言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

過去を生き直す眼差―ル・クレジオ『春 その他の季節』

今回は、ル・クレジオ(佐藤領時 訳)『春 その他の季節』(集英社 1993年)について書いていく。

 

春 その他の季節

春 その他の季節

 

 

あるひとりの人間は、あらゆる時間を同時に生きている。

この本を読み終えて、そんなことをふと思った。私達は案外「現在」を生きているだけではない。「現在」という時の中にあっても、私達の頭の中(あるいは心の中?)では「過去」も「未来」も、「現在」と同等の濃度をもって広がっているのかもしれない。日常生活の中に「思いを馳せる」という行為が広がっていく。過去へも未来へも、「思い」に制約はない。

 

この本は「春」「幻惑」「時は流れない」「ジンナ」「雨季」という五つの短篇小説から成る作品集だ。日本の「四季」とは一致しないが、それぞれの作品は人生の様々な時期を描いており、幼年期や青年期、成人、老年期、そして死の「懐かしい手触り」がこの一冊の本の中にはある。

 

不思議なことであるが、私はル・クレジオの描く風景に懐かしさを感じてしまう。小説の舞台となっている場に行ったことはないが、何故か懐かしい。今回紹介する書籍ではないが、ル・クレジオの「黄金探索者」もひたすら懐かしく、読みながら美しかったモーリシャスでの幼年期を何度も振り返りたくなった。サン・ブランドン島とか、ロドリゲス島の灌木とか、何故か知っているような気持ちになってくるのだ。「隔離の島」では「死」すらも懐かしく、また愛おしいもののように思える。『海を見たことがなかった少年』に出てくる大気や、光も不思議なほどに懐かしい。

その理由を今回本を読みながら漠然と考えていたのだけれど、それはたぶんル・クレジオの「回想」の書き方が大きく関わっている。過去と現在は絶えず錯綜する。思い出される過去、ル・クレジオの書き方はまるで回想を生き直しているようにも見える。と、いうのは回想として描かれる風景描写の密度が現在時制下の風景描写と変わらないのだ。そのせいか、主人公が懐かしむ光景がくっきり読者の前に浮かび上がり、こちらまでなんだか懐かしい心境になってしまう。その懐かしさに自然風景の美しさが重なることで、現在の悲惨さが多少薄れるのだ。

 

特に、「春」という表題作からそんな印象を受けた。海や太陽といった自然の風景と同時に、猥雑な路地や生々しい人間の生活の痕跡が浮かび上がる。現在と過去(回想)の風景が錯綜し、相反するイメージが混ざり合う。

物語としてはル・クレジオが度々扱っている「帰属する場所を失った少女」が、様々な出来事を経験して成長していく話(こういう書き方をするとなんてつまらなくなるんだろう。)成長の過程で感じる、別の人間に変わってしまうような感覚が痛いほど伝わってくる。そこには取り返しのつかない不可逆的なものがあるが、しかし記憶には一定の方向があるわけではなく、常に往還するものだからそこに救いがあるかもしれない。

「春」に限らず、収録されている作品にはどこか影のような暗がりを感じる。明るい風景と対照的に描かれる人生は暗い。それぞれの作品の主人公たちの暗い眼差。流れ去ってしまった時やかつて幸せだった風景、肉体的にはやはり後戻りはできない人生へのル・クレジオの眼差は鋭い。「不在」というものが色濃い存在感を放つ作品もあった。(例えば「時は流れない」)。

 

この本の中で私が一番気に入った作品は「幻惑」という作品だ。

この作品では主に二つの風景が読者に提示される。一つ目は「今夜、彼女が再び現われた。」という冒頭から始まる風景。「私」は大きなホールで二人の黒い服の女たちを見ている。一人は若く、一人は老いている。「世界を消し去るその見知らぬ若い女の眼差」によって喚起される「私」の記憶の世界、これが二つ目の風景だ。その回想とも呼べる記憶の世界の中で「私」は十三歳の男の子だった。そんな「私」が道端で見かけた少女と老女。特に少女の視線は時を越えて、いつも「私」を見ているような気さえする。この二つの風景に描かれる二人の女(印象的な視線で私を見返す「黒い服の若い女」と「少女」)が同一人物である、などとはどこにも書いていない。別人かもしれない。と、いうのも実は冒頭で若い女を見ている「私」というのも実は現在ではない。一体どこから回想しているのかは全く書かれていないが、「視線」というものから喚起された風景を並行して思い出しているようだ。

 

「世界を消し去るその見知らぬ若い女の眼差の下の、巨大で空虚な、ぞっとするそのホールの奥を今私は思い出す。自分では忘れていたと思っていたその瞬間それぞれを思い出す。」

(前掲書、130頁より引用)

 

「私」が見ている若い女の、私を見返す視線が、私の記憶を揺り動かし一人の少女を想像させ、少年の姿をした「私」がその少女を見つめ、そしてまた、少女に見返される。そんな風に時空を飛び交う視線こそがこの小説の主人公だ。視線が記憶の中を飛び回る。そんな風に読めた。

 

今やそのジプシー女の視線の橋は、私と私自身のもう一方の面とを結びあわせ、時の不規則な境界を取りはらっていた。

(前掲書、124頁より引用)

 

私にとって忘れがたい作品だ。たぶんいつかこれを回想する時に、自分の記憶の中であらゆる視線が飛び交い、小説そのものとは全く関係のない記憶の方まで飛んでいくのだろう。あたかも、「現在」であるかのように記憶を飛び回る視線は、過去を鮮やかに見せてくれるのだろう。

 

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