどうぞ↓

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

 

 

今回はそのうちの1冊、『日本語のために』(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集30、河出書房新社、2016年)について書いていきたい。

 

  

この本はまるで「日本語の時空間をめぐる旅のような本」だった。

古代から現代まで、そして琉球アイヌの言葉、キリスト教、仏教の文体、さらに政治の言葉まで、時間も空間もかなり広くとられた1冊だ。読みながら多くのことを考えた。今、この時この場所で私が当たり前のようにブログの記事を書いているということ、ここに至るまでの驚くほど長い時間を日本語は生きてきた。時と場合に合わせて日本語を使ってきた人々は器用に言葉を変形させ、多くの外来語を取り込み、表現を広げてきた。言葉というものは、時々歪みを生じる。それまで使われてきた文脈から少しずれた所に置かれたりもする。歪みというより私にとってそれは「たわみ」に近い。そのことがプラスにはたらくこともあれば、マイナスにはたらくこともあるだろう。プラスにはたらけば、表現をより豊かにするだろうし、マイナスにはたらけば単なる誤魔化しの言葉になって人々を騙すことがあるかもしれない。不適切な訳語が人々を混乱させることもしばしばある。

 

日本語の表記も幾度となく変わっていった。変わるたびに失われた世界観があった。

たとえば現代を生きる私達は歴史的仮名遣いというものをほとんど知らない。「ゐ」や「ゑ」の感覚がわからない。この感覚は表記が改められた結果、日本語から失われてしまった世界観だ、と私は思う。今となっては旧くなってしまった文体について、その言葉の表記方法や言葉の背景にある時間(言葉に込められ歴史の中を生き延びてきた価値観)について検討することも大切なことだ。しかし失われたものがある一方で、これからも新しく生み出され表現されていく世界観もあるだろう

今私は純文学というものが「現代人の世界観を書き残すという責任を担う営み」だと考えている。それはとても重く、一朝一夕でできるものではないだろう。そして純文学に限らない。言葉と生活は密接につながっている、というか重なっている。言葉の営みはまさに生活の表現だ。私達が撰んできた言葉とそれによって作られてきた世界観、そしてこれから私達が作っていく世界観、そのどれもが小さな生活の只中ではじまる。

 

こういう言い方をするとだいたい変な顔をされるのだが、私は文字を単なる記号として捉えることがずっとできないでいる。それはきっと、文字に込められた多くの時間や生活を重ねてしまうからかもしれない。

 

ひとつだけ引用して、この記事を終わりにしたい。『日本語のために』の「はじめに――全体の方針」という所で書かれた池澤夏樹の言葉である。

 

先に我々は日本語によって文学を作ってきた、と書いた。それはそうなのだが、文学が日本語を作ったということもできる。誰かが考案した気の利いた言い回しは文学となって通用する範囲を広げ、時代を超える。そういうものの蓄積が日本語の表現を育ててきた。

 書かれた言葉は話し言葉よりも論理的であり、サイズの大きな思考や思想を構築できる。

 その一方で、文学にとっては声が大事だという思いもこの全集の編集作業の中から湧いてきた。言葉の基礎はやはり声であり、文字はその後にある。自分で文章を書いている時でも、また推敲している時は特に、頭の中で自分の声が聞えている。それもまた忘れてはならないことだし、だから時には自分と他人の区別なく文学作品を朗読することにも意味がある。

 そういうことのぜんたいをざっと見渡すための雑纂がこの一冊である。

(前掲書、10頁より引用)

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モノと文化、人と歴史と認識と―関根達人『モノから見たアイヌ文化史』

もう1年以上前になるが、私は以前こんな記事を書いた。

交流、混淆、変容 ―『アイヌ学入門』という本から再確認した文化観 - Danse Macabre!

 

生まれも育ちも北海道なのに、北海道の歴史が、はっきり言ってよくわからない。

小中高時代で習ったことによれば、北の大地に展開するものは縄文時代→続縄文時代→擦文→アイヌの伝統文化(時期が不明瞭、漠然と現在まで続く)、明治時代の開拓使→いきなり空襲、突如炭鉱。社会見学や修学旅行(小学生の時か?)で北方民族に関する資料館に行ったことはあったが、そこにはまったく聞いたことのないナントカ文化の展示物が漠然と広がっていた(あと、いきなり刑務所にも行くよ!)。

学校教科書で習う歴史からも遠く、また近年盛んに言われるようになった「アイヌ文化の豊かな精神世界、自然との共生」からも遠い、という感覚を持っている人が多いのではないだろうか? 自分たちの住んでいる土地の歴史がぶつ切りの断絶だらけで、しかも教科書的な日本史の世界からも遠く隔たっていることから(よく考えたら北海道という名称すら歴史的に新しい)、どうにも「歴史」というものに対して親しみがわかない。道南の地域に住んでいれば、かろうじて松前藩の存在に親しみを覚えるのかもしれないが。断絶だらけの歴史を子供の頃に習ったからか、私には明確な帰属意識がない。郷土愛もなければ、そもそも和人でもアイヌ民族でもないような気持ちが胸の奥底にある。勿論、琉球でもロシアでもないのだけれど。

近くにいる人に聞いても、やっぱり誰もが北海道の歴史について判然としないイメージだけを持っている。かえって観光客のほうが、北海道の文化に詳しかったりする。主にアイヌの伝統文化についてだけれど。よほどの専門家でない限り、北海道の歴史を語ると一般的に「アイヌ民族の文化」の話になるか、近代以降北海道にやってくる開拓使節団の話になってしまう。

 

前置きが長くなってしまったが、本題はここから。

単純に知りたいという欲望(?)から一年に一冊くらいは北海道の歴史に触れた本を読むのだけれど、今年読んだ本はこちら↓↓

 

関根達人『モノから見たアイヌ文化史』(吉川弘文館、2016年) 

モノから見たアイヌ文化史

モノから見たアイヌ文化史

 

 

著者は「蝦夷地の歴史は、アイヌをはじめとする北方民族と北方へ進出した和人の双方によって営まれた歴史であり、さらには中国やロシアとの関係性のなかで形成された歴史である。蝦夷地がどのような経緯で民族の土地から日本国へ編入されるに到ったのか、内国化の前史を、考古資料・文献資料・絵画資料・民具・民族調査(聞き取り)などにより多角的に検証する必要がある。」(前掲書、13頁より引用)とした上で、歴史考古学(中近世考古学)の成果や手法を従来の蝦夷地研究に応用していく。ここで言う歴史考古学とは、ざっくり書いてしまえば「文字を使用している時代を対象とした考古学」くらいの意味になる。豊富な「文献資料」と「遺跡」の両方から歴史にアプローチすることができる分野だ(両方からアプローチできるということは、ある程度両方の知識が必要だから大変と言えば大変かもしれない……)。

アイヌ民族は文字記録を残さなかった。アイヌ民族について残っている文献史料や絵画資料はすべて和人によって書かれたもので、そのまま解釈するのは妥当ではない場合が多い(何故なら、書くという行為にはすべて書き手の主観が混ざり込んでしまう、という性質があるから。今も昔もどんな文化に対してもそれを語る時には、書き手(語り手)の偏見が混ざり込んでしまうことを忘れてはいけないと思う)。

文献史料を残さないアイヌ民族の遺構に対して、どのように歴史考古学の手法を応用するというのか? 従来の「アイヌ考古学」は遺構の時代を特定するために主に噴出年代の判明している火山灰層を手掛かりに進められてきた。しかしそれだけだと、痒い所に手が届かない式の問題も出てくる。火山灰層がなければ手がかりがないとなると、年代がはっきりしなくなる遺構や遺物だらけになってしまう。そこで歴史考古学の手法を応用する。文化とは隣接する他の文化による影響を受けて、常に流動しているものである。蝦夷地と本州が数世紀の間没交渉であるはずはないし、アイヌの遺物をよく見てみると大陸文化の影響もみられる。アイヌの墓などから出土した遺物群の中には、すでに歴史考古学の分野で編年研究の進んでいる和人のモノ(和産物)も含まれる。考古学の分野では同じ地層から発掘されたものはよほど特殊な事情が無い限り同じ時代のものである(よほど特殊な事情……? 古より先祖代々伝わるモノは同時代の制作ではない、また後世の人が作為的に埋めたりしなければ……ってそれは捏造か笑)。和産物との共伴関係と火山灰の両方を検討することで、より精密な年代の特定が可能となるアイヌの遺物が存在するのだ。しかも、アイヌの人々に受容された和産物は単に編年に役立つだけでなく、和人とアイヌの政治的・経済的関係性を追求する上で重要な役割を果たす。」(前掲書、20頁より引用)のだから素晴らしい。編年研究に使った後はそのモノの属性によってさらなる分析ができる。

 

アイヌ文化は、南方に対しては、列島規模で展開し始めた中世的日本海運の北上により対和人交易が飛躍的に拡大する一方、北方に対しては、サハリン島への進出にともないアムール女真文化との文化的接触を受けたと考えられる。アイヌ文化はこうした南北双方の文化的影響を受け、擦文文化が「化学変化」して生成したのではなかろうか。

(前掲書、8頁より引用)

 

著者の結論はこうだが、これを説明するために様々なモノについて検討された成果がこの本だ。単純にどういうモノが、どういうふうにアイヌ民族によって使用されていたのかという所だけでも面白いし、モノに使用からうかがえる近世のアイヌ民族と和人の距離感に新しい印象さえもたらしてくれる(近世期に対和人関連で登場する人物は反乱を起こしたシャクシャインコシャマインだけではなかった、その名をハリハリホクンと記された人物がいる、対ロシア政策に関して重要な役割を担い日本側に協力的だったカラフトアイヌの存在が石碑から浮かび上がったようだ)。

アイヌ民族が和人から受容したモノもあれば受容しなかったものもある、さらに受容したけれど和人の思惑とは違った用途に使用していたモノもある(貨幣経済に組み込まれていないアイヌは、和人の持ち込んだ銭を単純に飾りの一部として利用していた、オシャレなのである)。

 

文化のダイナミズムをモノ資料とその検討から描き出した本書は、蝦夷地の歴史が決して和人、アイヌのどちらか一方によって紡がれてきたものではなく、互いに様々な文化的影響を受けながら今日まで繋がっているということを垣間見せてくれた一冊だった。博物館や資料館へ出かけた時にちょっと思い出してみると、モノの見方が変わるかもしれない。

 

おまけ。私がてきとーにドライブに行ったときに撮影した写真。この墓碑についても書かれていました。↓↓

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僕たちが立つ場所―いしいしんじ『海と山のピアノ』

今回はいしいしんじ『海と山のピアノ』(新潮社、2016年)という本について書いていこうと思う。発売された時、表紙が可愛いということで話題になっていたのは記憶に新しい。書店へ行ったところ、新刊本コーナーにあったこの本の可愛さには抗えず……買ってしまった(笑)

 

命をはぐくみ、あるいは奪う、水の静けさ、こわさ、あたたかさ。響きあう九つの物語。

山で人が溺れた日から半年、グランドピアノとともに町に流れ着いた一人の少女。子守唄、海の歌、重なってゆくピアノと人びとの歌声、そして訪れる奇跡――。全篇をとおして音楽が鳴り響く「海と山のピアノ」。四国という土地がたっぷりと抱き込んだ命の泉に浸されるような「ふるさと」など、豊かな物語性にみちた水にまつわる短篇集。

新潮社HPより引用

 

 

海と山のピアノ

海と山のピアノ

 

 

短編集で9作品収められていて、実は新潮掲載分はすべて雑誌発売時に既読。今回「野島沖」(初出『東と西2』小学館刊、2010年)以外はすべて再読という感じに。

「ふるさと」という作品が雑誌掲載時からとても好きだったので、今回単行本になって嬉しかったし、こう一冊にまとめてもらえると一つ一つの作品と再会できるだけでなく、以前読んだ時とはまた違った読み方でもう一度楽しめるらしい。

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収録作品をメモ程度に書いておく。

「あたらしい熊」「ルル」「海賊のうた」「野島沖」「海と山のピアノ」「秘宝館」「川の棺」「ふるさと」「浅瀬にて」

 

私は特に「ルル」「野島沖」「ふるさと」「浅瀬にて」が気に入っている。

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この作品たちは、固定観念にがんじがらめになっていたら読めないと思う。

自分が当たり前だと思っている世界観(物の考え方など)を一旦手放してみること、その面白さとこわさがすべての作品から感じられた。それぞれの作品に提示されている物語の前提がまずピンとこない。私達がふだん暮らしている場所には絶対にない習慣や風景が当たり前のように描かれている。そこに「物語」としての必然性がない、という批評は成り立ちそうだが、そう言って切り捨ててしまうのはあまりにもったいない。いっけんすると「やさしい物語」にみえるこの本のいしいしんじ作品は、実はストーリーを読むというよりは、「読者が自分の立ち位置に敏感になる」ように仕向けられていると思う。

ストーリーのぶっ飛び感はラテンアメリカ文学を読んでいれば結構普通に受け入れられてしまう。そこに新しさはない。「野島沖」という作品では登場人物たちがいつの間にかクロマグロになっている(笑)さらっと一行程度で。そこに魔法も理由も何もない、ただなんかクロマグロになっている(笑)この登場人物たちというのは、そもそもクロマグロを獲る漁師たち。そんな彼らがクロマグロになって、延縄を引く。そしてその重さに自分たちは「海を引いている」のだと思い同時に「海に引っ張られている」とも思うのだ。

「海賊のうた」に登場する「ボール」も面白い。以下に「ボール」に関する文章を引用してみる。

 

上半身裸の「ボール」は、鉈一本で流木をベンチ風に削っては、つぎつぎと、なだらかな砂浜に転がしていく。(前掲書、65頁より引用)

 

おんなは酒を注いでは配り、コックはプラスティックの皿に魚スープを盛りつけ、ボールはベンチに流木を叩きつけ、野放図なドラムの演奏をはじめた。」(前掲書、70頁より引用)

 

運転は、奇跡、コック、俺、のちにはおんながハンドルを握ることもあった。ボールはどこにいっちまうかわからないから危なかった。(71頁より引用)

 

幅広の手こぎボートを、ボールがバランスよく支え、浜の真ん中まで軽々と運んでくる。

(85頁より引用)

 

ウアー!奇声を発し、ボールが跳ねる。砂を散らし、弧をえがいて、ひとが飛べるとは信じられない高さまで跳ねあがる。おばさんも俺たちも、驚きなしにその跳躍を見守る。(中略)ボールのかたちが膨らんでは縮み、勢いをつけてバウンドしては首が痛くなるほどの高さまではずむ。(94頁より引用)

 

水平線が黄金色のナイフとなって、宇宙を真一文字に切り裂く。海にぽっかりあいた傷口から、五十億年燃え続ける炎のボールが、じりじりと上がってくる。(95頁より引用)

 

おわかりいただけるだろうか? 「ボール」という作中の言葉が人物の固有名詞なのか、私たちが普段目にする球体のボールなのか、はたまた太陽なのか。たった一言「ボール」という言葉にこれほど多様なイメージを与えて一つの作品内で変奏してみせてくれるなんて……!(ちなみに上に引用したボールがすべて同一のボールなのかはどこにも書かれていないのでわからない。)物語の力を駆使して、言葉のイメージを膨張させ読者に豊かなイメージを与えてくれる作品。無駄に思える(というかどうしてこの言葉がここで使われているのかよくわからない)単語が、別の個所に出てくる単語と響き合い、新イメージを提示してくるこの感じはいしいしんじに固有のかなり独特な手法だと思う。

言葉、という誰もが当たり前に使っているものに敏感になればなるほど、それは当たり前のものじゃなくなってくる。私が「言葉」と書いた時の「言葉」の意味は、あなたが今思い浮かべている意味とは違うかもしれない。言葉というものは、しょっちゅう人と人の間で誤解や面倒事を生むけれど、敢えて前向きに捉えればその幅の広さこそがひとつの「可能性」なのかもしれない。そう思わせてくれる作品なのだ。

 

話が少し逸れてしまったが、「読者が自分の立ち位置に敏感になる」ように仕向けられているということについて、もう少しだけ書きたい。

「浅瀬にて」という作品が最もダイレクトに人の立ち位置について書いているように思えた。一読した時は何か時間や空間についてすごいことを言っているのではないだろうか?と思ったのだが、その感覚はある意味では間違っていなかった。

私達が「時間や空間」について語る時の「時間や空間」は固定観念にがんじがらめにされた一般的な感覚である。「浅瀬にて」には「土地の起源(僕たちの祖先の男女は砂漠を歩いていて出会ったというもの)」と、「今現在海原に囲まれて暮らしているのに習慣としてほとんどの人が海に入らない人々」が描かれている。海に入らない人々は祖先は砂漠を歩いて出会ったというのを当たり前のことだと思っているけれど、五軒に一人くらいの割合で存在するという海に入る子供のひとりである「僕」は、その神話に違和感を持っている。実は祖先は海底を歩いていたんじゃないか、そうして歩き続けて陸地に辿りついたのではないか? と子供ながらに考えている。

ある日、海や風の様子がおかしいということで、人々は「海の塔」というものを建てる。その塔には海浜の漂着物を貼りつけていくのだが、古い漂着物を下に、新しいものほど上にという一定のルールがある。陸から空に向かって聳える「海の塔」は陸から空に向かって時間が積み上がっているような構造になっている。海と陸、陸と空、それぞれの関係について私たちは一定の共通認識を持っているわけだが、いしいしんじの描写はそういう共通認識を崩していく。

 

「僕」の友人で海に入る「蟬」というあだ名の人物が海へ飛び込む描写がこんな具合だ。

 

「髪をなびかせ、磯の縁から蝉が飛びこむ。揺れる青空に、さかさに飛びあがっていくみたいに。」(250頁より引用)

 

物語の途中、海に潜った「僕」は海底のほうに「不定形の小児たち」という私たち人間の理解を越えた存在を見る。陸でも海底でもないところに「僕」がいる頃、「蟬」は海の塔に昇ることで陸でも空でもないところにいる。「不定形の小児たち」の側から見れば「僕」はきっと空に浮かんでいる存在に見えるだろう。ここではっと気がつくのは、「底」ってどこなんだろう? ということ。私達が安心して足をつけていられる「底」というのは実は相対的なもので絶対なんかないのではないか?ということに気がついてしまう。

 

不意に、自分の立っているこの地面が、この世の底のような気がした。頭上にひろがっているのは空でなく、ほんとうは海原で、僕たちは潮を吸い、潮を胸から吐き出して呼吸している。そう、塔が示すとおり僕たちは、いちばん古い海の底に立っている。

(259頁より引用)

 

「絶対的」だと思っていたものが呆気なく崩れることだってある。そんな時、我々は自分の立ち位置に敏感にならざるを得ない。敏感に、というか立ち位置について柔軟に捉えることを求められることだって、生きていれば普通にある。「あなた」と「わたし」の感覚の違い、そういうものにふと気がついた時、どちらが正しいかという思考抜きに私達は暮らしていることに気がつく。

今自分がいる地点というものは、自分にとっては陸地であっても、別の存在(人間にはわからない存在)には海の底に見えているかもしれないし、空に浮いているように見えるかもしれない。私達が生きている場を相対化した物語、そんな風にこの作品を楽しんだ。

 

 

僕たちは、光のとどく浅瀬にいる。そこで、ふくらんだり、ちぢんだり、つながったり、ところどころ、穴があいたり、そんな風に息づいている。

(278頁より引用)

 

「浅瀬」というのは海のようで陸のようで、どちらとも言えない曖昧さがある。潮の満ち引きによって状態も変わる、決して不変の場所ではない。「光のとどく浅瀬」だから、空の色を写していることだってあるだろう。そういうところに「僕たち」は暮らしている。

 

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人生が凪ぐ時―ル・クレジオ『偶然――帆船アザールの冒険 アンゴリ・マーラ』

今回紹介する書籍にはふたつの小説が収録されている。「偶然――帆船アザールの冒険」と中篇小説の「アンゴリ・マーラ」だ。当ブログでは今回「偶然――帆船アザールの冒険」についての感想を書いていきたいと思う。

 ル・クレジオ、菅野昭正 訳『偶然――帆船アザールの冒険 アンゴリ・マーラ』(集英社、2002年)

 

偶然―帆船アザールの冒険

偶然―帆船アザールの冒険

 

 

思い出の現実性は日に日に、時々刻々に薄弱になり、ぼろぼろ崩れ、ちりぢりに消えていった。現実性とは、つまり時間割のことだった。七時に起きること、掃除、便器の汚れ落とし、床磨きなどみんなが順番にやる雑役。授業、学習、食事、授業、学習、食事。参加随意の礼拝堂での瞑想、あるいはまた井戸の底を覗きこむように画面を見つめるテレヴィの番組、動きまわる人物とか、女の歌手とか、おしゃべり好きの女たちとか、ある精神病院の日誌の抜粋をもとにして作ったショウとか。頭のまわりに輪があって締めつけられ、敷布(シーツ)に汗が貼りつき、眠れない夜々。暗がりでマスターベーションをしている娘たちの吐息。

(前掲書、155頁より引用)

 

この小説を一読した時、私は作品に描かれた「損なわれるもの」ということに注目して読んでいた。人生の中では実にたくさんのものが失われたり、忘れ去られたりしていく。「損なわれるもの」、それは破壊に直面する物体であったり、人が去って行くことによって失われる関係性であったりする。前者で最も印象的なものは帆船アザールだ。様々な偶然の中で、様々な偶然を乗せて、帆船アザールは突き進み、やがて停止し、廃船となる。「アザールは一年前からヴィルフランシュの正面埠頭に釘づけにされていて、ゆっくりと難破船の残骸に変わりつつあった。」(前掲書、151頁より引用)という帆船の運命は、その船長である映画監督の男モゲルの没落と重ね合されている。モゲルの人生の全盛期に帆船アザールは勢いよく波を切って大洋を渡っていた。それが最後は沈められ、モゲルの命も病院で尽きてしまう。帆船が損なわれる前に、その帆船に乗り込むことになった少女ナシマも多くのものを損ないながら生きている。たとえば彼女の父、ケルガスはある日突然去ってしまって行方不明だし、父親がいなくなってしまったことによってそれまでの生活にあったありとあらゆるものを手放すことになってしまった経緯が語られる。母ナディアも変わってしまった。帆船アザールに乗り込んだナシマはその冒険の中で生きていることを実感するが、やがて冒険は終わってしまい、その思い出も失われていく。同時に「過去のナシマ」も失われていく。

 

「ナシマは別の人間になってしまった。彼女はほとんどすべてのことを忘れた。」

(前掲書、14頁より引用)

 

「別の人間になる」ということは、作品内に何度か出てくる言い回しで、この小説はひとりの少女とひとりの映画監督の男(モゲル)がそれぞれの人生の中で「変わっていく」ことを描いたものだと私は思った。変わっていくことに対して、それが良いことだとか悪いことだとかという価値判断はなされていない。ただ、変わっていくものがある。それはすべて「偶然」による、ただそれだけのこと。

時々、ナシマの人生とモゲルの人生の中にある諸要素が重なり合って見える部分がある。たとえばナシマの父とモゲルその人、ナシマとモゲルの娘サリータ。それからマテという少女。決して交わることのない登場人物たちが、偶然交わることになった登場人物たちの交流の中で思い出され、重ね合される。そういう瞬間をちらつかせながら、しかし人生の時間は過ぎていく。

私達はあらゆるものを損ないながら生きている。

何も壊してはいないようでも、一秒一秒を消費し、消費されたすべての時間は偶然の中に投げ込まれていく。過去を慈しむようなル・クレジオの描写(単純ではないが回想形式のような雰囲気のもの?)であるのに、その大切な過去さえ忘れてしまう人物たちが描かれていて、読者が獲得したイメージが裂かれていく。あらゆるものが損なわれていく。現在の自分自身もやがて「過去の自分」として忘却され損なわれる。同時に周囲との関係性も変わっていく。日常生活の一挙一投足も過ぎ去って行く。

しかし、こういうことに敏感になって考え込んでしまう時というのは「人生の凪」とでも言うべき時期ではないだろうか?物事が進まなくなった時に人は立ち止まって考えざるをえなくなる。

実はナシマが乗組んだ帆船アザールが驚異的な凪の中で停止してしまう場面があるのだが、その時の静寂は乗組員(モゲル、ナシマ、アンドリアムナの三人)を不安に誘う。

 

ナシマはデッキへあがった。デッキの床板はもう熱くなっていた。船の周囲では海は滑らかで、暗い色をし、細かな震えに覆われて円滑に動いてゆく緩やかな波のうねりですこし窪みができた。どの波もやっと一息ついたというような、深い溜息をつくような音を立てて船体の下を通過し、そして船のほうはまるで痛みに苦しむかのように軋むのだった。

それは不安を誘うものだった、そういう重苦しい打撃によって中断されるその静けさは。アンドリアムナは放心したような表情を浮かべていたが、海の麻痺状態が彼の中に入りこんでしまっていた。

(前掲書、92頁より引用)

 

「一日一日が長く、日々がどんなふうにいつ始まったのかよく分からなかった。」(前掲書、84頁より引用)という感覚に過ぎ去って行く時間。モゲルはナシマに向かってこんなことを語る。

 

モゲルも太陽の広がりを前にして物思いにふけっているように見えた。「この航路以上のものはないんだよ」、と彼は言った、「これだと二つの世界のあいだを進むんで、そのどちらに属するということもないし、それに最後まで行きつけるかどうかさえ確かじゃない。これは砂漠のようなもので、名前もないし、特徴もないし、誰のものでもないし、歴史もないし、いつでも新しいんだ。」

(前掲書、85頁-86頁より引用)

 

どうやら私は「どちらに属するということもない」というどっちつかずの宙ぶらりんの状態に興味があるらしい(だからこんな風に読んでしまう、あまり良い読者ではない)。たとえ進んでいても、それが安定を保障された航路ではなく、しかもべた凪状態に陥ってまったく動けなくなってしまうという「冒険」のイメージから遠く離れた場所で、人はふと時間が過ぎていくということに思いを馳せてしまうのではないだろうか。ナシマは凪の只中で、その日がちょうどクリスマスであることを思い出すのだ。

 

私にとって人生とはだいたいこんなもので、静かに凪いだ時間の中で過ぎて行ったもの(損なわれたもの)を回想する。逆に何かを順調に進めている時に「時間」を意識することはない。回想した時間もあっという間に過去になり、そうしてまた別のどこかで回想されることになるのかもしれない。そうして、変わっているということに、変わってしまったものたちに囲まれて気がつく。別の人間になってしまって多くの物を損なって立っているのだ。たぶん、一生がこんな風に過ぎていく、それが良いとか悪いとか、そういう価値判断とは別に時間は過ぎ、そのすべてが偶然の中に流れ込んでいく。

束の間の越境―ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』

今回は前回に引き続きル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』より「童児神の山」と「水ぐるま」という短篇作品を2本紹介したいと思う。

 

ル・クレジオ 著 豊崎光一、佐藤領時 訳、『海を見たことがなかった少年』(集英社文庫、1995)

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

 

 

どちらの作品も「束の間の越境」を経験する少年の物語だ。「自分」を離れることの楽しさ、怖さを読んでいて感じた。束の間の越境、言い換えれば「ちょっといなくなる」という感覚は前回の更新風に言えば、子供の感覚に属するものだろう。子供たちは時々日常の外側へと平気で乗り出していく。大人になってしまうと自分の時間に生活が圧し掛かってくるせいか、この「ちょっといなくなる」ことが難しくなってしまう。簡単に日常の外側に抜けられない。私の大好きな「蒸発」(?)も生活がかかればそう易々とできなくなる(だから本を読むのかもしれない、読書は大人さえも簡単に違う世界へ連れ出してくれることがある)。

今回紹介する作品はどちらも小説の構造が面白い。そしてその構造からル・クレジオが密度の濃い描写で広げていく風景は美しく、何度でも読んでしまう。

 

■「童児神の山」

主人公の少年ジョンは六月の光に連れられてレイジャルバルミュール山を登る。ジョンが山を眺めると、まるで山のほうからも彼を眺めているような「視線」を感じていた。けしてゆるやかで楽しい登山ではなく、熔岩と玄武岩の鋭い岩壁に齧りつくように登る。風にあおられながらなんとか頂上に辿り着いたジョンは不思議な石を見つける。

 

そのときジョンは、今しがた小さな谷になった石塊をよじのぼっていたときと同じ身慄いを感じた。石ころはまさにこの山の形をしていたのだ。疑う余地はなかった――幅の広い角張ったふもとの部分も、半球形の山頂も同じだったのだから。

(前掲書、141頁より引用)

 

山の頂上で、自分が今しがた登ってきた山のミニチュア版みたいな石を見つける。ここから先の描写の広がりが圧巻だ。繰り返し登場する「視線」というモチーフの意味もここでようやくわかる。

 

ジョンは、目がかすむようになるまで顔をその黒い石に近づけた。熔岩の塊は大きくなり、彼の視線をすっかり埋めつくし、彼のまわりに広がっていった。ジョンは徐々に、自分が躰と体重をなくしてゆくのを感じた。今や彼は、雲の灰色の背中に寝そべって漂っており、そして光が全身をくまなく貫いていた。

(前掲書、141頁)

 

ジョンがこれまで麓から山を眺めた時、山のほうから感じていた「視線」。神的なこの「視線」をジョンとともに読者は体験することができる。山とジョンの大きさが「小さな石」を介してすり替わっている。はじめは山がジョンを圧倒的な大きさで包んでいた、その山とまったく同じ構造をした石を見下ろすことでジョンは、今度は山よりも大きくなって「視線」でそれを包み込むのだ。山のほうから感じていた「視線」、この非日常的な感覚を非日常的な「視線」の側から読者は辿り直すことになる。ここに少年の越境がある。

この視線を使った越境のあとで、彼は不思議な子供に出会う。あるいはこの子供が「童児神」なのだろう。山の頂上でひとりで生きているという子供は現実的な存在ではない。だが、ジョンとこの子供の間にある「人間」と「神」の境界線はすでに視線を使って乗り越えられていた。山の上という非日常的な場に「ちょっと行ってみる」ジョンの冒険は、生活の場という物理感覚以外の点でも不思議な越境を経験して、最終的に「人間の領分」に戻って行く。何度か登場する彼の「新品の自転車」の人工的な輝きは、レイジャルバルミュール山の神的な光に対して「人間の領分」を鮮やかに描いている。

 

 

■「水ぐるま」

夜明けから夕暮れまで、太陽の運行とその時間的変化とともに立ち現われてくる「ヨル」という神話的な世界。その中に一瞬だけ入り込むジュバは神話の王であると同時に熱い真昼の太陽に焼かれた労働者なのだ。牛を引いて夜明けとともに労働に赴く少年ジュバ。彼の牛が円形の道を歩き、水ぐるまの歯車装置を始動させる。水ぐるまに組み上げられた水が大地を潤す。その時間の推移の中で、太陽は昇り、沈む。まるで水ぐるまの回転によってすべてが引き起こされているかのような円環した時間を感じる日のめぐりは水ぐるまのようにぐるぐる回る。巡る、繰り返す。そんな円環だ。単調な労働生活が少年の時間の中に昨日も今日も明日も存在し続ける。そんな時間の中にヨルが現われる。

彼の父によると、ヨルは「死者たちの霊だけのための都市」である。ずっと昔その都市をおさめていた若い王の名はジュバと同じ名前だった。

 

それから、太陽が車輪と牛の歩みに導かれて、ゆっくりのぼってゆく一方で、ジュバは眼を閉じる。熱気と光が心地よい渦となって彼をその流れに乗せ、広大な輪に沿って引きさらってゆく。その輪は実に広大で決して閉じることがないように思える。ジュバは白いハゲタカの翼に乗り、雲のない空のとても高いところにいる。

(前掲書、164頁より引用)

 

これがジュバの越境だ。いつの間にか空の高みにいるジュバはまるでヨルの支配者として群衆のざわめきやまばゆい光に包まれているように見える。

 

しかしヨルの出現は束の間である。太陽が沈んでいくと、ヨルは静かに崩壊していく。

 

大地では影が長くなり、太陽は徐々に西に、神殿の左方に降りてゆく。ジュバには、建造物が揺れて崩れてゆくのが見える。それらは雪のようになだれ、水ぐるまの歌が空と海で重々しさと嘆きを増す。空には大きな白い円、大きな波があって泳いでいる。

(前掲書、171頁より引用)

 

ジュバは今やヨルの廃墟で一人きりだ。緩やかな波動が壊れた大理石の上を通りすぎ、海の表面を乱す。円柱は水底に横たわり、石と化したこの大きな木の幹は藻のなかに埋まり、会談は呑みこまれてしまっている。もうここは男も女もいず、子供たちもいない。都市は海の底で揺れる墓場さながらで、波が寄せてはディアーナの神殿の階段の最後の数段を岩礁のように打っている。単調な音、海のざわめきは相変わらず続いている。それはまだ軋み、唸りをあげる大きな歯車の動きであり、一方轅につながれた番(つがい)の牛は円形の歩みを緩める。

(前掲書、171頁より引用)

 

空が印象的な描写が続く中で、死のイメージを喚起させる「海の底」の描写。今まで描かれた「生きていた」ヨルのイメージが途端に死に染まり、太陽もあるいは海の底に沈んでいく。そもそも「死者たちの都市」だったヨルが静かに言葉通りのイメージに落ち着いていく。しかし、水ぐるまの円運動に支配されているこの作品の時間はぐるぐるとまわる。

 

たぶん明日になれば大きな木の車がまた回りだして、牛がゆっくりと喘ぎながら、円形の道を歩きだせば、たぶんそのとき都市はふたたび真白な姿、太陽の照り返しのように震えるこの世のものとも思われぬ姿を現すだろうか?

(前掲書、171頁-172頁)

 

一日の労働を終え、再び牛を引いてジュバは道を急いで「生者たちの待つ家々の方へと歩いてゆく」(173頁)のだ。

 

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夢想としてまるで絵のような風景をみる―ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』

いつの頃からか、毎年に夏になると必ず読み返す本がある。

ル・クレジオ(豊崎光一、佐藤領時 訳)『海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』(集英社文庫、1995年)という本だ。

 

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

 

 

私にとってこの一冊は夏になると読みたくなるもので、今年も夏も終わりのほうになってようやく再読することができた。光に溢れた短篇小説集で、「子供の眼差」というものを本当に大切に描いた作品集である。

ル・クレジオが描く濃密な風景は私にとって架空の世界ではあるけれど、やはりいつも「なつかしい」。このことについては以前別の記事で紹介した。

 

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今回当ブログでは、この文庫に収められている作品のうち四作品を取り上げて感想を書いていきたい。更新は全2回の予定で、1回目の今日は「モンド」「海を見たことがなかった少年」の二作品について以下に書いていく。

 

 

■「モンド」

 

 

 

「モンドがどこから来たのか、誰にも言えなかったに違いない。ある日たまたま、誰も気がつかないうちにここ、私たちの町にやって来て、やがて人々は彼のいるのに慣れたのだった。」

(前掲書、8頁より引用)

 

こんな魅力的な描写で始まる作品、「モンド」。彼は10歳くらいの少年で、ある日突然「私たちの町に」やってきて、突然去って行く。物語としてはたぶんこれだけなのだ。作品中にはモンド少年が見た風景が丁寧に描き込まれていく。たとえば、防波堤の突端にあるセメントのブロック。彼はそのブロックのことをとても気に入っていて、その上に座って小声でちょっと話しかけたりする。出かけることもできずに終始同じところにいて退屈しているブロックの気を紛らわせてやるためだ。また別の時と場所で、モンド少年は「魚や蟹たちのために海のなかでものぼっている太陽」について考えてみたりする。少年はダディ爺さんから聞く鳩の話も大好きだし、知らない土地について釣師ジヨルダンに聞く話も好きだ。

 

「船は音もたてずにひとりでに進んでいく。紅海は真赤だ、陽が沈んでゆくからね」

(前掲書、20頁より引用、モンドに話す釣師ジヨルダンの台詞)

 

「モンドが見ていた風景」と、読者が小説を読みながら思い描いていた風景(モンドを見る風景)がゆるやかに重なっていく。

作品の途中に手品のシーンがある(25頁~26頁)のだが、今年読み返してその部分がとても面白かった。次から次へとあらゆる種類の変わった物が「ジプシー」の手の中から登場するこのシーンで、私はすっかり子供に戻ったかのように楽しい気持ちになっていた。たぶん、この町に住んでいた人々にとってもきっとそうなのだ。手品の仕掛けはわからない、たぶん複雑な仕掛けではない。難しいことは何もないのに、目の前に提示されると何故か楽しい気分にさせてくれるものがある。この感覚が「モンドがみた景色」として作中に描かれている。それは「大人の眼差」で語ることのできない風景だ。先に書いた部分について述べるなら、大人は普通セメントのブロックに話しかけはしないし、海の中に昇る太陽なんて想定しない。紅海は陽が沈むから紅い、というわけではない。「ほかの凧がみんな疲れて海に落ちてしまうまで」(52頁)という表現もあるのだが、大人の眼差しでは普通、凧という物体は疲れない。

だけれど、作品を読んでいるうちに、それこそいつの間にか「手品」を楽しんでいるように(そしてその手品の仕掛けはきっと単純なのだ)、私はすっかりこの小説に夢中になっている。

絵画的と言えば、文字を覚えたいと思ったモンドにアルファベッドを教える老人が登場する。この老人の文字の教え方が「記号」を教えるというよりは「イメージ」を教えるという変わったやり方をしている。

 

「二枚の羽を後ろに折りたたんだ大きな蠅のようなAの話をした。お腹が二つもあっておかしなB、CとDはお月様のようで、三日月と半月、Oは暗い空に浮かんだ満月だ。……」

(前掲書、61頁より引用)

 

絵画的というか、絵本のように親しみやすく楽しい文字の解説だ。

この話を聞いたあとでモンド少年が書いた文字はこんな具合だった。それが意味する絵画的な風景を楽しみたい!と思った人がいれば是非この本を手にとってもらいたい。

 

OVO OWO OTTO IZTI

(前掲書、63頁より引用)

 

 

■海を見たことがなかった少年」

 

海を見たことがなかった少年とは、一体誰だったのか。読み終えてそんなことをぼんやりと考えながら、ああ、そういえば私も「海」を見たことがなかったかもしれないと思えてきた。海(ラ・メール)、海、海。海はいつも大きな夢を隠している。波打ち際で少しずつ見せつけてくるくせに。風に乗せて磯のにおいを届けてくるくせに。

 

「彼の名はダニエルといったが、しかしできることならシンドバッドという名でありたかったところだろう、それというのもその冒険の数々を赤い表紙の、厚い本で読んだことがあり、その本をいつも、教室にも大寝室にも持ち歩いていたからだ。」

(前掲書、176頁より引用)

 

ダニエルが話をしたい「海」は、クラスのみんなが話す海(海水浴やダイビング、砂浜、陽射し)のことではなかった。ダニエルはただただ「海」を見たかった。彼は「海」への思いを募らせてついにある日、学校からいなくなってしまうのだ。

そして彼はついに「海」を見る。

 

彼は濡れた砂に座り、海が目の前でほとんど空の中心にまで高まるのを眺めた。彼は幾度となくこの瞬間を想像してきた。海をとうとう実際に見る日、写真や映画でのようにではなしに、本当に、海全体を、自分のまわりに広げられ、膨れ上がり、重なり合って砕ける波の大きな背中、泡の雲、太陽の光を浴びて埃のような飛沫の雨が、そしてとりわけ、遠くに、空を前にした壁のように湾曲したあの水平線がある海を見る日を幾度となく想像してきたのだ!

(前掲書、183頁)

 

しかし、ここで振り返ってみると、小説の語り手はダニエル(彼)ではなく、彼のクラスメートと思しき「私」という人物なのだ。つまり語り手は「海を見たことのない少年」のまま教室や大寝室でダニエルの不在と、彼の不在に対する大人たちを見ているだけなのだ。実際にダニエルがどこへ行ってしまったのか(どうなってしまったのか)語り手に真実はわからないし、調べる術もない。

だが、夢をみることはできる。「海を見たことのない少年」のまま、ダニエルがきっと見ただろう「海」について想像し、夢をみて、その風景の細部までも憧れを持って「私」は語る。この小説は「海を見たことのなかった少年」としていなくなってしまう前のダニエルを描きつつ、最後に未だ「海をみたことのない少年」を書いている。ル・クレジオは過去と現在を同じ密度で描いているように思えるが、夢想と現実にさえもそういった技巧を用いているのかもしれない。

 

われわれ人間はつい文明の万能感に酔わされて忘れがちなのだが、自分が生きている間に実際に行ける場所というのはごく狭い範囲に限られている。結局生きてうちに「海」をみることがないかもしれない。だがそのことについて閉塞を感じる必要はないと思う。「海を見たことのない少年」として想像し、語る自由は残されているし、シンドバッドの冒険を赤い表紙の本で読んでもいいのだから。

 

そのあと、彼(ダニエル)はどうなったのか? ああした毎日、毎月、彼の洞穴のなかで、海に向かって、何をしていたのか? たぶん彼はほんとうにアメリカへ、それとも中国にまで、出かけたのかもしれない、ゆっくりと、港から港、島から島へ行く貨物船に乗って。このようにして始まる夢は当然とどまるところを知らない。ここ、海から遠いところにいる僕たちにとって、すべては不可能かつ容易だった。僕たちの知っているすべては、何か不思議なことが起こったということだった。

(前掲書、196頁-197頁)

 

読みながら書いたツイート(@MihiroMer)のメモ↓↓

『海を見たことがなかった少年』は蒸発好きにはたまらない感じもある。これを初めて読んだ時から、おれはいつも蒸発してしまいたくなっているのだ。日常的な社会生活から切り離されたことに魅力を感じてしまうおれは、まだ完全におとなサイドにはいないのかもしれない笑。