Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

夢想としてまるで絵のような風景をみる―ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』

いつの頃からか、毎年に夏になると必ず読み返す本がある。

ル・クレジオ(豊崎光一、佐藤領時 訳)『海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』(集英社文庫、1995年)という本だ。

 

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)

 

 

私にとってこの一冊は夏になると読みたくなるもので、今年も夏も終わりのほうになってようやく再読することができた。光に溢れた短篇小説集で、「子供の眼差」というものを本当に大切に描いた作品集である。

ル・クレジオが描く濃密な風景は私にとって架空の世界ではあるけれど、やはりいつも「なつかしい」。このことについては以前別の記事で紹介した。

 

mihiromer.hatenablog.com

 

 

今回当ブログでは、この文庫に収められている作品のうち四作品を取り上げて感想を書いていきたい。更新は全2回の予定で、1回目の今日は「モンド」「海を見たことがなかった少年」の二作品について以下に書いていく。

 

 

■「モンド」

 

 

 

「モンドがどこから来たのか、誰にも言えなかったに違いない。ある日たまたま、誰も気がつかないうちにここ、私たちの町にやって来て、やがて人々は彼のいるのに慣れたのだった。」

(前掲書、8頁より引用)

 

こんな魅力的な描写で始まる作品、「モンド」。彼は10歳くらいの少年で、ある日突然「私たちの町に」やってきて、突然去って行く。物語としてはたぶんこれだけなのだ。作品中にはモンド少年が見た風景が丁寧に描き込まれていく。たとえば、防波堤の突端にあるセメントのブロック。彼はそのブロックのことをとても気に入っていて、その上に座って小声でちょっと話しかけたりする。出かけることもできずに終始同じところにいて退屈しているブロックの気を紛らわせてやるためだ。また別の時と場所で、モンド少年は「魚や蟹たちのために海のなかでものぼっている太陽」について考えてみたりする。少年はダディ爺さんから聞く鳩の話も大好きだし、知らない土地について釣師ジヨルダンに聞く話も好きだ。

 

「船は音もたてずにひとりでに進んでいく。紅海は真赤だ、陽が沈んでゆくからね」

(前掲書、20頁より引用、モンドに話す釣師ジヨルダンの台詞)

 

「モンドが見ていた風景」と、読者が小説を読みながら思い描いていた風景(モンドを見る風景)がゆるやかに重なっていく。

作品の途中に手品のシーンがある(25頁~26頁)のだが、今年読み返してその部分がとても面白かった。次から次へとあらゆる種類の変わった物が「ジプシー」の手の中から登場するこのシーンで、私はすっかり子供に戻ったかのように楽しい気持ちになっていた。たぶん、この町に住んでいた人々にとってもきっとそうなのだ。手品の仕掛けはわからない、たぶん複雑な仕掛けではない。難しいことは何もないのに、目の前に提示されると何故か楽しい気分にさせてくれるものがある。この感覚が「モンドがみた景色」として作中に描かれている。それは「大人の眼差」で語ることのできない風景だ。先に書いた部分について述べるなら、大人は普通セメントのブロックに話しかけはしないし、海の中に昇る太陽なんて想定しない。紅海は陽が沈むから紅い、というわけではない。「ほかの凧がみんな疲れて海に落ちてしまうまで」(52頁)という表現もあるのだが、大人の眼差しでは普通、凧という物体は疲れない。

だけれど、作品を読んでいるうちに、それこそいつの間にか「手品」を楽しんでいるように(そしてその手品の仕掛けはきっと単純なのだ)、私はすっかりこの小説に夢中になっている。

絵画的と言えば、文字を覚えたいと思ったモンドにアルファベッドを教える老人が登場する。この老人の文字の教え方が「記号」を教えるというよりは「イメージ」を教えるという変わったやり方をしている。

 

「二枚の羽を後ろに折りたたんだ大きな蠅のようなAの話をした。お腹が二つもあっておかしなB、CとDはお月様のようで、三日月と半月、Oは暗い空に浮かんだ満月だ。……」

(前掲書、61頁より引用)

 

絵画的というか、絵本のように親しみやすく楽しい文字の解説だ。

この話を聞いたあとでモンド少年が書いた文字はこんな具合だった。それが意味する絵画的な風景を楽しみたい!と思った人がいれば是非この本を手にとってもらいたい。

 

OVO OWO OTTO IZTI

(前掲書、63頁より引用)

 

 

■海を見たことがなかった少年」

 

海を見たことがなかった少年とは、一体誰だったのか。読み終えてそんなことをぼんやりと考えながら、ああ、そういえば私も「海」を見たことがなかったかもしれないと思えてきた。海(ラ・メール)、海、海。海はいつも大きな夢を隠している。波打ち際で少しずつ見せつけてくるくせに。風に乗せて磯のにおいを届けてくるくせに。

 

「彼の名はダニエルといったが、しかしできることならシンドバッドという名でありたかったところだろう、それというのもその冒険の数々を赤い表紙の、厚い本で読んだことがあり、その本をいつも、教室にも大寝室にも持ち歩いていたからだ。」

(前掲書、176頁より引用)

 

ダニエルが話をしたい「海」は、クラスのみんなが話す海(海水浴やダイビング、砂浜、陽射し)のことではなかった。ダニエルはただただ「海」を見たかった。彼は「海」への思いを募らせてついにある日、学校からいなくなってしまうのだ。

そして彼はついに「海」を見る。

 

彼は濡れた砂に座り、海が目の前でほとんど空の中心にまで高まるのを眺めた。彼は幾度となくこの瞬間を想像してきた。海をとうとう実際に見る日、写真や映画でのようにではなしに、本当に、海全体を、自分のまわりに広げられ、膨れ上がり、重なり合って砕ける波の大きな背中、泡の雲、太陽の光を浴びて埃のような飛沫の雨が、そしてとりわけ、遠くに、空を前にした壁のように湾曲したあの水平線がある海を見る日を幾度となく想像してきたのだ!

(前掲書、183頁)

 

しかし、ここで振り返ってみると、小説の語り手はダニエル(彼)ではなく、彼のクラスメートと思しき「私」という人物なのだ。つまり語り手は「海を見たことのない少年」のまま教室や大寝室でダニエルの不在と、彼の不在に対する大人たちを見ているだけなのだ。実際にダニエルがどこへ行ってしまったのか(どうなってしまったのか)語り手に真実はわからないし、調べる術もない。

だが、夢をみることはできる。「海を見たことのない少年」のまま、ダニエルがきっと見ただろう「海」について想像し、夢をみて、その風景の細部までも憧れを持って「私」は語る。この小説は「海を見たことのなかった少年」としていなくなってしまう前のダニエルを描きつつ、最後に未だ「海をみたことのない少年」を書いている。ル・クレジオは過去と現在を同じ密度で描いているように思えるが、夢想と現実にさえもそういった技巧を用いているのかもしれない。

 

われわれ人間はつい文明の万能感に酔わされて忘れがちなのだが、自分が生きている間に実際に行ける場所というのはごく狭い範囲に限られている。結局生きてうちに「海」をみることがないかもしれない。だがそのことについて閉塞を感じる必要はないと思う。「海を見たことのない少年」として想像し、語る自由は残されているし、シンドバッドの冒険を赤い表紙の本で読んでもいいのだから。

 

そのあと、彼(ダニエル)はどうなったのか? ああした毎日、毎月、彼の洞穴のなかで、海に向かって、何をしていたのか? たぶん彼はほんとうにアメリカへ、それとも中国にまで、出かけたのかもしれない、ゆっくりと、港から港、島から島へ行く貨物船に乗って。このようにして始まる夢は当然とどまるところを知らない。ここ、海から遠いところにいる僕たちにとって、すべては不可能かつ容易だった。僕たちの知っているすべては、何か不思議なことが起こったということだった。

(前掲書、196頁-197頁)

 

読みながら書いたツイート(@MihiroMer)のメモ↓↓

『海を見たことがなかった少年』は蒸発好きにはたまらない感じもある。これを初めて読んだ時から、おれはいつも蒸発してしまいたくなっているのだ。日常的な社会生活から切り離されたことに魅力を感じてしまうおれは、まだ完全におとなサイドにはいないのかもしれない笑。